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ヨルヲカサネ③

    出先から帰って来ると、玄関先に人影。嫌な予感はまんまと当たって、わたしは再び女と対峙する。上げるべきかどうか、少し悩んで彼女―キミコさんに委ねることにした。

「上がります?」
「……はい」

    冷静な自分にも驚いたけど、あの日の怒りがもうその目にないことにも驚いた。あんなに強いと感じた目線は影を潜めて、なんなら穏やかだ。あれ、この人こんな顔だったっけ?と疑問に思うほどに。
    あの日と同じ動作で客間に通し、同じ動作でお茶を注ぐ。あのそわそわした心情はないけれど。自分の頬を軽く叩く。ぺちんと気の抜けた音がしただけで、気合いは入らなかった。
    随分と、振り回された。わたしの心は、怒りの限界に触れた気もする。でも、だからなのか、仕方ない、聞いてやるかという態勢になってしまった。またあぁなるかもしれない、という不安もあったが、なにぶん、彼女の方もいろいろ抜け落ちた顔をしているものだから。

「そりゃ、こっちも気が抜けちゃうよね」
「にゃあ」

    アメは、今日も元気だ。この子に関しては、もうそれだけではなまる。辞世の言葉はきっと、アメへの感謝で溢れているんだろう。父も母も、そんな言葉を紡ぐ余裕なんてなく、突然逝ってしまったから。わたしは、できる限り長くアメと、この思い出の家で生きるんだ。
    アメを撫でながら、そういえば、と思う。ふとした違和感。アメが、キミコさんを意識していないような気がして。警戒もしなければ、寄っていったりもしない。そこにいないみたいに振る舞う。

「まぁ、赤の他人だしね」

    いつものように、野良時代の名残か、で片づけると、お茶を持ってキミコさんの待つ客間へ向かう。静かな昼下がりは嫌いじゃないが、静かだと認識した途端、なんだかそわそわしてしまう。
    廊下を進む。それは、過去との隔たりを思わせる。どんどん距離ができていくことが、寂しいと思う反面、安堵もある。嬉しい悲しい楽しい悔しい、悲喜交々。
    あぁ、もしかしたらキミコさんも、終わらせられない感情があったのかもしれない。だから、ここた来た。終わらせに来たのかもしれない。ずっとあった疑問に合点がいって、あの表情の変化も理解できた。

「お茶、どうぞ」
「ありがとう」

    あるときから彼は、少しずつ元気がなくなっていったと、キミコさんはそうぽつりと、落とすように、話し始めた。初めは、退社時になんだかずいぶん肩を落として帰るようになった、その程度の違和感だった。すれ違い様に聞いた、妻の産後の肥立ちが悪くてという言葉に、なるほどと納得した。奥様やお子さんを大事にされている、やはり素晴らしい人だなと、そう思って考えつく限り、できうる限りのフォローをした。尊敬の中に混じる恋慕は、見ないふりをして。
    だけど、絶対に開けないと堅く決めた蓋は、容易く開いてしまった。部署の飲み会に久しぶりに参加した彼を、不思議に思いつつも受け入れて。帰り道、駅へ向かうメンバーと別れると、二人になってしまった。まだ新人の部類に入る社歴で、こういう飲みの席にもあまり慣れてはいなくて。少し飲み直すけど、君はどうすると問われ、ご一緒しますとついて行った。
    たくさん話をした。一緒に働いているだけじゃ分からないこともあるんだな、と当たり前のことを思いながら、愚痴や悩みを相談した。話が尽きたかなと思ったころ、それまでより遥かに小さな声量で、妻と別居していると告げられた。どう処理していいのか分からない告白に、半ばパニックになりながら、大丈夫だと思いますとなんの根拠もなく答えた。その言葉に緩く笑って、そうかと言った彼を、一人にしておくことができなくて。代わりでもなんでもいい、今晩だけでもいい。ただ、そばにいるだけでもいいから。
    それからは、無言だった。会計を済ませ店を出て、一番最初に目に入った安いホテルの前で合った視線は、いやに熱かった。

