槻尾空港とは

槻尾空港(つきおくうこう)は、下定県成子郡成子町にある空港である。

所在地  下定県槻尾市
母都市  下定県槻尾市
種類   共用
所有者  国土交通省
運営者  槻尾空港エアポートビルサービス
運用時間 6:00−22:00
開設   1943年(帝国海軍飛行場)
開港   1955年(槻尾空港)     
所在部隊 第10航空団
     槻尾救援隊
     下定県警航空隊
     槻尾市消防局防災空輸隊
滑走路  2700×45 1本 コンクリート
旅客数  1,823,590人
貨物取扱 1,293t

国土交通省が管理、航空自衛隊槻尾基地(英:JASDF Tsukio Airbase)と民間航空(民航)が滑走路を共有する空港である。空自の施設は通称槻尾飛行場と呼ばれている。
航空自衛隊槻尾基地に関する詳細は後述の「航空自衛隊槻尾基地」を参照

概要

槻尾市を母都市としながらも、双陽地方最大の空港としても機能しており、静岡空港(富士山静岡空港)、名古屋飛行場(県営名古屋空港)、中部国際空港(セントレア)等とともに東海地方・双陽地方の航空拠点として機能している。
滑走路東側に平行誘導路があり、南側に空自槻尾基地、北側に槻尾空港のターミナル設備がある。

沿革

 1939年、旧帝国海軍が成子町(当時は成子山村)中南部の低地を中心にした航空基地の整備計画に基づき、鳥州干潟附近民有地約200m3を買収。

 1940年、成子飛行場建設事務所を開設し、旧帝国海軍横須賀鎮守府の飛行場として建設を開始。太平洋戦争の開戦に伴う南方進出のための大規模拠点として整備された。

 1941年、成子海軍航空隊が月代(現在の成子町東南部)にて開設される。

 1944年、米軍槻尾空襲。成子飛行場も甚大な被害を受け、滑走路が半壊、特攻隊の故障機の受け入れ基地となる。

 1945年、大蔵省管理となる。サンフランシスコ講和条約発行後も荒廃した状態となっていた。

 1953年、槻尾市長、槻尾商工会議所会頭、下定県及び✕県知事連名で成子飛行場の民間転用を求める嘆願書が衆参両院に提出されたことを受け設立が認可され、事業免許が交付された。

 1955年、再整備により簡易的な滑走路とターミナルが整備され、名称が槻尾空港とされる。双陽ヘリコプターと日本ヘリコプター輸送の提携により名古屋ー槻尾線が運行される。

 1957年、滑走路延長工事・ターミナルビル新設工事着工。沖合を埋め立て3000m×45mに延長する工事。調査時より潮流の影響が大きく、工事は長期に渡った。

 1958年、滑走路延長工事竣工。同時に新ターミナルビルも開業。簡易的なビルから3階建てのターミナルビルとなった。ターミナルビルの運営のため下定県、槻尾市、瀬本市、成子町、槻尾電鉄、下定銀行資本による第三セクター、「槻尾空港エアポートビルサービス」が設立。

 1960年、槻尾ー羽田便、槻尾ー福岡便就航。

 1961年、航空自衛隊槻尾基地が開庁。民間航空と自衛隊の共用空港として供用を開始。

 1972年、ジェット化対応のため滑走路をかさ上げ。工事により1ヶ月半の間運用を休止。

 1975年、初の国際便(槻尾ー上海)就航。渥美柄橋フェリーの開業により槻尾ー名古屋便が廃止。

 1980年、国鉄槻尾空港線開通。

 1983年、槻尾ー那覇便、槻尾ー千歳便が就航。

 1985年、ターミナルビルの新築計画が発表。着工は5年後と見込まれる。

 1990年、新ターミナルビル着工。バブル崩壊による不況で工事が長引く。

 1993年、新ターミナルビル開業。長らく問題とされていたバスターミナル、タクシープール、立体駐車場も整備された。

 1994年、附近を通る国道59号のバイパスとして、国道215号空港通りが開通し、ターミナルビルとも接続。

 2005年、JR槻尾空港線「空港快速」が運行開始。槻尾市以南とのアクセス性が大幅に向上される。

 2006年、槻尾地方西部地震により被害。1ヶ月ほど運行を見合わせる。

 2015年以降ターミナルビル前広場にて植樹活動。

 2019年、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により大半の航空便が運休。

 2022年、航空便の本数が新型コロナウイルス感染拡大前の水準に戻る。



 

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