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[山岳小説]カンチェンジュンガに降る雪4


 
藤崎の妻は絹子といった。その絹子は五年前に病死した。働き過ぎによる突然の心筋梗塞の発作であった。
 
立木絹子が藤崎勉と出会ったのは,病院だった。看護師見習いをしていた絹子のいた病院に、藤崎が、手を骨折して入院してきたのだ。藤崎は、絹子が全く出会ったことがないタイプだった。しかし、なにか自分の性格に似通ったものを感じたのか、興味を持った。絹子は、このまま藤崎が退院して疎遠になるのが、なんとなくいやだった。意を決して、絹子は自分から連絡した。男に自分から連絡するなんて考えたこともない絹子だったが、藤崎に対してだけは出来た。なんでこんなことが出来るのかと自分自身に驚いていた。絹子は美人ではなかったが、安心出来る笑顔と物腰を持っていた。こうして二人は付き合いだした。

絹子には遠山由美という、仲のいい友人がいた。二人は同じ高校の同級生だった。
剛毅朴訥というタイプだった絹子に対して、由美は明朗闊達な性格だった。性格が異なる二人だったが、なぜか気があった。立木絹子は高校卒業すると看護学校に入学し、看護師をめざした。そこにはすでに、自分の稼ぎで藤崎を応援しようという、健気な乙女心があった。
一方、由美は、自分は勤め人には向かない性格と思っていたので、高校を卒業したら何か商売をやりたいと考えていた。
由美の母は、祖母から受け継いだ大衆食堂をやっていて、そこそこ繁盛していた。特に昼時はサラリーマンたちでいっぱいであった。値段が安いし、品数豊富で、なおかつうまい。飯がお代わり自由なのも人気の理由だった。由美も学業の合間に、店の手伝いに行っていた。
そんな時、母親が長年の立ち仕事が原因で、腰を悪くして仕方なく店を閉めることになってしまった。常連からは残念がられたが仕方がなかった。由美は、その時すかさず手をあげたのである。
「わたし、高校卒業したらママの店で居酒屋やりたい」
これには母親は難色を示した。
「商売はそんなに簡単じゃないんだよ。第一、食品衛生責任者を置かなけりゃならない。勉強嫌いのお前に資格が取れるのかい」
「大丈夫、わたし頑張る。おばあちゃんとママのお店続けるの」
由美は、はっきり答えたのだ。
食品衛生責任者とは、飲食店、喫茶店などの調理営業や食品の販売業等に必要であり、保健所に許可や届出が必要であった。
これに父親は賛成してくれて、かかる費用は出してやろうといってくれた。
母親も「お父さんがそういうなら」と最後は賛成してくれた。
宣言通り、由美は高校卒業と同時に資格を取り、食堂を改造して居酒屋に改装した。店は『雪ん子』と名付けられた。
由美の持ち前の明るい性格と、はつらつとした笑顔で、店はたちまち繁盛した。
由美の父は、公務員で休日には山に出かけ、四季の美しい山の写真を撮っていた。店の壁には父親のとった写真がたくさん飾られ、すでに山小屋風写真館の風情であった。貧乏な山男をアルバイトで使ってやったりもしていたので、店には山関係の人間が集まってくるようになっていた。口コミでも山好きの人間たちが集まるようになり、評判が評判を呼び、さらに繁盛した。新宿の外れの居酒屋『雪ん子』は、山好きな客や、登山家たちが集う店となった。由美は、特別に山好きだったわけではないが、そんな環境から山の知識は少なからず持っていた。
絹子が藤崎を『雪ん子』につれてきたとき、この二人、よく似ていると由美は思った。二人が付き合うことに由美は少し反対だった。山男が遭難死する話は、昔からよく聞かされていたからだ。しかし、絹子が考えを変えるはずがないことを、由美は長い付き合いから、よく知っていた。やがて二人は、周囲の反対を押し切って結婚した。
