熱帯魚の夢
熱帯夜。それは、コンクリートとアスファルトの街が、巨大な蒸し器と化す夜のこと。エアコンの室外機が吐き出す熱風が、アスファルトの上で陽炎となって揺らめき、夜空の星々は、まるで茹で上がった豆のように、ぼんやりと輝いていた。
アパートの一室。松本は、寝苦しさに何度も寝返りを打っていた。額には寝汗がびっしょりと付き、シャツは汗で肌に張り付いている。彼は、枕元のペットボトルの水を一気に飲み干し、大きくため息をついた。
「ああ、暑い・・・寝れない」
彼の視線は、不意に、部屋の隅に置かれた水槽へと向かう。そこには、色とりどりの熱帯魚たちが、涼しげに泳いでいた。
「いいなあ、お前らは」
松本は、水槽に近づき、じっと魚たちを観察する。水草の間を縫うように泳ぐネオンテトラ、底でじっとしているプレコ、水面でパクパクと口を動かすベタ。その優雅で涼しげな姿は、まるで別世界から来た生き物のようだった。
「うらやましい、俺も魚になりたい」
松本は、独り言のように呟くと、水槽に手を入れた。ひんやりとした水の感触が、火照った肌に心地よい。彼は、そのまま水槽の中に顔を沈めてみた。
すると、どうだろう。
視界が、音声が、感覚が、全てが、水の中のものに変わっていく。彼は、自分が熱帯魚になったかのような、奇妙な感覚に襲われた。
「え? なんだこれ?」
彼は、慌てて水槽から顔を出したはずだったが、彼の体は、すでに人間のそれとは違っていた。
鱗が生え、ヒレが伸び、エラ呼吸が始まっている。彼は、いつの間にか、本物の熱帯魚になってしまっていたのだ。
「嘘だろ?」
松本は、自分の姿を見て、愕然とする。水槽の中で、他の熱帯魚たちが、興味深そうに彼を見つめている。
「おい、お前!そこの!新入りか?」
赤いネオンテトラが、彼に話しかけてきた。
「え、あ、うん」
松本は、戸惑いながらも答える。
「なんだよ、その顔! もっと堂々としてろよ! 熱帯魚は、自信を持つことが大切なんだぜ!」
ネオンテトラは、そう言うと、他の魚たちと一緒に、水槽の中を優雅に泳ぎ始めた。
松本は、彼らの後をついていく。水の中は、思った以上に快適だった。涼しくて、静かで、心が安らぐ。
水槽の底に沈んでいた水草をつまみ食いしてみた。意外といける。
しかし、そんな束の間の平和は、長くは続かなかった。
突然、水槽の電気が消え、部屋の明かりがついたのだ。松本は、水槽の外に、見覚えのある人影を見つけた。
「あれ? 俺の部屋、なんか涼しい?気のせいかな」
それは、紛れもなく、別人ならぬ、松本本人だった。
「おい、ちょっと待ってくれ! なんで俺がそこにいるんだ!」
松本は、必死に水槽のガラスを叩く。しかし、彼の声は、水の中に阻まれ、届かない。
松本は、絶望に暮れた。彼は、永遠に、水槽の中に閉じ込められてしまうのだろうか?そして水槽の外にいる人間の姿の松本は誰?
おれはおれ、おまえはおれ、おれはおまえ。
次の瞬間、彼はあることに気づいた。水槽の蓋が、ほんの少しだけ、開いているのだ。
「これだ!」
熱帯魚松本は、最後の力を振り絞り、水槽から飛び出した。彼は、床の上でピチピチと跳ね回りながら、必死に人間松本の足元を目指した。
「よし、これでやつの元にいけばなにかが起きる!ハズ!」
熱帯魚松本は勢いよく近づいたが、人間松本には追っても追っても届かない。
必死に動けば動くほど呼吸ができずに苦しくなってくる。
ヒレはボロボロになり鱗はハガレ、尻尾にも力が入らなくなってきた。
もうちょっと!もうちょっとでたどり着く!もうすぐだ!
しかし、無情にも目の前で扉が閉じられた。
「くそ、薄情なやつだ」
彼の体は限界をむかえ、やがて力なく眼を閉じた。
翌朝。松本は、いつものように、寝苦しさに目を覚ました。
「あれ? なんか変な夢見たな」
彼は、水槽に目をやる。そこでは、色とりどりの熱帯魚たちが、昨日と変わらず、涼しげに泳いでいた。
(終)
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