「なにも、なかったの。信じられる?あと一歩のところで、彼の理性が勝ったの。彼の謝罪で、あたしも我に返って。結局なにもせずに、ホテルを出た」

    長い話をそう締めくくって、キミコさんは深々と頭を下げた。

「混乱させてしまって、ごめんなさい。傷つけてしまって、ごめんなさい」

    小さく首を振った。なにか言おうにも、言葉が見つからない。ただ、謝罪を受け取ることしかできない。

「愛人なんて、大層なものじゃない。あたしは、あの人の思い出にすらなれなかった」

    あぁ、それは。とてもよく、分かる。わたしは一体なんだったんだろうって、その気持ち。きっとわたしも、思い出にすらなれていないんだろうから。

「少し、分かります。思い出じゃなく、忘れたい過去なんですよね、きっと」
「……ねぇ。それでも、今笑えているのなら、あなたの勝ちよ?」

    震える声で絞り出した言葉に、震える声が返ってくる。まるで、全部分かっているとでも言うような。キミコさんは、わたしはなにも語っていないのに、わたしの中の黒い部分を察していた。こんな関係、ありえないのに。不思議と、こうしていることが嫌ではない。
    父とはなにもなかったと分かったから?いや、寸前までいってたら、なにもなかったとは言えない。裏切ってはいないけど、裏切ろうとはしたんだから。でも、なんでだろう。みんな、どうしようもなかったんだなって、分かってしまう。父も母も、キミコさんも。どうしていいか分からなくて、間違えて、間違えそうになって、修正しようとして。正解を、持てなくて。
    言えなかった気持ちを、やっと今言えたんだろう。当時なにを思っていたかなんて、きっと言う暇も機会もなかったろうし。

「キミコさんは今、笑えてるんですか?」
「…まだ、もう少し無理そうね」

    わたしよりも、ずっと長く引きずってきたであろう気持ちを、この人はどこで下ろすんだろう。明日であれ十年後であれ、下ろすのなら、父のところに置いていけばいいと思う。それは、父への気持ちなのだから。

「勝てるといいですね」
「…そうね」

    途切れ途切れにしばらく会話をして、キミコさんは最後、少し逡巡したあと、また来てもいいかしらとこちらを見た。わたしも少し迷って、別にかまわないと答えた。もしかしたら、変に思われるかもしれない。でも、学校や会社といった縛りのない人間の出会いや付き合いなんて、こんなものだ。確かに少し、歪ではあるけれど。きっと、誰にも言わないけれど。あれみたいだ、子ども特有の、イマジナリーフレンドというやつ。
    今日はしっかり玄関から出て見送り、眩しさに眉を顰める。梅雨の晴れ間の太陽は、存外強烈だ。

「今年も暑くなりそうだなぁ」

    きっと、まだもう少し雨は続くだろうけど、夏はすぐそこだ。暑さに目を覆うのは、毎年のこと。季節が過ぎていくのは、目まぐるしく楽しくて、ちょっと寂しい。雨が再び多くなる秋にも、今年も寒くなると呟くんだろう。恒例行事のように、それは続いていく。
    部屋に戻ると、伸びた状態でアメが寝ている。もしかしたら、アメも太陽が恋しかったのかもしれない。縁側は、年中アメの特等席だ。外を眺めて、ときどきむにゃむにゃなにかに話しかけて、ご機嫌に一日を終える。
    夜を重ねるごとに、向かうところは減っていって、最期の瞬間、ここにいれればいいやって思うのが人間なんだと思う。どこか、遠くへと歩を進めて。辿り着くのは、見慣れた場所。誰かと一緒でも、一人でもいい。あぁ、ほんとだ。笑ってられるなら、それで勝ちだ。



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