 そんな関係もあって、藤崎もここの常連になっていた。その日はお客も少なく、久しぶりに尋ねた藤崎は、由美とカウンターで差し向かいとなった。
「勉ちゃん、ついに登るんだって」
「ああ」
「今度こそ成功するといいわね」
「ああ」
「絹子さんも天国から見てるわよ」
「ああ」
「全くああばかり。でも、ほんとにあなたは果報者ね。あんないい人が奥さんだったから」
「ああ、絹子のおかげで山に登れてきた。登山家なんて無職と同じだからな」
藤崎は日本酒を流し込むと、ぼそりと答えた。
「その恩人の妻をおれは殺した。後輩の北原もだ」
藤崎は遠くを見るように少し目を上げた。
「何いつてるのよ。絹子さんは病気だし、北原さんは事故じゃないの」
「いや、おれは間違いなく二人を殺した。絹子は看護師だった。稼ぎもよかった。おれは、それをいいことにして、気に入った道具を買い放題、遠征旅費も使い放題やった。でも、絹子は何も言わなかった。ただ、だまって俺を送り出して、無事に山から帰ると喜んで迎えてくれただけだ。おれはエゴイストのヒモだ」
「そこまで自分をせめなくたって」
由美は空になった藤崎の猪口に酒を注いだ。藤崎は猪口を口元までもっていって止めた。
「だから、今度の登攀は俺の罪を確かめにいくんだ」
「それ、どういうこと」
「もし、おれの罪が重いなら死ぬだろう。しかし、山がおれを許すなら帰れるだろう。カンチェンジュガはおれにとって特別な山なんだ」
藤崎は壁にかかったカンチェンジュガの写真をみながら呟いた。 
「ねえ、カンチェンジュガってどんな山なの」
「主峰を五つの山が取り巻くように連なっている。主峰を中心にして円を描くと、二十キロ圏に七千メートル以上が十座、主峰と第Ⅱ峰が全て入る。その壮大さは比類がない。主峰を周りが守っているように見える。そして、人間のようなちっぽけなものを寄せ付けない、オーラが漂っている」
「でも、登った人もいたんでしょう」
「ああ、一九五五年のイギリス隊が最初だ。日本隊は谷川太郎をリーダーとして一九九八年に登っている。でも、その時も比較的楽な北側からだ。それでも二人死んでる。山が生贄を要求しているようだ。エベレストで有名なクンブ山群は、カトマンズから小型飛行機やヘリで簡単にトレッキング基地に入ることができる。カンチェンジュンガの過酷な環境とは比べ物にならない」
「勉ちゃん、山の話となると元気になるのね。ねえ、富士山て何メートルなの」
「三七七六メートル」
「マッターホルンは?」
「四四七八メートル」
「カンチェンジは?」
「八五八六メートルだ」
「すごい。マッターホルンの二倍もあるのね」
「ああ。おれは今回はもう一度、東側から登るんだ」
「それって、すごく危険なところじゃない」
「今のところ一九七七年と一九八七年にインド隊が別のルートで北東稜を登っている。しかし、いずれも何人も犠牲者が出ている。
その後、一九九一年にインド隊と日本隊の合同部隊が挑戦しているが、南側は無理だとあきらめて、北に回り込んで登っている。だがこれは、俺に言わせれば南側をあきらめたという敗北だ。特に東側からの日本単独成功は、今のところ例がない」     
「勉ちゃん、なんで東側にこだわるの。どっからでもいいじゃない。頂上にたてば」
藤崎は苦笑した。
「ママ、そういうものではないんだよ。山登りは。だれもやったことがないことをやることに意味があるんだ。東側は難しい。だから意味があるんだよ」
「だからといって・・・」
「山はどこでも危険はつきものだよ」
「隊長は誰なの」
「今井田さんだ」
「今井田さんて、あの今井田さん」
「ああ、前回の隊長と同じ人だ。尊敬できる先輩だ」
