与之島とは

与之島(よのしま)は、日本の下定県にある島。

面積   約10km3
人口   約230人(2020年)
所属   下定県成子郡成子町
最高地点 石出山(205.3m)

概要

与之島は、下定県中部に位置する島である。
槻尾湾の入口に位置し、島の西側にそびえる石出山が最高峰。現在の人口は約300人で、島へは槻尾港からのアクセス船で向かうことができる。かつて炭鉱で栄え、現在でもその名残として、トロッコ線路や貨物港跡地、選鉱場跡地や鉱山住宅の高層建築群等が残されている。

沿革

平安時代より付近での漁の記録あり。
近世に至るまで無人島で、詳細のわからないことも多い。
文政時代、上陸した漁師ら複数名がそのまま行方不明となる。
江戸時代末期、現成子町の漁師を中心とした十数人が移住。
明治時代初期、島西側の石出山にて石炭を発見。
1891年、槻尾市の商人であった松森徳四郎らが丸門鉱業を設立。島内の鉱山の整備を開始。
1892年、島北側海岸に与之島港開港、石炭の輸出体制が整う。同時に大規模な採炭が開始。当時西彼杵炭田を中心に問題となっていた納屋制度ではなく丸門商店及び丸門鉱業直轄で労働者を雇った。
1895年、丸門鉱業から与之島鉱業が分社化。
1896年、島中部に炭鉱住宅の建設が始まる。木造だったが当時としては相当な水準。
1900年、トロッコでの輸送が開始。より大規模な採炭が可能に。
1904年、日露戦争の激化に伴い採炭量輸出量共に激増。与之島港より海運で直接本州への輸送が始まる。
1911年、島内初の教育施設である与之島尋常小学校が開校。
1912年、坑道にて頻発していた中でも最大規模の爆発事故。死者4名、負傷者13名。原因は可燃性のガスと見られている。
1915年、与之島炭鉱最大の爆発事故。3年前のものよりも更に大きく、死者12名、負傷者11名。
1921年、高潮により江戸時代からの漁村地域が被害。漁船の転覆により死者1名。
1925年、炭鉱住宅改築。鉄筋コンクリート造3階建の高層アパートが二棟建設された。
1931年、与之島山上遊園開園。島内のみならず県内でも数少ない娯楽施設であった。
1937年、与之島山上遊園のフェンスを乗り越え山に入った子ども3名が行方不明となる。
1939年、朝鮮人労働者の本格的な集団移入。最も重労働とされていた炭鉱夫のほとんどが朝鮮人労働者となった。
1941年、太平洋戦争の激化に伴い始められた「産業報国運動」により採炭量が最高値を更新。年間約20万トンを出炭。
1943年、中国人捕虜の労働が開始。
後に中国人・朝鮮人労働者の遺族と丸葉鉱業及びマルバ金属との訴訟では、賠償請求の期限を過ぎているため棄却されたものの、強制連行及び労働の不法行為は事実として認められた。
1944年、謎の巨大生物が目撃されたとの情報あり。
1945年、終戦後に中国人・朝鮮人労働者が島外離脱したため人口が激減したが、石炭生産緊急対策要綱により復興資金が供給され、また1948年以降は復員者の帰還により人口が急激に増加する。
1949年、人口が1500人を突破。同時に住宅供給の不足に伴い炭鉱住宅の改築が加速。鉄筋コンクリート造4階建の高層アパートが8棟建設される。このとき、1925年に建設されたものは取り壊された。
1950年、稼働率の低下が問題となる。効率化のためトロッコ線を与之島港まで延伸。直接の積み込みを可能に。
1955年、人口が3000人を突破する。
1959年、島の漁師複数名が行方不明となる。原因不明。船の転覆と予想される。
1961年、人口3462人を記録し最多となるが、人口増減は横ばいとなっていた。
1962年、鉄筋コンクリート造15階建ての高層マンションが2棟建設される。与之島のシンボルに。
1963年、エネルギー革命により石炭から石油に需要がシフトしたことにより、採炭量輸出量共に大幅に減少。
1966年、丸葉鉱業が鉱命終了期を発表。
1967年、炭鉱住宅入居者の退去が始まる。
1970年、与之島炭鉱閉山。同時に与之島港、与之島山上遊園も閉鎖。本土からのアクセスは与之島漁港発着の小型船のみとなる。
1975年、送電線切断事故発生。一時的に島内全土が停電。原因は不明。
1982年、与之島港周辺にて解体作業中に事故が相次ぐ。解体作業は中止され、与之島港と市街地を結ぶトンネルが封鎖される。
1984年、与之島小中学校の生徒数が20人を割り込み過去最小に。
1985年、与之島陸自ヘリ墜落事故発生。重傷者5名、軽傷者2名、三等陸佐らを含む行方不明者3名。3名の行方は現在も不明。
1993年、与之島漁港より発着する小型船の便数が日に1往復となる。
2000年、島内にて謎のサイレンのような音が鳴り響く事故。公共電波の混線が原因とされた。
2002年、肝試し目的で封鎖されたトンネルを超え与之島港方面へ向かったと見られる大学生グループ5名が行方不明となる。
2006年、近海を航行していたフェリーにて転落事故が発生。警察や海上保安庁のほか漁師を中心に捜索が行われたが転落した女性は行方不明。
2012年、島の人口が250人を割り込む。
2017年、近年の廃墟ブームにより島内の炭鉱施設の残された景観が話題となり観光客数が増加する。
2021年、島内にて初の新型コロナウイルス感染症感染者を確認。
2022年、与之島小中学校の生徒数が0人となり無期限の休校となる。

産業

1891年より採掘されていた与之島炭鉱が島の産業を支えていた。最盛期には従業員数1593人、年間出炭量約20万トンを記録した。1965年頃より稼働率の低下が問題となり、1970年に閉山した。炭鉱開発以前及び閉山後現在までの島内の主要産業は漁業である。

交通

・槻尾港より高速船「ジェットマリーン」で約20分。

名所・観光スポット

・与之島炭鉱住宅一号棟〜十号棟、A棟、B棟
・与之島蛭子神社

関連項目

成子町→島が所在する。
松森徳四郎→与之島炭鉱の採炭を開始。
丸門商店→与之島産の石炭を販売。
与之島鉱業→与之島炭鉱の開発を主導。
丸葉鉱業→与之島鉱業を分社化した親会社。
マルバ運送→与之島産の石炭などの輸送を行った。
丸葉商事→与之島に関する様々な事業を担当。
マルバホールディングス→丸門商店の後身。


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