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宇宙イナゴ

BFC2に出したはずだけどTCP/IPが宇宙イナゴにやられたみたいで届いてなかったかもしれないヤツ。

宇宙イナゴ
 それに予兆などはなかった。〈宇宙イナゴ〉は光速の九九%の速度で地球を襲い、さらに加速して遠ざかっていった。宇宙イナゴは生物ではなく、電荷を食う超常現象である。プラス電荷の澱みに吸い寄せられ、電荷を奪い、去っていく。前世紀の初頭から物理学者に予言がされていたが、そもそも予測も予知も予防もできないから、人々は考えることを放棄していたのだ。
 もしも、電荷が奪われることの重大さを理解できるのならば、あなたは宇宙イナゴの存在に恐怖し恐慌を起こし恐懼することだろう。理解できないならばそれは幸せなことである。この宇宙には知らないほうがいいことの方が、知っておいた方がいいことよりも多い。覚えておいた方がいいことよりも、忘れてしまった方がいいことの方が多い。そして、本当に忘れてしまったことは更に多い。覚えていることはおおよそ人生にとってどうでもいいことであるので、それらが宇宙イナゴの餌食になったとしても、なんら悔いることはない。その日人類は、全てを奪われ、全てを失い、全てをリセットされた。
 まず、電子的な記録が全て、瞬時に、満遍なくゼロになった。文字通りのゼロだ。デジタルデータは全て電荷または磁気などによりゼロかイチかの情報として蓄積されている。宇宙イナゴは荷電式記憶装置のイチの電荷を食い尽くした。そして磁気もついでに食い尽くした。ここ数十年で積み上げてきた人類の叡智、人の営み、人の富、さらに言えば負の財産も悪しき記録もなにもかも、文化の香りの全てが消え去った。この世界のバックボーンたるインターネットもその仕組みごと消失した。宇宙イナゴが、ネットワークを往来する全ての感情をクリアにしてしまった。生まれつつあった〈新電子生物(AIクリーチャー)〉も姿を消した。深い銀河から送られていた警告も、すべて解読前に消された。国際遠宇宙探査機構(IFUSA)で検討されていた恒星間宇宙船〈アーク〉の計画も、全てが白紙に戻されてしまった。〈ユグドラシル〉にアーカイブされていた歴史もアクティブな現在も机上の未来も、なにもかも宇宙イナゴがゼロに戻して飛び去ったのだ。
 宇宙イナゴが奪ったのは、デジタルデータばかりではない。その凶牙は生物のシナプスの電荷も喰らいつくした。全ての生物は動きを止め、短期記憶を失くし、一旦リセットされた。電荷に依らない長期記憶は保たれたが、人類は理性と人格と尊厳を失い、ただの本能の器に成り果てた。かつて予言されたアンゴルモアの大王が宇宙イナゴであったとしてもノストラダムスは驚かない。私も驚かない。あなたも驚かない。この星では誰もが誰でもなく、何者も何者でもないからである。宇宙イナゴは人々の幸福も不幸も問題も課題も主題もすべて消し去ってしまった。すべて喰らい尽くして無に帰した。
 宇宙イナゴが去った後のある日、宇宙を放浪する戦士フレンズマンは、宇宙イナゴに食い尽くされ奪われ尽くして荒廃しきった絞りカスのようなこの惑星に降り立った。生ける亡者と化した薄汚い生命体は、朝は東へ、昼は南へ、夕は西へと彷徨い、夜は北で眠りについた。フレンズマンが語りかけても、誰一人それには答えず、農民も鉱夫もコックもサラリーマンもセールスマンもビジネスマンも起業家も資産家も政治家もドライバーもバーテンダーもスナイパーも誰も彼も彼女も紳士も淑女もクズも腐女子も皆、ただふらりふらりと風の吹くまま流れるまま、そして転げるままに山から谷へ、丘から里へ、川から海へと流れ込み、藻屑となった。
 地上にはもう誰もいない。地下にも誰もいない。天空にも誰も鳥も煙もなかった。
 青い空に白い雲に、網膜に染みる深い緑の木々、光に溶ける淡い緑の草原、繚乱して咲き乱れる花々が人類に代わって、宇宙の旅人フレンズマンをもてなしていた。電子の本は消えたが、紙の本は遺された。苔むした倒木に腰を掛け、フレンズマンは消えた人類のひとり(少女)が遺した読みかけの本の栞を引いた。恋の物語。ヒロインが恋する男に惹かれ、辛い真実にもがく物語。悲しい恋の物語。だが栞の先、ずっと先で、青年と少女は数奇な運命に弄ばれ、翻弄され、紆余曲折の末に終には結ばれる。ハッピーエンドで締められていた。だがしかし、持ち主である栞の少女はそれを知らずに海へと消えた。宇宙イナゴに食われて消えた。恋の顛末を知らずに消えた。
「時を戻そう」
 宇宙の戦士フレンズマンは、神代の秘宝〈ガッデンの箱〉を使う。箱の力は過去を書き換える。宇宙イナゴは、地球を襲わず別の星系を目指して飛び去った。どんどん書き換える。因果を書き直し、あるべき姿を取り戻す。少女は海から戻り、両親と共に食卓についた。そして読みかけの本を開く。栞を引くと一輪の押し花がひらりと落ちた。少女は花をひろって香りをかぎ、テーブルにおき、恋の物語に戻った。今度こそ結末を。フレンズマンは少女の復活を見届け、新たな世界を探す銀河の旅へと戻っていった。
 だが、フレンズマンもミスをした。一匹。ただ一匹。ほんの一匹だけ宇宙イナゴを見逃した。そして唯一の宇宙イナゴが、ただ一人にだけ、地球人に不幸をもたらした。パソコンで書き上げたばかりの私の原稿データがすっぽり消えてしまったのである。誠に遺憾。
「先生? 今まで親族を皆殺しにしたり、ご自身も三度ほど冥界を行き来したわけですが、今回のホラ話はとくに最悪ですね」
 ホ、ホラなどではない。失敬だな君は。
「そうですか。ところで先日の原稿料ですが、すでに昨日振り込んであります」
 おお。どれ。いや入金はないようだが。
「おかしいですね。宇宙イナゴかな?」
 私が悪かった! 原稿はなる早で。

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