「勉ちゃん、必ず帰ってきて」
「ああ」
「ママも元気で」
「なによ、その言い方。もう、かえって来ないみたいじゃない」
藤崎は笑った。
「行ってくるよ」
藤崎は残りの酒をぐいと飲みほした
 

 
SBS・TVプロデューサーの原田昇と妹の香織は自宅の応接にいた。
「お兄さん、この企画書」
「おまえ、これ見たのか」
「あたりまえよ。リビングのテーブルに放り出して、お酒飲んでうたたねしてりゃ。誰にでも見えるわよ」
「おい、これは企業秘密、いや、国家機密だぞ。誰にもいうな」
「この内容、これじゃ政治家のプロパガンダじゃない。この鉄道プロジェクトの件、お金はODAから捻出するみたいじゃない。インド政府のバック・アップに見せかけて、実は日本の税金を使ってやるわけじゃない。シッキムなんて危険な紛争地域に観光客を集めてどうするつもりなの。
カンチェンジュンガはすごい山なんでしょうけど、いくら壮大な景色を見れる山岳鉄道でも危険な地域に観光列者を走らせるなんて、無謀よ。梅原大臣が自分の権力拡大ための国民の税金を使った策略よ。こんなことに利用される藤崎さんがかわいそうだわ」
「しかし、こんな至れり、つくせりのプロジェクト、めったにあるもんじゃない。藤崎にとってもラッキーな話だ」
「こんな不遜なものが裏に隠れているのは、山に対する冒涜だわ」
「おまえ、ずいぶん山男びいきになったな。どうしたんだ」
「どうもしないわよ。お兄さんたちも視聴率さえ上がればいいんでしょ」
「たしかに視聴率は大事だ。おれたちプロデューサーにとってはそれがすべてだ。それで出世も変わるし、給料も変わる。だが、いい番組を創ろうという志だって、ちゃんとあるんだ」
「藤歳さんは引き受けないわ」
「いや、今日了解をもらった。一緒にいた近藤に電話が入ったんだ」
「えっ どうして。徹さんが死んでから、もう絶対登らないと言っていたのに」
「心境の変化だろう」
「そんなはずない。簡単に一度決めたことを変える人じゃないわ。あの人のことは徹さんから、さんざん聞かされたわ。いったい私と藤崎さんと、どっちが大事なのって、聞いたくらい尊敬して憧れてる人よ」
「その藤崎をお前は憎んでたんじゃないのか」 
「そうよ。あの人がいなければ、私は徹さんを失うこともなかった。でも・・・よくわからない。私は彼らの絆と山に嫉妬していただけかもしれない」
「とにかく、藤崎は引き受けた。これは間違いない」
「外務省が絡んでいるのね。外務省といえば・・・近藤さんね。あのお兄さんの大学の同期の近藤保さん。そうか、わかったわ。これはすべて近藤さんの策略ね。あの人ならどんな手をつかってもやるわ。例えば、さえ子さんを使って藤崎さんにうんと言わせるとか。目的のためなら手段を択ばない人だから」
「そう言うな。奴も上からの指示で動いているんだ」
「私は、このことを藤崎さんに話すわ」
香織は家を飛び出して行った。
「あっ、おい、香織!」
原田は唖然として見送るだけだった。
 
藤崎が、香織からの呼び出し電話を受けのは、まもなくであった。藤崎は、香織に呼び出されて自宅近くの喫茶店で会うことにした。改めて北原のことを責められるのか、と少し覚悟したが、それも違うような気がした。
香織は北原を失った悲しみと絶望から、藤崎を憎んでいた。当時、あれは事故なんだと自分に言い聞かせても、悲しみは憎しみかわっていって、自分をどうすることもできなかった。葬儀でも母親よりも泣き崩れる香織をみて、周りは奇異に感じたくらいだった。香織は自分の中に、北原がこんなにも大きな存在だったのか、改めて気づかされたのだ。香織は、やり場のない悲しみを藤崎にぶつけた。藤崎の胸をたたいて「徹さんを返して!」と何回も泣き叫んだ。藤崎はそれをだまって受け止め、頭を下げるだけだった。
