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自粛連夜の過ごし方

街を白紙に返してゆくような大粒の雪が、フロントガラスに伝ううちに透明になり、落ちるころには半球の膜となって水に揺れる。薄暗い路地裏の塗装の凹凸に寄り添うような水際、硬質な一本の光の筋が輝いている。人の中に立つ骨格の緩やかな捻りのように堅牢で柔らかい白。今日はその水溜りが光の鏡となり、コンクリートを揺らす波紋。


広い世界へ旅することができないフラストレーションは、ベクトルを逆にして小さな世界へ旅立つエネルギーに。顕微鏡に火を灯して、花弁の内側へ内側へ潜ってゆく。雄蕊と雄蕊の隙間を縫いながら花粉の粒にフォーカスを合わせると、一個一個が完璧主義者の作者不在にも関わらず精緻に作られていることにおどろく。暖められた花弁から水が溢れそうになっているのを私たちは肉眼で見ることができないから、花自体が潤っているように感じるのか、暴きすぎるくらいに暴いても植物はずっと神秘性を湛えている。人間以外の全てのものは知りすぎる失望が無くて良い。



自転する地球の秩序から反発するように逆走して飛ぶ飛行機、工場の煙やイタリアの河を濁らせる人の往来は一時止まり、地球が綺麗になっていく。

「あなたや、あなたの大切な人は大丈夫ですか、安全で、」という文面を受け取るに、散々水を濁してきた私こそ相応しくないと思うのに、無差別に病は誰かや誰かの大切な人を奪いながら広まってゆく。人の絆が舟であることを、脳がないのにどう知ったのだろう。


追い求める真善美は精度100%の球がここに存在できないように、いつも善を欠きながら私や作品を構成する。不完全なパフォーマンスを、記録のカメラマンと編集者が面白く再構成してゆく。鑑賞者含め、第三者の目が公演の真を探して美を見い出してくれる。

カラヴァッジョが証明している、目の前の血肉の通うリアルを物理的に切り捨てながらリアリティを永遠にしてゆくことを。仕事ゆえの鉛中毒なのか、人柄ゆえの暗殺なのか、熱病なのか、死因はさまざま言われているけれど、ローマ教皇という当時の善の象徴に命を裁かれる前に、マスターピースを描き切って去ったことが、どんな時も前向きで正しいことをせよという風潮に風穴を開けるように爽快で、ずいぶん励みになる。

重たいものをわざわざ持ち上げなくていい。そのままそこに置いておけばいい重いのだから。暗いものを照らさなくていい。暗闇のまま暗さと無音を味わう、物語を上映しない映画館があってもいい。苦いものを甘くするな。笑顔だけを人の表情の中で取り分け贔屓にすることを疑問に思っていたんだ、筋肉がこの構造をしているだけで人は充分美しいと思う。そしてそれだけで充分だ。


リアルな経験には及ばないからとアクセスしてこなかったけれども、ネット上で公開されている美術館へカラヴァッジョの巡礼。リンクを辿ってふと訪れたサンパウロ美術館ではガツンと開けた展示空間にゴロゴロとウッドブロックが並べられ、2個1組にガラスの展示壁を支えていて斬新。

全てこちらに正対している絵画面の横をダブルタップで通り過ぎる。キャンバスの側面とすれ違って裏面に回り込むときには、永遠の聖人像が一変して木枠と一枚の布に戻る。挑戦的だなと思うと同時に、表に描かれたどんな素晴らしい図像よりもこの変貌こそが救いだなと思う。

大理石で綴られる神話の世界が1つの石である事実と行き来する瞬間の軽やかさが好きだ。石の一つが美術的価値から解き放たれて、堂々と正面玄関から脱獄する。しかしいつだって帰ってこられる居場所であることは変わらない。

今、預かることのできないほどの重量を、情報量を、読み解いてしまう思考回路を、ひとつの材に返してゆく。物質に戻った大理石は、重いのでそこに置いておけば良い。抱えこめない運動をこちらまで引き受けない。


動き出した新しい仕事を嬉しく思ってメールボックスを開くと、今日もどこから流出したのかスパムが2.3件放り込まれて、せっかくのモチベーションに水を差される。サングラスだったり、どこぞの大富豪からの唐突なアプローチだったりと、そんな顔ぶれだったのに、今回は特別にマスクを安く売ってくれるらしい。

悪人はどんな時だって商魂たくましく、しぶとい生命力に輝いていて、思わず笑ってしまう。明らかに善いおこないで生計を立てていない差出人から受け取った不思議なポジティブさ。善くなくて良い。笑えるならば。添付のウイルスもろとも削除しながら、今日だけは感謝してしまうのだった。大丈夫、まだやれる。

美しき地球の自浄作用と折り合いをつけられずに今日も人間はしぶとい。1.5m以上離れても絆を保っていられる通信技術、私たちは舟であることを諦めない。






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