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渚カヲルとはいったい何者なのかということについて

エヴァンゲリオンの最終章の映画でも登場した渚カヲル君について書こうと思う。ご存じのとおり、細身で色白でイケメンで、堂々と自信にみちあふれていて、シンジくんに謎に近い距離で、ノンケとは思えないくらいの距離で近づいてくる腐女子のために作られたのではないかというくらいのキャラだ。

象徴としてのカヲル

私はこの渚カヲルというキャラは、もう一人の碇シンジである、という解釈としてアニメを見ていた。そして「シンエヴァ」をみたあとでもその解釈は揺らがない。

それで、なんとなくwikipediaを見ていたら

”庵野 「最後の使徒は人と同じ形で少年にしようと思ってたんで。」 ー「でも渚カヲルって名前だって、女の子でもいいわけじゃないですか。」 庵野「でもあれは少年ですよ。女性って感覚がまるでないですもんね。シンジともうひとりのシンジですから。理想のシンジが現れるんで、女性ではダメです」”(渚カヲルのページより抜粋)

といった事実があると表記されていたのでそういう意図がはっきりあったみたいだ。

ここでいうもうひとりの碇シンジとは、関係としては漫画「遊戯王」に登場する武藤遊戯の光と闇の二つの人格といった、実際の自分と理想の自分という対比構造という面では同じである。碇シンジと渚カヲルの場合、肉体も違うし名前も異なっていて、作中では違う人間としてもちろん扱われていた。

カヲルとシンジの共通点としてはまず体格、背丈がほぼ一致していることがあげられる。公式設定は発表されていないが少なくともアニメで並んでみるとその点は納得することができると思う。

それに対して対称的なのは、二人の性格である。これは一番大きく「自分の存在に対する自信」に出ている。カヲルはいつもにこやかな笑顔を浮かべて余裕にふるまうのに対して、碇シンジは全く自分に自信が持てず、いつもオドオドしてなんだか不満げな表情をしている。これは結構ほとんど遊戯王である。

もう一人のボクでありながら、違う名前と肉体をもっている、それはどんな意味をもつのか。それはユングでいうシャドウという概念に紐づけて考えると納得できる。

""ユング心理学の概念の1つに「影(シャドウ)」というものがあります。
簡単に言うと、自分自身について認めがたい部分、その人の人生において生きてこられなかった側面を表すものとされます。それは現実にいる他者(同性)に投影されて、自分の目の前に立ち現れるときに特にはっきりとします。""(https://dcs.adm.u-tokyo.ac.jp/scc/columnlist/column/568/より抜粋)

渚カヲルは魅力的であるが、その魅力は碇シンジのみが意識しているものである。それはなぜかというと、渚カヲルは碇シンジの理想を、他者としてではなく人間ではない何かに投影しているからであると考えれば納得することができる。そして、それが最後の使途であった理由の一つと考えられる。

使途についてはまだ自分の中でまとまっていないし十分な知識も備えていないので、また別記事で書こうと思う。(余裕があったら)

P.S― ちなみに僕はカヲルオタクの女の子に高校時代告白されたことがあります。僕はもしかしたら渚カヲルだったのかもしれない。

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