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ヨルヲカサネ②

    アメと暮らすようになってしばらく、思い立って転職をした。通勤は、心を病んだ人間にとっては苦行でしかないと気づいてしまったから。在宅でできる仕事を探して、なんとか生活を安定させた今、もう一度あの雨の季節がやってきた。別に恨みはないんだけどさ。

「なんか、苦手なんだよなぁ」

    暗闇に引きずり込まれそうになる、あれと似た感覚に陥るから苦手だ。とは言ってもいい大人なんだから、恨めしく思う程度におさめておく。
    昼間でも薄暗い雨の庭を、アメと一緒に眺める。あぁ、この時間が止まってしまったような感じも嫌なんだ。膝の上のアメは、元々野良猫だったからだろうか、雨も雷もさほど嫌がらない。寧ろ、じっと興味深げに眺めているので好きなんじゃないだろうか。

「よく降るねぇ」

    例年より多いらしい雨は、はたして梅雨の晴れ間を作ってくれるのか。力の及ばないことに四苦八苦して。天気も、人の心も、変えられないことにいつも砕かれる。
    まんまと堕ちていく感情を、そのままにしてしまいそうになる。無理矢理顔を上げて、首を左右に振る。こうやって無理にでも顔を上げると、気合いが入るから不思議だ。

「あーダメダメ!…ん?どうかした?」

    ピクリと動く耳、少し体を起こして、じっと一点を見つめる。人間にはない野生が、なにかを見つけたのか、しばらくそのまま動かない。視線の先を追っても、わたしにはなにも見つけられなかった。
    たまにこうやって怖いことをするから、気を抜けない。ギクリとすることが度々起こるアメとの生活は、なかなかに刺激的だ。

「アメ?」

    呼び掛けにも応じてくれない。しょうがない、そろそろ仕事に戻るか。実は、今日やれることはほぼ終わってしまってるんだけど。頭の中でどこまでやるかを考えながら、アメを膝から下ろす。立ち上がったところで、呼び鈴が鳴った。

「…来客の予定はないはずだけど」

    知り合いはみんな、前もって連絡をくれるし、宅配が届く予定もない。先程のアメの様子もあいまって、背筋がぞわぞわと寒くなってくる。なんとなく足音を消してそっと、ゆっくりとした動作で玄関に向かう。できれば、この間に諦めて帰ってくれないだろうかと願いながら。
    すりガラス越しの人影を見つめること数秒。人生で初めてかもしれない、固まるという体験は。なんてことはない、ただ人が訪ねて来ただけ。少し大袈裟に息を吐いて、どちら様ですかと声をかける。

「お父様に昔、お世話になって…お線香を上げさせてもらえないでしょうか?」

    ほら見たことか!先程までの怖気が飛んで、そう叫びたくなる。子どもころは想像もつかなかった。一人暮らしをしていると大人は、たまに本当に、突拍子もなく滑稽なことをする。誰も見ていないのをいいことに。

「あ、どうぞ。上がってください」

    突然の来訪者、確かに数年前から途切れ途切れにあったことだ。わたしの中だけじゃない、父や母が関わった人たちの中に、ちゃんと両親の面影が残っていることが、なんだか誇らしかった。みんな寂しがってるよ、なんて言ってくれる人もいたな。
    仏間に案内すると、彼女は神妙な面持ちで仏壇の前に座った。違和感、とも言えないなんだかそわそわする感じ。表情は読み取れない。でも、なんでだろう、わたしには怒っているように見える。根底にあるのは悲しみなんだろうけど。でも、なにに対して?
    静かに襖を閉めて、台所へ向かう。あの空気はなんだか苦手だ。なんて、苦手なものが多すぎるな、わたし。グラスに氷を入れて緑茶を注ぎながら、ぼんやりと父の背中を想う。父のなにが、彼女をあんな風にするのだろう。
    ちらりと、嫌な考えが頭をよぎる。人間は、見たくないものは見えないようになっている。どこかで見かけたそんな言説。いやでも、今しっかり見えてしまってるんだけれど。