しかし、何年か過ぎ、その恨みも少しづつ薄れていった。いくら藤崎を恨んでも北原はかえって来ない、そんな当たり前のことを、やっと香織は受け入れることができてきた。それとともに、北原が亡くなった時のことを何も知らない自分がいることに、改めて気が付いた。ヒマラヤでの遭難は、遺体の回収は全くと言って程困難である。遺体は山に放置されていく。まして八〇〇〇メートルを超える場所の遭難は、遺体の回収は不可能だ。北原の遺体も回収されずカンチェンジュンガのどこかにあるのだろう。藤崎がみつけたピッケルだけがただ一つの形見となった。
藤崎勉と原田香織は何回かあったことがあった。はじめは北原が尊敬する先輩の藤崎のことを、あまり興奮ぎみに話すので、興味をもったのだ。藤崎の朴訥で無口なキャラクターは、香織には不思議な感覚であった。しかし、やさし気な瞳に宿る強い意志と、山にかける情熱は、彼女の知る人間の範疇になかった。北原がなぜ藤崎に惹かれたのか、なんとなくわかるような気がした。彼は、高山植物の美しさや、雪山の神秘さをわかりやすく話してくれたりした。そばにいると安心する不思議な空気感は、彼の魅力であった。
藤崎は、先に着いていた香織をみとめた。
香織は美しい娘だ。いるだけで場が華やぐ。一方の藤崎は髭面の山男だ。他人からは美しい娘と熊が向かい合っているように見えたかもしれない。藤崎はそんなことを思って苦笑した。藤崎は丁寧に挨拶して香織と向かい合った。
香織は美しい微笑をうかべた。藤崎は香織の表情から、少し安堵した。
「香織さん、俺に急ぎの話とは何でしょう」
「藤崎さん、またカンチェンジュンガに登られるそうですね」
「どうしてそれを」
藤崎は少し驚いた。
「私の兄はSBS・TVにいることはご存じでしょう。兄はカンチェンジュガ・登攀プロジェクトの担当やるみたいなんです。まだ公表されてない、壮大な規格のようですね。でも、今度の登攀はおやめになった方がいいと思います」
「・・・」
「このプロジェクトは政治家の思惑で動いています。あなたはそれに利用されているんです。私、この企画の機密文書を兄のところで見てしまったのよ。うらで、インドとの鉄道プロジェクトが走っているわ。インドのダージリンとネパールを結ぶ線よ。この黒幕は外務大臣の梅原隆三郎よ。
このプロジェクトを成功させ、インド政府からの感謝状で次期総理のイスを狙っているわ。このプロジェクト開始の打ち上げ花火として、ネパールとインドの国境にあるカンチェンジュガを利用するのが一番と考えたのね。カンチェンジュンガ北東稜からの日本隊単独登攀。なにが未踏壁への挑戦よ。これまで何人そこで死んでるのか、私だって知ってるわ。まるで自殺行為よ」
香織は先ほどの美しい微笑をすっとばして、怒りをあらわにした。
藤崎はだまって聞いていた。
「これまでの登山隊は、北東からせめても無理だとわかって、ほとんど北に迂回して登っているわ。せめて北側なら・・・それでも危険なことには変わりない。いまや、大衆登山になった夏山のエベレストとはわけが違うのよ」
「わかっています。政治家やメーカーの考えそうなことだ」
「それならなぜ・・・」
「香織さん、北原はなぜ山をやり続けたか、わかりますか」
香織はきっとした目で藤崎を睨んだ。
「名誉とか挑戦?それとも栄光?そんなもの、わかりたくもないわ。山なんか登ったって何になるの。もし、遭難して死んだら、悲しむのは家族や残された人たちだわ。それを、わかっていてなんで登るのよ。あなた方は単なるエゴイストよ。藤崎さん、私は恋人を奪ったあなたをまだ許していません」
藤崎は少し間をおいて遠くを見るように言った。
