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『ある老人のつぶやき』
「おれもできれば嫌いな人間のことなんて考えたくはないよ。でもね、なぜだろう、そういうわけにもいかないんだ」
老人はつぶやいた。犬は老人をじっと見つめている。開いた口から平たい舌が伸び、呼気が「ハッハ」とリズミカルに音を立てていた。
「もしかしたらおれにも原因はあるのかもしれない。でもね、やっぱりおれはどうしても怒りや苛立ちを使って他人を支配しようとする人間を好きになることはできないんだ。
そ
『おとな食堂 望郷編』
ガラガラガラ、と門を開く音が聞こえた。
谷沢:「やってる?」
稲田:「お、谷沢さん!久しぶり、お変わりなく?」
谷沢:「まあまあかな。でもまあ、ちょっとだけ風邪気味ではあるんだけど。」
午後八時過ぎ、遅れて谷沢がやってきた。稲田がちょうど食休みに廊下で窓から中庭を眺めていたときだった。
谷沢とは二十年来の付き合いになる。稲田と谷沢は互いに再会を喜び、学生時代のように軽く肩を小突き合った。
『虫の入ったコップ』
コップに虫が入っている。
正確に言うと、目の前にカフェオレの入ったマグカップがあって、そこに虫のようなものが頭から突っ込んでいる。
これはなんなのだろう。
私はテーブルの上にあるこの奇妙なマグカップを凝視しないわけにはいかなかった。
改めてじっと見る。
虫はカフェオレに突っ込んだまま静止している。
もっと正確に言えば、それが本当に虫なのかどうかはわからない。見えているのは黒い羽根と思わ
『ホンズキズキの会』
主催者:「はい、定刻となりました。それではですね、これから本が好きな人が好きな人のための会、題して『ホンズキズキの会』を始めたいと思います。パチパチパチ〜」
参加者A:拍手
参加者B:とりあえず拍手
参加者C:静かに座っている
主催者:「はい、ありがとうございます。ほんとにね、今日は皆さま、お集まりいただきましてありがとうございます。
えーっと、それでですね、この会なんですけれども、ホン
『あるボクサーの証言』
ファイティングポーズを取っていないときのおれの方が、おれは好きだ。
だが、おれにだって拳を握るときはある。そうでないと生きてはいけない。なぜならおれはボクサーだから。
おれにはまだ誰も話していない秘密がある。
おれの拳には空洞がある。外からは硬く握り締めているようにしか見えないかもしれないが、内側には隙間がある。手の平で包んでいる秘密の空間があるんだ。
そこには誰も立ち入ることができない。