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頼朝旗揚げ、三嶋大社祭礼の夜 吾妻鏡の今風景05

源頼朝。久安3年4月8日(1147年5月9日)生まれ。父は源義朝(源氏の御曹司)、母は由良御前(熱田大神宮の宮司の娘)。平治の乱(1160年)で父の義朝とともに戦い、敗走、伊豆へ流刑。現在、北条政子の婿として北条館で暮らす。

ここでクイズです。伊豆の流人であった頼朝が旗揚げすることになった理由は?
 
1・頼政のクーデターが失敗、源氏追討の沙汰が出され、頼朝の身も危うくなったため。

2・文覚が、後白河法皇から平家追討の宣旨を預かってきたため。

3・北条時政が平家の怒りを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆に嫁がせようとしたため。

どれが正解なのかはわからない。歴史に「もしも」はないように、歴史の真偽も「もしかしたら」の域を出ないので。
 
 が、1は記録があるので信憑性が高い。2はかなり怪しい(たぶん嘘)。3はまったく可能性がないわけではない。


 
 以仁王の乱から1か月もたたずに源氏追討の沙汰が出されたことは事実で、政子の父の北条時政は、いずれ頼朝を平家にさしだすのか、頼朝と共に旗揚げするのかの決断を迫られることになるのは明白。
 
 しかし戦とは陰謀なので、ならば政子を伊豆目代の山木兼隆に嫁がせるという約束をし、これにより山木兼隆を油断させるというぐらいの事も、当然考えたに違いない。
 政子がすでに既婚であったとか、大姫が生まれていたとかいう話はノープロブレム。なぜなら当時、娘の婚姻は親の一存で決まった。伊東の八重姫は頼朝の最初の妻であるが、その父の伊東祐親によって子の千鶴丸は殺害され、八重姫は江間次郎に嫁がされている。だから時政が、娘の政子を流人の頼朝と離縁させて山木兼隆に嫁がせのは、この時代の一般常識としてはごくあたりまえだったと思われる。

 


 頼朝には旗揚以外の選択肢はない。頼朝の衣食は乳母の比企尼(ひきのあま)から届けられ、さらに比企尼は、3人の娘婿(安達盛長・河越重頼・伊東祐清)に頼朝への奉仕を命じている。頼朝はやっぱり貴種(御曹司)で、御曹司のやることといったら、お家再興でしょうが。 
 頼朝が出家していないということは、いつだって旗揚げはできるということになる。となると都では、頼朝をいつまでも生かしておくつもりはなかったはずで、では、いつまでなら生かしておくのか?
 
 頼朝は法華経千部を写経するという目標をたて、日々、写経に明け暮れる日々であった。その写経が完了するまでは、頼朝を処刑するのは無理ということ。だって仏罰が怖いから。
 
 法華経の文字数は六万九千三百八十四字。原稿用紙にしたら174枚。とはいうものの。写経というのは、ただ文字を書き写せばいいっていうものではなく、一文字書いたら仏を拝みながら、というのが、本来の修行だそうですが。
(父が写経が趣味で、字が上手で、なんかとんでもなく時間がかかるというのは聞いていましたので。)

 仮にただ書き写すとしてもですよ、普通は1か月ぐらいかかるから。頼朝は20年かかって800部を写経したということなので、1年で40部。10日で1部と考えると、わりと早いほうなのではないかと。とにかく千部写経の大願成就までは処刑はされない、つまりこれは頼朝の策だったのではないか、とさえ思えてくる。


しかし、ここに及んで、事態は急展開。だって、以仁王があんな令旨を出すから~。
 
 頼朝は、伊豆山権現社別当の覚淵に旗揚げの意思を伝え、旧暦八月六日には卜筮を行い、旧暦八月十七日の寅の刻に山木兼隆を討つべしと決定。この時に、どのような卦が出たのかは記録されていないので不明。


 
 そして三嶋大社の縁日。治承四年(1180年)旧暦八月十七日、北条時政の軍勢は韮山にある兼隆の目代屋敷に向かう。子の刻、夜空には昼のように明るい満月が昇っていた。
 なぜこの日であったのかといえば、三嶋大社の祭礼に兼隆の館の兵が出払い、警備が手薄になるため。はたして、油断していた山木兼隆は、あっけなく討ち取られる。   (秋月さやか)


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