「考えすぎだって。あのお父さんに限って、そんなこと」

    真面目で、母のことが大好きな父。それがわたしの記憶の中の父だ。それが覆ることなんて、あっちゃダメなんだ。目を瞑って、深呼吸。息を整えて、ゆっくり目を開ける。そうやって考えすぎるから、変な方に進んじゃうんだぞって自分に言い聞かせる。カランと音を立てるグラスを持って、少し気合いを入れてから再び襖を開く。

「よかったらお茶、どうぞ」

    さっきより幾分体の力を抜いて、ぼんやりと仏壇を見つめる彼女に、声をかける。

「ありがとうございます」

    ついと上がった視線とぶつかって、わたしは目を瞬かせる。どうかこの動揺が、伝わっていませんように。この人、表情はないのに、目だけが異様に強い。別に目力があるとか、そういうわけではない。本人に自覚があるのかは分からないけど、さっきからずっと、怒っているように見えるんだ。底知れない怒りを、その目が訴えているような。

「あの…父とは、どういった…?」
「昔、同じ会社で働いていて…部下でした」
「そうだったんですか。わたし、会社での父を全く知らなくて」
「いい方でした。気さくで、誰にでも分け隔てなくて」
「へぇ…ちょっと、イメージ違うかも。うちでは、真面目で少し頑固って感じでした」
「ふふ、やっぱりお家と外では違うんですね」

    ちゃんとできている会話に、安心する。なんだ、やっぱり思い過ごしじゃないか。なにもかも、出だしが悪かった。ちょっと怖い思いをして、それが心にこびりついてしまっていたからかもしれない。彼女から感じた怒りのようなものも、気のせいだったのかも。

「あたしね、お父さんの愛人だったの」

    内緒話をするように、目の前の女がそう言った。耳じゃなく、心に届くような囁かな声で。

「……?は、え、なにを」

    うまく言葉を紡げないわたしに、少しだけ憐れむような目をした彼女。怒りしか見えなかったのに、今になってそんな。あぁ、そうか。彼女の怒りの原因は、これだったのか。

「…ごめんなさい」

    なにに対する謝罪なのか、彼女はまた、音もなく立ち上がってするりと去っていった。カランと氷の落ちる音ではっとして、玄関へ急ぐけれどすでに姿はなかった。いやに薄暗い玄関で、しばらくすりガラスを見つめる。
    父の愛人だと名乗るその女は、煙のようにその存在感だけを主張して、消えていった。残ったのは、わたしの苛立ちだけ。まるで、あの怒りを分けられたかのように、ふつふつと激情と呼んで遜色のない感情が湧き上がる。
    父の背中を見ながら遊ぶ子どもだった。ここがいい、ここで遊ぶと聞かなくてと笑う母に、そんなに駄々をこねていたかと、気恥しい思いで昔話を聞いていたことがある。そのときの感情は、正直あまり覚えていない。なんで頑なにそう主張していたのかも、今となっては分からない。ただ、そう、きっと父の背中が好きだった。少し前のめりに机に向かう、その姿勢がなんだか父の人生みたいで。わたしの知る父と、彼女の知る父との齟齬に、目眩を覚える。

「…あいじん」

    この嫌悪は、あの出来事を想起させる。忌々しい、記憶の中のあの、二人並んだ笑顔が、歪んでいく。もはや憎悪だ。のまれてしまう。やはりわたしは、あれを赦せない、どう足掻いても忘れるなんてできない。あの、焼けるような屈辱。あぁ、呼吸しなきゃ、息が、できない。

「にゃー」

    アメの鳴き声が耳に届くと、驚くほど綺麗にその激情は流れていった。わたし今、なにしてた?そう思うほど、心は凪いでいて。明らかにおかしな方向にいってた。ぶるりと身震いをして、アメを撫でる。
    まるで、誰かの感情と自分の記憶がごっちゃになったみたいだった。あんなの、初めてだ。ただただ恐ろしくて、アメをそっと抱き上げる。

「また助けてもらったね、ありがとう」

    気にするなとでも言うように、グルグルと喉を鳴らすアメにほっとする。白昼夢って、あんななのかな。一人で元恋人への恨みと闘っていたときとは違っていた。きっと、あの時間は、乗り越えるために必要だった。暗い過去ではあるけれど、いつかは捨てられるもの。
    でも。あれは、さっきのは、ひどくどす黒い。自分の中身がぐちゃぐちゃになるほどの、うねり。大きな波のような、制御できない感情。毒に当てられたようなものだと、果たして流していいのだろうか。

