ものの芽という言葉

 先日、大叔母さんが亡くなった。八十二歳だった。帰省するたびに会いに行っていた大叔母さんは、長いあいだ自宅のベッドで寝たきりだったけれど、きちんとした会話ができるくらいには充分に元気だったので、突然の訃報にはショック以上のものがある。

 大叔母さんの自宅の玄関には、一枚の水彩画が飾られてあった。いままさに開花しようとする紫色の花と、いくつかの小さな芽を描いた絵。その絵の脇には一句、達筆でこう記されてあった。

  何某としらぬものの芽拡がれり

 きけば、絵も俳句も大叔母さんの自作のものである。作品そのものが素晴らしかったことにくわえ、「花」ではなく「蕾」や「芽」を描いた作品が、玄関のもっとも目立つところに飾られてあることが印象的だった。「ものの芽」という言葉を、私はそのときはじめて知った。

 「ものの芽」とは、何の植物のというものでない、不特定多数の草木の芽のことであり、新しい季節の息吹を感じさせる春の季語の一つだ。その句に接して以来、私はその言葉が頭から離れなかった。自分でも一句、詠んでみた。

  ものの芽に呼ばれて夜の散歩かな

 清少納言は「春はあけぼの」といったけれど、私は春の夜が好きだ。寒さが過ぎ去り、本格的な蒸し暑さには遠い、春の夜。涼しい夜にはふらっと散歩に出たくなる。その衝動をものの芽に誘われて、と詠んでみた。凡句だとは思うけれど、大叔母さんなら褒めてくれたと思う。私に対してだけでなく、誰に対しても優しい人だったから。

 大叔母さんの作品は新聞の読者投稿欄にしょっちゅう掲載されていた。絵や俳句ばかりでなく、書く文章も見事だった。

 創ること、そして苦労して生みだしたそれらの作品が誰かのもとに届くことを、生きがいのひとつにしていた大叔母さんは、自らそう名乗ることこそなかったけれど、市井の偉大な芸術家だった。

 大叔母さんの血が自分のなかにも流れていることを誇らしく思いながら、いつもより少し長い散歩に、昨夜、私は出かけた。

 三日月がきれいな夜だった。おばちゃんなら、この月を何と表現しただろう。ふと、そんなことを考えた。

(終)

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