見出し画像

ヨルヲカサネ④

「さきちゃん、元気?」
「うん」

    たまにこうして様子を見に来てくれる伯母には、頭が上がらない。わたしが在宅で仕事を始めてからは特に、篭もりきりにならないようにと外へ連れ出してくれたりもした。

「そうだ、桃。貰ったから、食べて」
「ありがとう」

    想像以上に大量のそれに、苦笑いしてしまう。まぁ、ご近所に配ればいいか。昔、どんどん剥いてくれる父に、桃が大好きなわたしは、出されるままに食べて。まんまるになったお腹が苦しくて、ちょっと泣きそうになったことがある。それを見て申し訳なさそうに笑う父と、一緒に笑ったんだった。

「ちょっと痩せた…?」
「それ、いつも言うじゃん」

    あのときの父と重なって、笑ってしまう。さすが姉弟、ふとした表情がよく似ている。

「ねぇ、おばちゃん。お父さんって、若いときどんな感じだった?」
「んー信じられないかもしれないけど、ぼんやりした子だったわよ。掴みどころがないというか」
「それは、初耳」
「ふふ。いつか、こういう話することになるかもとは思ってた」
「そういえば、知らないなって」
「浩史が変わったのは、紗代ちゃんと出会ってからなの」

    懐かしむように目を細める。眩しいものを見るような仕草は、その記憶が輝かしいものだからかもしれない。

「ふわふわ浮いてるみたいだったあの子が、しっかり地に足をつけて歩きだしたの。紗代ちゃんのおかげね。それに、さきちゃんも」
「…わたし?」
「それまで以上にね、向き合っていたわ。いろんなことがあって、これからも大変なことが山積みだろうけど、家庭という場にいる自分に、責任を持たなきゃいけないってね」

    いつの間にか酸欠になっていることが、生きていれば誰にでもある。幸せいっぱいで、充実した人生でも、ふと気がつくと、なんだか息がしづらくて。そこに効くのは、自分じゃない存在感なんだろう。人でも、ペットでも、物でも、場所でも、なんでもいい。自分以外の存在感は、落ちたため息を浮上させる。

「宝物なの、浩史にとって家族は」

    日記からでは汲み取れない根っこにある感情は、当時を知る人じゃないと分からない。

「教えてくれて、ありがとう」
「いいのよ。私も、二人のことを話したくなるときがあるもの」
「また、話せたらいいな」
「もちろんよ。さて、じゃあ、そろそろ行くわね!また来るわ」
「うん、気をつけてね」
「たまには外に出なさいよ?」
「はい、分かってるよ。ありがとね」

    見送った先の雨の庭に、佇む人影が見えたような気がして。キミコさんかな?そう思ったけれど、伯母は人とすれ違った様子もなく、走り去って行った。

「あれ、気のせいかな」

    まぁいいかと玄関を閉めようとしたら、さっき見間違いかと思った人影がゆらりと揺れて、大きく体がはねた。

「っびっくりした!」
「こんにちは」

    やけに爽やかな挨拶に、ほんの少しだけ苛立つ。やっぱりいたんだ。でも、それにしては伯母の行動と辻褄が合わない。雨で視界が遮られて見えなかった?いやでも、すれ違えば気づくはず。一気に目の前の人が不穏に思えてくる。
    それにしたって、いつもいきなりやって来るな。連絡先をお互いに知らないから、当たり前だけど。なんとなく、聞かない方がいいのかなと思っている。向こうも聞かないし、わたしも聞かない。それで不自由はないから。ただ、こういうびっくりすることがままある、というだけ。

「桃、食べます?」
「…あまり好きじゃないの」
「ふーん。じゃあやっぱり、ご近所に配っちゃうか。ちょっといってきます、上がっててください」
「え…」

    返事は聞かずに、自分の分を取り出すと、残りを持って家を出た。
    おかしいなと思うことは、いくつもあった。初めて会ったとき、帰り際、玄関の開け閉めの音が、一切しなかった。造り的に、静かに開け閉めはできても、無音は無理だ。全然、濡れてなかったし。それから、アメがなんの反応も示さないこと。年齢。父の部下にしろ、なにがなんでも若すぎる見た目。何度かここへ来たけど、飲まないし、食べない。あと、さっきのあれ。
    多分あの人、わたしにしか見えてないと思う。つまり、あれだ。オバケとかユウレイとか言われる、そういうやつ。毎朝仏壇に向かうくせに、あまり超常的なものは信じていない。いやほんと、矛盾なんだけど。なにかあると、心の中で父と母に話しかける。届けばいいと思って。でも、聞いていないと分かってる。だからその、信じてるか信じてないかで聞かれれば、信じてないと断言できる。ただ、信じたいとは思ってるんだ。

「わたしからは、なにも言えないんだけどさ」

    いつか決定的ななにかが起こったら、白状してくれるだろうか。それとも、なにも言わずにある日突然、成仏したりするんだろうか。消えちゃうのかな、あの人。なぜだか、わたしの過去に寄り添ってくれた人。友だちではない、不思議な他人。ゆっくりと浸透してくるものだから、なんだか拒めなくて。
    もしいなくなったら、成仏したら、よかったねって言いながら泣くのかな、わたしは。いや、さすがに、泣きはしないか。

