適切な対価の仕事はなぜ重要か

先日、YouTubeでLancersでの収益(2014年から)を公開しました。

ただこの動画は、「これだけ稼ぎました!」というアピールのためのものではありません(少なくとも僕はその意図で公開してはいません)。そうではなく、フリーランスとして僕が成長しようとする中、どういったことを重要視してきたかということをお話することが真意でした。

その中で「値上げ交渉をすることが重要」という話をしたのですが、機を同じくして、現在翻訳家の間で「適切な仕事単価を求めるべき」という機運が高まっています。そこで、どうしてフリーランスが値上げ交渉をすることが重要なのかについて、改めて補足的に話をまとめておきます。

翻訳家(に関わらずすべての事業に言えることですが、ここでは翻訳家視点の話とします)の仕事の単価を高めていかなければいけない理由は、僕が思うに主に3つあります。「そうしなければ生活が成り立たないことになるから」、「業界全体に影響があるから」、「翻訳の質が落ちてしまうから」です。それぞれ解説していきます。

1 生活が成り立たなくなってしまう懸念

翻訳家として生計を立てようと考えるなら、自分の生活費を稼げるようでなければいけません。そしてこのとき、皮肉なことに、「仕事がないので単価を下げるしかない」という考えに陥ってしまうことも珍しくないでしょう。

しかし単価を下げればそれだけ多くの仕事を熟す必要があり、時間が奪われてしまいます。翻訳は集中力を伴う仕事ですし、頭を酷使する仕事ですから、やはり一日の労働時間にはある程度の限界があると言って良いでしょう。安く仕事を受けて、充分な質で成果物を提供できず、安い仕事を繰り返すことになる。これでは泥沼です。

もちろん、特にクラウドソーシングや直接取引から翻訳家になるような場合、下積み時代とでも言うべき、安い単価からのスタートを経験しなければいけないこともあると思います。しかし、その金額で仕事を取れるからといって、そうした低単価での受注に甘んじていてはいけません。どこかで正当な翻訳家としての対価を得られるよう、単価を高めていく必要があるのです。

低単価で仕事を受注していると生活が成り立たなくなる理由がふたつあります。ひとつはインフレ、もうひとつは市場競争での立場です。

1-1 インフレの影響

基本的に、経済が成長していくと物価が高くなります。物価が高くなるということは、同じ1万円でも買えるものが少なくなるということです。

例えばうまい棒が10円から12円に値上げされることになったというニュースは記憶に新しいところですが、これはつまり、100円あれば今まではうまい棒を10本買えていたのが、今後は8本しか買えなくなってしまうということです。うまい棒と100円では、相対的に見て100円の価値が低くなっているわけです。

これはうまい棒だけの話ではありません。あらゆるものの価格が、時には見えにくい形で高まっています。短期的には落ちることもあるかもしれませんが、長い目で見れば右肩上がり。そんな中、「物価が安いころ」の単価設定で仕事をし続けていたら、いつの間にか物価が高くなったとき、生活が圧迫されてしまうことになるのは自明の理です。

もちろん、今日明日で物価が大きく変わるということはないでしょう。しかし、「いつの間にか高くなっている」というとき、まだ安かったころの収入を維持していては、相対的に貧しくなっていることになってしまうのです。

1-2 市場競争での立場

特に無形のサービスにおいては、金額を安くすることは比較的誰にでもできます。しかし「安さ」を唯一の売りにすることは、「それ以外に売りにするものがない」と公言しているのと変わりません。他に市場競争での優位性を持たないために安くするしかないという状況は避けたいものです。

仮に安価でサービスを提供することで市場競争において一時的に優位性を手にしたとしても、それよりも安くサービスを提供する人が現れればその優位性を失ってしまいます。クラウドソーシングなどのサービスの登場もあり、副業などで仕事をしやすくもなりました。あなたが翻訳家をメインの収入の柱としているとき、副業で「本業もあるし、こっちはお小遣い程度でもいいや」と安価な仕事をする人が現れたら、その人と安さで勝負することは難しいでしょう。このように、安さによる市場競争の優位性は非常に危ういものなのです。

2 業界全体への影響

前述したように、「安さ」を売りにしようとすると、他の人が安さでアドバンテージを得ようとすれば更に安い金額を提示することになります。これにアドバンテージを得ようとして更に安く、更に安く、となっていきます。

もちろん、この負のスパイラルに巻き込まれる翻訳家だけではありません。相対的ではなく絶対的な価値を提供できている翻訳家は、他者との比較によってその価値を毀損されることはないでしょう。しかし、安い単価で仕事を受ける翻訳家が多くなってしまえば、市場における翻訳家に対する印象は「安い単価でOK」ということにもなります。こうして市場心理が「翻訳家への予算は安くても良い」という風に傾くと、それは業界全体への価値毀損にもなってしまうのです。

翻訳を仕事として請け負う以上、翻訳業界の一端を担っていることになります。だからこそ、ひとつひとつの仕事を丁寧に、「やはり翻訳家に仕事を依頼すると違うな」と思ってもらえるだけの価値を提供していくことが求められるのです。それであってこそ、「副業で翻訳を少々」という働き方をする人との差別化にもなるでしょう。もちろん副業で翻訳をすることが即ち悪というわけではありませんが、本業で仕事をしている人との差別化(あるいは棲み分け)はある程度必要であるはずです。

3 質への影響

翻訳家が担うことがある仕事としては、翻訳だけでなくMTPEと呼ばれる機械翻訳に対する編集もあります。一般には、機械翻訳を適切に用いることで翻訳までの時間的/金銭的コストを下げることができるとされており、これを導入している企業(クライアント)も多く存在します。

