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母のこと

昨日は、父のことについて書きましたが 
本日は母について書こうと思います。  

私の母は、私を20歳で出産しました。
九州から出て来て、すぐに父と出逢い
結婚しました。
電気会社の寮で生活しており、ほとんど社会人経験もそこそこに、一人暮らししたこともなく結婚したので、世間知らずな面がある様に思います。

母は、少し天然さんで温厚な人ですが、一度怒ると、暫く引きずる面倒な部分もあります。
私はどちらかというと父親似で、はっきりしているのに対し、母はそれがキツイと受け止めており、私の発言に傷つくことも多いかもしれません。

母は私の幼少期、何をしてもあまり叱りつけることはなく、よく話して諭してくれていました。
私は活発な子で、イタズラ、児童館から脱走、
自転車で道路に出たり、近所の子をブランコでひいたり…きっと悪ガキでしたが、
私を叱りつけ叩くのはいつも父で、父を止めるのが母の役割でした。

父は、先日書いた通り施設の暮らしで
幼少期から施設の厳しいルールの中での生活は
昭和らしい「叩いてわからせる」といった教育方針のもと成り立っていた様です。そのせいか、父は
いつも長女である私を、ことあるごとに叩き
叱りつけました。
高校生まで、頻度は少なくなりましたがそんなことは続きました。

そんな父は時には止めに入る母にまで、手を挙げることがありました。
何度となく家を出て、何度となく私は妹と母と
夜の町を歩いたことが、今も思い出されます。

そんな父も、高校最後の喧嘩で、私に暴力を振るったことがきっかけで、涙を流しそれきり私には手をあげなくなりました。
私が家を出てからは、その矛先は母に向けられ、
離婚に至りましたが
母は結局、父がいなければダメなのです。

母は、そんな父を見捨てることはなく
今もずっとそばに寄り添い続けています。

母は今、父のそばにいることで
自分の存在を確認している様にも見えます。

母は、私が看護師の資格をとり、働き始めてから
介護福祉士の資格を取得しました。
「少しでも、私も人の役に立てるかな」
そういって、職場での話ばかりする母でした。

長年勤めた老健の仕事を辞め、千葉の父の家に越して行きましたが、
母の最終章は、父と共にあることだったわけです。

私をいつもどんな時も心配してくれる母。
鬱陶しいほど話しかけてくるあの顔が
もうなかなか見れない。

親が遠くに暮らすことのなかった私にとっては
先の見えない不安もありますが、
2人の最終章を、少しでも応援したいのです。

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