喪失

見て。


どうしたの、と男が女に視線を向ける。朝の光がうっすらと差し込んでいる薄暗い寝室で女は下着だけをつけた姿で男の隣に寝ていた。

いつもであれば、見て、と言われても生返事でそのまま微睡の心地良さのなかに漂っていたかもしれない。しかし、この時の女の声はぽそりとしたひと言のなかに聞き捨ててはおけない緊迫感があった。

女は薄暗がりのベッドの上に腕を伸ばし両の手で交互にゆっくりと左右の腕を撫でていた。

どうかした?

男は妙に胸騒ぎがした。女の横顔の無表情が怖い。この人はいつも僕が目を向けたときは大抵笑ってみせるのに、そんな気配もない。ただ自分の腕をヒラ、ヒラ、とさすっている。しなやかに傾げる手首や指先のシルエットが鳥のダンスのようで綺麗だ。


消えちゃった。


女がまたポツリと呟いた。

そこにはなんの感慨もなく、単なる報告でしかないからこそ余計に悲しくなるような響きがあった。

……何が?

男は慎重に尋ねた。なんでもないふりを装いながら、そしてそのことすら女には筒抜けなことを感じながら。女がとても遠く感じる。


ほら。見て。


女はそう言って男の前にそっと腕をかざしてみる。男には分からない。


ね、消えてるでしょう?


そうだね、としか言ってほしくなさそうに女は男の目を見つめた。しかし男には何のことか分からない。早く女がいつものように笑って甘えた抱擁をしてこないだろうか、とこっそり祈る。こんな時間は苦手だ。わけがわからない。


困ったわ。消えてしまうなんて。


女はようやく悲しそうに言った。男にはそのこともまた恐ろしい。隣あって肌が重なっているはずなのにどんどん冷え冷えとした断絶の境界線がふたりの間に生じてくるのを感じる。そして、一向に何が消えたのかが分からない。けれど女はそのことを、分からないということを許してはくれなさそうだ。男はなにも言えない。言葉が出てこない。


消えてしまうのね、やっぱり。


女はまたひとりの世界に戻ったかのように呟く。


また探さなくてはいけないのかしら。


男は泣きたくなると同時に腹が立ってきた。そう言えば女がこんなことを自分の前で口にしたのは初めてだ。はじめて心の声を聞いていると思いながら、なんて悲しいことを言うんだろう台無しじゃないか、と女をベッドから突き落としたくなった。そう思った瞬間いけない、と慌てて身を起こしてパジャマを拾う。

コーヒー淹れてくる。

ぶっきらぼうな声になりそうなのを極力悟られないようにしながら寝室をあとにする。


女の腕はまだベッドの上をひらひらと舞い続けている。今日は一日雨降りだろう。






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