優雅な挨拶(2)

 透明な水が日射しを受けてきらめいている。出水がすぐ近くにあり、山の伏流水が大量に流れ込んでいるらしい。森の中を流れる小川に、ぼくは素足をひたして物思いにふけっていた。
 どれくらいそうしていただろうか。手帳には頭に浮かんだいくつかの言葉を書きつけていた。
「こんにちは。」
 まさかこんな場所で他人と遭うなんて思いもしなかった。ぼくは狼狽えた。見ると同い年くらいの青年がいつの間にかこちらを窺っているではないか。ぼくは挙動不審な仕草で返事をした。
「やあ、」
 何も悪いことはしていないのに、小川から急いで出ようとして足を滑らせた。その瞬間、大切な手帳を空中に放り出してしまった。水の中に尻餅をついてしまったぼくは、焦って手帳を探そうと躍起になった。
 −ない、ない、ない。手帳が、ない。
 青年のことなんて目もくれず、手帳が描いた軌道の先をひたすらに探していた。
「あのう、」
「手帳!」
 一瞥すると、青年が心配そうにぼくを窺っている。
「これですか?」
 よく見ると、青年がその手に持っているではないか。ぼくは途端に安堵して、へなへなとまた水の中に尻餅をついた。
「よっぽど大切な手帳なんですね。わたしの方に飛んできて、直接受け止めたので濡れてませんよ。大丈夫。」
 青年の声が天使の声に聞こえた。
 ぼくはようやく落ち着いて起き上がり、青年の顔を見た。
「どうも有り難う。」
 青年は可笑しそうに笑いだした。ぼくもつられて、笑いだした。ふたりの笑い声が、森の中に響き渡った。
「ごめんなさい、わたしが急に声をかけてしまったから。」
「いや、不意をつかれて狼狽えたぼくが悪い。」
 ぼくは小川から出ると、近くにあった大きな石に腰掛けた。青年もまた、その隣に腰掛けた。
「山道を散策していたら、ここがあまりにも気持ち良い場所だったから、わたしもご一緒して良いか聞こうと思ったんです。突然話しかけて、御免なさい。」
 改めて青年を見ると、朗らかで良い顔をしている。この季節ですでに日焼けをしているということは、外でする仕事に就いているのだろうか。
「何を書いているんですか?」
 青年が不思議そうに訊ねる。ぼくが詩を書いているというと、青年は良いご趣味ですねと言った。ぼくが、いつかは仕事にしたいと思っていると応えると、青年は素敵ですねと言った。それからしばらく、どちらともなく森の音に耳を澄ませた。
 ぼくは社交的な方ではない。友人と言える人も詩作仲間だけで、学生の頃のクラスメイトとはすっかり疎遠になっている。共通の話題がない相手と、何を話したらいいのかずっと解らなかった。でも、しゃべることがないなら黙っていたらいいのだと青年の様子を見ていて思った。

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