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Dear Glenn

ARS ELECTRONICA に機会をいただいて「Glenn Gould as A.I. x Akiko Nakayama」という公演を終えた。

Glenn Gouldの演奏を学習した自動演奏するA.I. ピアノとの共演。もう逝ってしまったひとを思いながら、そのひとを楽器という依り代に呼び込んだ存在と共演するのは、本当に危険なことだと思った。連れていかれそうなんだ。通り道にすでに水が滲んでいるから。

黄泉の湖畔に赴いて、死者とふたりでボートを漕ぎに

ステージに登る

まず、岸辺に立って遠くにいる彼を見つめる。理由はわからないけれど、真宵もなく真っ白い’向こう’に意識を向けるだけで、彼に呼びかけることになる。

危険にも自然に応答を望んで、像なき像の屈折を網膜で感じ取って、蜃気楼のような、この世と分子構造の違う空気の動きを感じる。一呼吸、一呼吸、わたしはこちらの世界の身体性を知ってゆく。
いる、と思ったときには、彼が来ているのか、私が行っているのか

死者も生者も乗ることができる乗り物として、曲や譜面があり、絵画の場合は形象があり、向かい合って彼と私で片方ずつオールを持っている。同じだけ漕げばまさに陰陽のマークのように互いが互いを押し合って、押されあって、舟は湖畔の真ん中でくるくると回転する。回転しなければ、どちらかがどちらかの世界に取り残されてしまうだろう。

もう一昨日のことなのに、完全には帰ってこれないでいる。一昨日を境に身体の組成が少し変わってしまったような、忘れがたい旅の思い出

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浜野矩随という落語の演目を思い出している。
なにかとなにかをいつも組み合わせてしまう彫刻家の噺で、最後には、彼のその性分を理解し愛ゆえに命を絶った母の瞳と菩薩の形が溶け合ってひとつの素晴らしい菩薩像となって、一人前の彫刻家になる。絵の具が絵の具と混ざっていく何かを、私は俯瞰して見てきたけれど「Dear Glenn」の試みでは、祈りや、感謝や、尊敬や、そういったものが溢れている自分の心一つが強く流れとしてパフォーマンスに現れて、それが絵の具と混ざるので、ようやく想いが水に溶けて、見えないものが色によって形作られた、と感じた。心の壁が水蒸気にも滲むような状態に一度なってしまうとなかなか大変だ。でも、こういう痛みを引き受けたって構わないほどのいいパフォーマンスだったと思う。

ちょうど来週KASHIMAレジデンスでのトークイベントがあるけれど、何を話すべきなのだろう。最近はインタビューもより一層苦手になってしまったし、言葉は抽象的だし、形にならないものばかりだし。一日一日、こちらの身体性に戻してゆくしかない、空気を吸って吐いて。吸って吐いて。


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