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『くちびるにウエハース』を読む / 飯島章友

一、個的な要素とみんなの要素
 二〇二二年、なかはられいこの句集が21年ぶりに上梓された。『くちびるにウエハース』(左右社)である。まずは最初に総論めいたことからお話ししたい。
 本句集から話がずれるようで恐縮だが、最初にこんなことを言っておきたい。それは、いわゆる「現代川柳」を読んでいると疲れることがある、ということだ。筆者が川柳の作句を始めた頃からのことである。
 それ以前、読んで疲れると言えばもっぱら短歌だった。近代以降の短歌は、時に過剰なくらい「私」の心情や身上を描写してきた。その私性が疲れるのである。べつに特別なことを言っているのではない。皆さんも普段、愚痴や自虐的なことばかり言う人、あるいは社会の矛盾ばかり主張してくる人がいると疲れないだろうか(ここでハッと気づいたけど、このくだりも愚痴と紙一重なので読者を疲れさせているかも知れない)。
 一方、現代川柳のほうはと言うと、言葉によって疲れてしまうのである。現代川柳では、一見まったく関係のない言葉と言葉が一句のなかで同居し、読みの文脈を生じさせない作品がある。初めこそそれは、筆者にとって衝撃だった。常識が覆る思いだった。と同時に、そのような川柳を何句も見ていくとクタクタになるのも事実だった。
 俳句の二物衝撃や短歌の上の句と下の句の呼応も、要は言葉の関係性や距離感の問題だ。基本的には、付かず離れず・不即不離が意識されている。ところが、現代川柳では、付かずや不即が過剰に追求されているかに思える句もある。それは、過剰に「私」を出してくる短歌と同じく、筆者を疲れさせる。誤解のないように断っておくと、そのような手法の中には思わず目を見張る作品も少なくない。もっと同類の川柳を読んでみたいという欲求に駆られることだってある。
 一方、なかはられいこの川柳は読んでいて疲れない。さあ読むぞ! と気合を入れずに読める。それはけっして言葉と言葉の距離が近いため読み流せる、という意味ではない。むしろ従来の吟社川柳からみれば、言葉と言葉の距離は離れがちだ。それなのに一句一句立ち止まって良い余韻に浸れる。少なくとも筆者に関してはそうだ。なぜか。思うになかはらの言葉選び、あるいは一句全体から受ける印象に「過剰さ」がないためである。言葉と言葉の不即を目的化しているフシがないのだ。つまり、(短詩型文芸の読みに慣れた人という条件付きながら)読者に開かれた川柳なのである。
 ある川柳作品を読み手の心に響かせるには二つの要素が必要だと思う。一つは、作者独特のセンスを感じさせる「個的な要素」。もう一つは、作者と読者が感覚を共有できる「みんなの要素」だ。なかはらの川柳には両要素がバランスよく備わっている。そのマニフェストと呼びたい川柳が本句集の冒頭に置かれている。

ぼくたちはつぶつぶレモンのつぶ主義者

 ここには「ぼくたち」(みんなの要素)と「つぶ主義者」(個的な要素)の両方を読み取ることができる。

二、瑣末の処理の仕方
 ここからは各論に移って、なかはられいこの川柳の特長を考えていきたい。
 川柳と同様、短歌でも瑣末なことに焦点を当ててそれを描写することが多い。しかし、それのどこが良いのか? と瑣末主義(トリビアリズム)に否定的な歌論も何度か見たことがある。思うに、瑣末だからだめなのではない。瑣末の処理の仕方が問題なのだろう。なかはらも瑣末を書くことがある。だが、瑣末を面白く料理する言語的センスがあるのだ。

緑と白の境が葱のなきどころ
こんなときだけど鳩の脚ピンク
サボテンに赤い花咲くそうきたか
五秒後の世界が流れてる字幕

 それぞれ「なきどころ」「こんなときだけど」「そうきたか」「世界」という表現によって、瑣末が単なる瑣末ではなくエンターテインメントに高められている。それは、仮に四句目を「五秒後の台詞が書かれてる字幕」と、瑣末を瑣末のまま表現したのと比べれば明らかだろう。改悪したほうでは内容がのっぺりしていて引っ掛かりがなく、読み流してしまうと思う。

三、驚異と共感
 俳句における季語とその他十二音、短歌における上の句と下の句、連句における付合など、短詩型文芸では多かれ少なかれ、言葉と言葉(あるいは文脈と文脈)の関係性や距離感が成否のカギとなる。
 最初の話とも重なるが、なかはらの川柳は「個的な要素」と「みんなの要素」が共存している。前者は作者独特のセンスを味わえるという意味で「驚異」の要素、後者は読者と感覚を共有できるという意味で「共感」の要素と言いかえてもいい。なかはらの川柳表現は、驚異も共感もバランスよく内蔵している。これは、言葉の関係性とか距離感が絶妙ということである。