「…ほんとは嫌だけど、仕方ないよね」

    誰にともなく問いかける。腕の中のアメは、不思議そうな顔をして、首を傾げていた。少しだけ力を増して抱きしめたあと、そっとアメを下ろす。
    どうか、という切実な願い。あの女の虚言であってほしい。例え母との間にどんなに溝ができようと、父はそんなことしないはずだ。
    明確な否定の言葉がほしかったわたしは、意を決して、父の遺品がしまってある部屋へ向かう。あの日と同じようにアメは、わたしの横や前や後ろから気ままについてくる。
    深呼吸をしてから手に取った父の日記は、ずいぶんと重かった。今から、心の内を暴くんだ。重たいのは、罪悪感。しばらく、ぼんやりと日記を眺める。もし、ここになにも書いていなかったら?いやでも、これ以外に答えになりそうなものはない。

「ごめんね、お父さん」

    100パーセント信じられないのは、人の表と裏を知っているから。裏切られたと、打ちのめされたことがあるから。もしかしたら、そうなる前のわたしなら、こんなことをせずに笑い飛ばしていたかもしれない。
    ページを捲っていくと、いろんな思い出が溢れていた。できれば、両親の口から直接聞きたかったことばかり。せめて、丁寧に辿っていく。口にした謝罪の言葉を、すり込むように。

―妻に、触れられない。

    その一文は、わたしを落ち着かない気持ちにさせた。いつの間にか、重い荷物を持ってしまった。重すぎて、もう持って戻ることは無理そうだ。
    目を閉じて数回、深呼吸を繰り返す。戻れないなら、進むしかない。信じてるけど、信じてない。そんなもんだよねって諦めを心のどこかに置いておくのは、人間の本能なんじゃないかと思う。
    出産後、母はノイローゼのような状態だったらしい。父との接触を、極端に嫌がった。話し合い、カウンセリングにも通い、お互い疲弊しきって出した結論は、一時的な別居。なんとかわたしが物心つく前までには修復できたが、問題はその別居期間に起きていた。

―言い訳のしようもない、あれは過ちだ。

    一度だけ、いや回数の問題ではない、なりゆきで二人きりになった部下の女性と、何をどう言ったとしても悪いのは自分だ。言葉の断片を捉えながら、震える手を拳の形に握りこむ。
    後悔、自責、弁明、自責。書き殴られたそれらは、あの女を否定してはくれなかった。救いは、狡猾に誘ったわけではないことか。衝動、だったんだろう。丁寧な、深い謝罪の後、彼女は…キミコさんは、自ら会社を辞め去って行ったらしい。

「だったら、なんで今さら…?」

    この事実を、わたしに伝える必要があったのだろうか。嫌がらせ?知らせたかった?どういう心境にせよ、理解はできない。
    ただ。不思議なのは、再びあの渦をまく、どす黒い感情にならないこと。それどころか、少しすっきりとすらしている。もちろん、残念だという気持ちはあるけれど。母を蔑ろにして不倫に耽るだとか、何年にも渡って母を騙して遊んでいただとか、そういうことではないようだから。母に隠し通した、母は最期までこのことを知らずに、幸せだった。それ以前に、愛人だ不倫だ以前に、目の前にあった問題を二人で乗り越えたんだ、父と母の二人で。
    まぁ、それとは別として、その行為自体、わたしは最低だと思うけど。どんな事情があっても、それはしちゃいけないよってことはある。身内だから、父を尊敬し愛していたからのみ込めるけど、赤の他人だったらばっさりだったろうな。

「…さっきの自分の状態の異様さが際立つな」

    自分と重ねてしまった、だからと言って、あんな風になるだろうか。まるで、いやまさかそんなはずはないし、今までそんな経験はないんだけど、そう、まるで誰かが乗り移ったみたいだった。どう否定してみたところで、これが一番しっくりきてしまう。二度とごめんだ、あんなこと。

「さすがに、もう来ないでしょ…ほんと、なんで来たのか全く分からないけど」

    二度目がないことを祈りながら、部屋の隅で丸くなるアメに、行くよと声をかける。返ってきたのは返事ではなく、やっとかと言うような伸びとあくびだった。



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