2022/5/10 memo

一秒もムダにしない~時間の上手な使い方~

他人の時間に感度の低いことは、「時間の上手な使い方」の対極にあります。他人の時間を大切にしてこそ、自分の時間を有効にできるのです。

時間について考えている時間が一番無駄

しかし、次第にその定型的な「口調」が耳障り、目障りになってくるようになります。それは「アウトサイダーが安全な場所から石を投げつける」口調だったからです。

 他者のまなざしに規定されない生き方をするということは、逆に自分も、他者にまなざしを送って他者の生き方を規定しようと画策しないことも意味しています。他者のまなざしに規定されず、自律的に生きていきたいのならば、他者の自律的な態度も尊重するのが正しいマナーです。

 中途半端な知識を付けてあたふたするくらいなら、最初から、「俺は分からないから、専門家の人に任せる」と腹をくくるか、しっかり勉強するかのどちらかしかないと僕は思います。

 イギリスの作家トーマス・ハーディは、「あることについてすべての、すべてのことについて何かを(everything about something, something about everything)」学ぼうとしました。この言葉は僕自身の目標でもあります。「あることについてすべての、すべてのことについて何かを」知っていたい。

 相手を先に立てる時間は、ほんの数秒です。これで仕事の能率が下がることなんてありません。もしあるとすれば、それはよほど下手に仕事をしている証拠です。 心に余裕を持ち、他者に敬意を払い、相手を先に通す精神を、僕は美しいと思います。我れ先にと相手を押しのけて進むよりは、少なくとも美しくないですか?

歌舞伎、文楽、映画鑑賞についても同様でしょう。こういう場合には、第1章であれほど僕が批判していた「他者のまなざしに規定される自分」のあり方そのものが、理想的なあり方であるようなのです。 なんか、矛盾しているでしょうか。いや、その矛盾を飲み込むような態度こそ、大人の振る舞いなのだと僕は思うのです。他者のまなざしが規定する制限が有効に作用する「場」では、そのまなざしに身を任せ、そうでないときは主体的に自律的に他者のまなざしから自由に振る舞う。両者の取捨選択を適切に行う判断こそが、重要なのかもしれません。

がんばることは大切ですが、がんばるのは手段に過ぎません。それを忘れてしまうのですね。

現在立っているのは「挫折しているという状況」です。その地面しか存在しないのです。 したがって、僕らがどうせ短い時間を生きるのであれば、短い時間をやりくりするのであれば、「挫折していなかったかもしれない」時間を空想したり、「挫折していなかった時間に戻れないか」とあり得ないことを願ったりするのではなく、挫折を立脚点にして前に進むよりないのです。

予見できない将来の不確かさを抱えて、それでも挑戦するところに、木村さんの精神の気高さを僕は感じるのですが(将来、「奇跡のリンゴ」ができるという確たる見通しがあれば、苦労は苦労ではないはずですから)。

挫折の時間も、停滞の時間も、他者のまなざしに規定されず、自らの意志でそれを甘受する覚悟を決めれば、それは無駄な時間ではありません。「私こそが私の魂の指揮官」である限りは。そして他者は、そのような「私の魂の指揮官」である、停滞しているように見える他者を、罵ったり嗤ったりする権利を持たないのです。

 にもかかわらず―― 僕らは毎日、一所懸命生きています。わずかな時間を削り取り、より有効な時間の使い方ができるよう、仕事のパフォーマンスを最良にしようと努力します。 その努力は、地球規模で見れば本当にささいなことです。僕のような医者がどんなに工夫して薬を処方しても、患者さんが「死ななくなる」わけではありません。いつかは死ぬ患者のその死を先送りに、わずかに先送りにしているだけです。 しかし、その先送りによって、もしかしたら愛する人と過ごす時間がもっと持てるかもしれない。美しい言葉と出会える時間が持てるかもしれない。素敵な観劇ができるかもしれない。楽しい読書ができるかもしれない。

 だから、時間を削り取る「ちまちました」営為は決して無駄ではない。 そんなふうに、僕は思います。

時間を慈しむ

100分で名著 二コマコス倫理学

理性が本能を抑制する、のではない
理性を活用することで、本能が花開く

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