「アナタちょっと、不用心すぎない?」

    家に戻ってひと息つくと、しかめっ面のキミコさんに怒られる。

「物はまた買えばいいかもしれないけど、猫は、生き物は違うんだからね?」
「アメとは結構頻繁に本気のかくれんぼしてるから、多分大丈夫だよ。今のところ、アメの全勝だし」
「…そういうことじゃなくて」
「うん、分かってます。ごめんなさい」

    まるで、自分がいないものみたいに言うじゃん。確かに、完全に戸締りはしてないけど、鍵は一応かけたし。

「若い女性の一人暮らしなんだから、もっと気をつけなさいよ」

    同じくらいの歳に見えるんだけどなぁ。あ、でも、オバケって亡くなったときの年齢のままなんだっけ?

「気をつけます。ところで、今日はどうしたんですか?」
「…別に、ただ様子を見に来ただけよ」

    言葉を探しているみたいだった。どう言おうか、そもそも言うべきか。わたしもまた、迷っていた。聞いていいものかどうか。多分、言ってくれるのを待った方がいいんだろうけど。でも、もし、急に来なくなったら?どんな関係であれ、自分の周りから人が消えるのは、かなりショッキングだ。しかも、物理的にだよ?離れていくんじゃなく、消えるの。

「キミコさんって、どこに住んでるの?」
「…若いころは、海の見える街に住みたかった」
「若いころって、わたしと同じくらいでしょ?何歳のときの話?」
「イジワルね」
「言いたくないなら、いいの」

    そういうわけじゃないんだけど、と口篭る。海の見える街。一体いつ、諦めてしまったんだろう。

「今からでも、別にいいんじゃないの?」
「そうね。いつかを、望んでいいのなら」

    いつかを望めるほどの時間は、きっとない。ほんとに、そんなに遠くないのかもしれない。心臓が奥からゆっくり潰されるような、息苦しさ。

「なんでそんなに、優しいのかしら」
「…そんなことないでしょ」
「あたしを、赦してくれたじゃない」
「赦すっていうか、受け入れただけ」

    過去は変えようがない、だからといって受け入れるのは容易いことじゃない。そこにいなかったわたしは、事実をただのみ込むしかない。少しの同情は、確かにある。でも、だからどうしたって話だ。あったこと、やったこと、反省、後悔。全部、抱えてきたんでしょ。当事者たちが導いた答えが、今なんでしょ。
    あぁ、もしあなたが勝手に消えるのなら、わたしは泣かずに少し怒るかもしれない。だって、意味が分からない。人の感情をぐちゃぐちゃにしたくせに、あと片付けするみたいに元に戻してくれちゃって。

「それが優しいっていうのよ」

    優しさは、ときどき難しい。それぞれの感じる心が、判断するものだから。

「ねぇ、ありがとう」

    唐突に、次がないことを知る。きっともう、キミコさんはこの世にいない。そして多分、今日を境に消えてしまう。今、何を思ってる?どういう気持ちでそこにいるの。お礼なんて、わたしはなにもしていない。ただ、対話をしただけ。

「あたしの恨みにアナタを巻き込んでしまったこと、悪いと思ってる」
「確かにあれは、かなりきつかった」
「ごめんなさい、本当に」
「…うん」
「なんでだか分からない、一人で逝きたくなかった。すごく、寂しかった。でも、違うの、アナタを連れていこうとしたわけじゃない、一緒に来てほしかったわけじゃないの」
「そっか。一人は、誰だって怖いよね」
「もう、大丈夫だと思う」
「わたしも、もう大丈夫だから」
「ごめんなさい。ごめんなさい、本当に、大好きだったっ…」
「うん、わたしも。大好きだった」
「どんな形でも、」
「隣にいたかった」

    本当に、なにも残さずに消えてしまった。子どもみたいに泣いたのも、涙の跡も、残されたのはわたしだけ。あの人は、過去の投影だったのかもしれない。一生懸命まともであろうとしてたわたしが、呼んでしまったものだったのかも。大好きなんだと叫ぶ心に蓋をして、何事もないように振る舞って。それでもずっと、寂しくて、苦しくて、だけど泣き喚くこともできない。そのプライドだけで立っていた。

「こちらこそ、」

    ありがとう。なにもなくても、わたしは今立っている。人の優しさも、感じ取れる。取り戻した心を、離さないように。行きずりの共感がもたらした、このおかしな時間を忘れないように。
    嵐みたいな人へ。天国とかがあるのなら、そこでまた会いましょう。足りなかった時間を、紡ぎましょう。できれば、海の見える場所がいいね。あなたの望むように、過ごしていてね。わたしも、わたしの望むようにこの生を全うするから。待っていてね、迷ったら教えてね。今度はわたしが、あなたを見つけるからね。アメも一緒だと、なおいいね。そして話が尽きたら、飽きるまで海を眺めよう。



→⑤

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?