しかし一方で、やはり人間の手による翻訳の方が全体的にクオリティが高いことが期待できます。原文の意味を解釈し、最も適切な表現を取捨選択することは、少なくとも現状では人間の方が得意としているからです。ただそれには時間が掛かるというわけで、この時間的コストとクオリティのコストのトレードオフをどのように考えるかによってMTPEに対する考え方も変わってきます。

翻訳自体の対価を落としていくということになると市場では「もっと安く依頼したい」という機運が高まることは間違いありません。そうすると、「翻訳ではなく機械翻訳(とMTPE)で依頼すれば充分」と考える人が多くなっても不思議ではありません。

確かにMTPEで充分に対応できるような案件もあるでしょう。しかし、本来であればよりクオリティの高い翻訳を人間が一から行うべきであるような分野やプロジェクトまで「MTPEで済ませてしまおう」というのは、いわゆる翻訳全体の質が下がってしまうことにも繋がります。前述したように、MTPEよりも人間が翻訳する方がクオリティが高くなるということは、MTPEだけになるということは比較してクオリティの上限値が低くなるということにもなるからです。

個人的には、MTPEは完全に否定するべきものではないと思っています(そのような考え方から、Udemyでの翻訳講座でもMTPEの項目を設けています)。特にクライアントワークにおいては、クライアントの意向に沿った形でMTPEを活用していくことが良い場面もあるでしょう。

しかし、機械翻訳と人間の翻訳はあくまで共存するべきものと考えます。手法のひとつとしての棲み分けや使い分けがあるだけで、どちらかだけが一方的に優れているということにはならないと思うのです。

値上げ交渉は一日にしてならず

とは言え、では翻訳家が一斉に次の仕事から値上げ交渉を行えば良いのかというと、そういうことでもないと思います。少し雑な言い方になりますが、「適切な単価でなければ困ったことになる」のはあくまで翻訳家目線の事情であり、クライアント目線の事情とは異なるからです。

では、値上げ交渉を行う上でどういったことが重要なのか。これは動画内でも触れていることですが、「与えられている金銭的価値よりも高い価値を提供すること」を繰り返すことです。

例えば1万円で1万円のものを購入しても、それは差し引きプラマイゼロということになります。購入者にとってその欲しいものが1万円よりも価値があると思うからこそ、そこには売買が成立します。その金銭的価値よりも低いと思うものに、人はお金を払いません。これは無形のサービスでも同じです。

1万円を対価として受け取ることになっていて、その代わりにサービスを提供するなら、そのサービスの"価値"は1万円以上でなければいけません。この価値が1万円という価格を上回っていればいるほど、サービスを受ける側は「お得だった」と感じるわけです。

このように、対価として(価格として)受け取っている金額よりも常に大きな価値を提供することは、クライアントに損をさせないために重要なことです。この大きな価値というのが何かは場合によるでしょう。時には丁寧な対応であったり、翻訳の質であったり、納期よりも早めに提出するという習慣であったりなど、色々なパターンが考えられます。自分に値段を付けるときには、そうしたプラスアルファのサービスを提供できていることに自負がなければいけません。

さて、では値上げ交渉をするときはどうでしょうか。例えばこれまで1万円で受けていた仕事を2万円に上げたいとなったとき、それが受け入れられるのはどういうときでしょうか。

色々な要因はありますが、やはり重要なのは、仕事の単価が2万円になるなら、やはりその仕事を発注することでクライアントが得られる価値は2万円より大きくなければいけないということです。つまり、これまで仮に1万円の対価の仕事で15,000円分のサービスを提供していたなら、2万円に値上げすることにはクライアント目線での妥当性がありません(もちろん、本来であれば提供価値を金銭的価値に置き換えることは一概にはできませんが、ここでは話の簡略化のために敢えて変換しています)。

ここから分かるのは、値上げをするなら、その前提として、それよりも大きな価値を提供できることを示すことが重要だということです。こうした事情から、特に駆け出しの翻訳家(翻訳家に限らずフリーランス)は金額交渉をするのが難しいということもあるかもしれませんが、ここで重要なのは経験の有無というよりも、自分が提供できる価値を正しく把握しているかどうかです。

有形の商材を扱う場合を考えてみましょう。仕入れ値がいくらだったか、またどういう風に購入者にとって役立つのか、そういうことが分からないものに値付けをすることはできないはずです。それと同じで、自分がサービスを提供するとき、それにどれくらいのコストが掛かっているのか、また自分が提供するサービスはどれくらいの価値があるのかを把握していなければいけません。

このようにして最初の金額を決め、そこから経験によって自分のサービスの質が高まっていったなら、それに合わせて値上げ交渉をしていく。それを繰り返すことは、翻訳家のみならず、フリーランスにとっての義務のようなものです。「楽に仕事を取れる価格」から動かないのは長い目で見ると自分の首を絞めるのみならず、それが積み重なれば業界にも影響がでます。そう考えると、自分の適正価格について考えず、それを請求しないことは、職務怠慢と言っても過言ではないでしょう。

ご挨拶と蛇足

今回の内容は、既に公開されているYouTubeでの動画の内容に補足説明をしたものです。また、僕は経済の専門家というわけではないので、間違っているところもあるかもしれません。あくまで経済については門外漢の一意見としてご笑覧ください。

YouTubeではこういった内容についても扱った動画を公開しております。興味がございましたら、ぜひ一度ご視聴頂ければ幸いです。また、チャンネル登録を頂けると大変励みになります。合わせて、動画化を希望するテーマなどがあればお気軽にご連絡ください。


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