魚の腹ゆびで裂くとき岸田森
バス待っているの点滅しているの
どうも、どうも、どうも、と春の雪が降る
ゆうぐれのたまごのなかの式次第
気管支にからむ魏呉蜀けさの秋

 一句目、昭和の怪優「岸田森」が演じる気味の悪いキャラクターを想うと、魚の腹を裂くときの感覚にぴったりと嵌り、共感ができる。それでいて、ここでの岸田森の登場には意表を突かれる。なかはらの用いる言葉に驚異と共感が同居する所以である。難を言えば、岸田森を知らない読者も多いと思われる点だが、分からない人は置いていく姿勢がじつにクール!
 その他、「点滅」「どうも、どうも、どうも」「式次第」「魏呉蜀」も、よくぞこれだけ驚異と共感を誘うイメージを選べたものだと、自分のことのように嬉しくなる。特に、教養として皆が知っている魏呉蜀の争いを「気管支」と絡めた五句目は絶品! イメージのみならず、漢字の形自体がいかにも絡まりそうで。
 魏呉蜀の句から一つ思ったことがある。同句集収録の「原潜が喉いっぱいにこみあげる」が、何ほどか現代の危機を想起せずにはいられないのに対し、魏呉蜀の句は昔の時代のことなので、ほぼ純粋に娯楽として楽しめる。このあたり、重要な議論を孕んでいるのではないだろうか。

四、作品の喚起力
 短詩型文芸は歴史が長いため、言葉は書庫としても機能している。なので、ある作品に接したとき、過去や現在の作品群と呼応しやすい。短詩型文芸の醍醐味と言えるだろう。とりわけ、なかはられいこの川柳は、他者の作品を喚起する力がある。なかはらは二十一世紀の川柳を牽引してきた存在。過去・同時代の川柳をしっかり捉えてきたことだろうし、他の柳人もなかはらの川柳に影響を受けてきたのだと思う。

朝がきて空が青くて、なんか、ごめん
おとうとは結露するため立ち上がる
おやすみと言い合う鶴を折るように
咳こんで林は森にかわります

 一句目を読んだときに想像したことがある。まるで松木秀の「いっせいに桜が咲いている ひどい」(「おかじょうき」2015年5月)への返句のようだと。脳内で付けられるのは短詩型文芸ならではだ。
 二句目は、石部明の「いもうとは水になるため化粧する」(『遊魔系』)の本歌取りとも読める。同じ水分でも妹は水、弟は結露である。しかし、弟のほうは結露になるためではなく「結露するため」だという。初読では石部作品に引きずられ、弟は結露の水滴になるために立ち上がると読んだが、よくよく読み直すと、弟は窓ガラスのようにその身に結露を生じさせようとしているのではないか。すると、ここはやはり「おとうと」が合っているな、などと考えながら楽しんだ。
 三句目、墨作二郎の「鶴を折るひとりひとりを処刑する」(『はじめまして現代川柳』)を想い出し、その対照性にえも言えぬ感情が頭をもたげてきた。
 四句目は、拙句の「くしゃみした途端に歌が句になった」(『成長痛の月』)を想起した。咳やくしゃみといった生理的現象が起こるとき、時空に変化が生じる感覚がある。拙句はそれを詠んでみた。ただし、「くしゃみ」は暦がめくれるみたいに一瞬で変化するのに対し、「咳き込む」のほうは形態が徐々に変わっていく時間を感じる。そんな違いを考えるのも読みの楽しみだ。

五、最後に
 書物の引用はせずに要点だけを言うが、人間は芸術作品に接するとき、気づきや発見があると喜びを感じるらしい。また互いに離れた別個の対象に共通項を見出しても、脳内に快楽物質が分泌されるらしい。これを踏まえると、なかはらの川柳が読んで疲れないどころか、快楽ですらある理由が見えてくる。
 すなわち、なかはらの川柳には、言葉と言葉の関係性や距離感において絶妙な驚異がある。それが読者に、言葉って面白いなあ! という気づきや発見を齎し、喜びを与えてくれる。また他作品を喚起させる力もあるので、読者にその作品との共通項や相違点を考えさせ、それが読むことの快楽を与えてくれもする。
 ぜひ本句集を読むことで、このような感覚を味わっていただきたい。

初出 2022年10月「What’s」Vol.3