「香織さん、ヒマラヤの八千メートルを超える山の頂に立つと、星明りで本が読めるんです。星明りの山は、神々しく,まるで神が住む世界のように澄んでいる。夜が明けると反対側には隣の国が見下ろせます。眼下には雲が広がり、まるで天上界にきたようです。たしかに山は危険ばかりです。雪崩や岩がいつおちてくるかわかりません。一歩一歩が命がけです。しかし、その一歩一歩が生きている証なんです。都市にいる人にはわからない、充実感があるんです。私もなんで山に登るのかわかりません。これからも理由なんてわからないでしょう。でも、もう一度あの世界に行きたい、と思うのです」
香織は涙目になった。
「ねえ、おしえて。徹さんが死んだときのこと。あなたはその時のこと自分のせいにして、誰にも話さないけれど、私はそれを聞く権利と資格があるはずよ」
藤崎は暫く沈黙したが、重く口を開いた。
「・・・北原はあの時、俺とザイルをつないでいました。キャンプ5でビバークし、わたしはここで完全休養してキャンプ6から頂上にアタックしようとしたのですが、北原はこう言いだしたのです」

 「藤崎さん、頂上はもうすぐですよ。ほら近くに見えるじゃないですか。このまま攻めましょうよ」
「いや、あれは近くに見えるが実際はかなり距離がある。あせるな、北原」
わたしはこう言っていさめたのですが、北原は聞かなかった。
「藤崎さん、尻込みしてるんでしょう。じゃあ、俺がトップでいきますよ。藤崎さんは後からきてくださいよ」
「明らかに俺を見下した言い方でした」
「なんだ、藤崎は頂上目前でビビりだしたな。天才クライマーも見掛け倒しだ」
「こんなふうに考え出したのでしょう。北原は暫くは順当に登っていきました。しかし、登れども登れども頂上に着かない。北原は山の魔力に魅了され、勘違いをしてしまったのです。やはり、見た目では近くに見えても、実際は頂上までは相当な距離があるのです。これがヒマラヤ高峰の恐ろしいところです。一九九一年のインド隊が頂上アタック時に全く同じ勘違いを起こしています」
「北原、やはりキャンプ5に戻ろう。このままでは無理だ」
「大丈夫ですよ。行けます」
「北原は意地をはって進みました。しかし、北原はもうふらふらでした」
「その時でした!」
ガラガラッ
「八〇〇〇メートルを超えた急峻な壁の中間あたりで、北原に落石が直撃したのです。疲れていた北原はかすかな落石音が聞こえなかったのです。身をかわす暇もなく落石は北原を直撃しました」
「ぐあああっ」
「そして、ザイルでつながれていた俺たちは、ちょうど時計の六時三十分の針のような形で、ハーケンを境に二人とも中刷りになったのです」
「北原っ 大丈夫かっ」     
「ううう・・・」
「北原はうめいていました。どこかをやられたらしい」
「くそっ 何とかして北原をこちらに引き寄せないと。それには俺が壁に戻らないとだめだ」
「北原は壁からはかなりはなれたところで中刷りになっていました。俺は何とかセルフを確保し、北原の真上にきました」
「ううむ、よし。これで・・北原、もう少しでこちらに引き上げる。辛抱しろ!」
「北原は動かない体で下からいいました」
「藤崎さん、頭をやられました。もう、目も見えないんです。おれ、もう駄目かも」
「ばかをいうな」
「このままでは二人とも終わりです。おれ、ザイルを切ります」
「おい、やめろ。北原っ」
「仮にここから出られても、俺をせおってこの壁を超えることは、藤崎さんでもできません」
「北原、やめろ!おいっ」     
「藤崎さん、生きてかえったら、お袋と香織に伝えてください。おれは苦しまずに死んだって」
「おい、北原やめろ、北原」
「藤崎さん、お世話になりました・・・言いつけを守らず、すみませんでした」
「それから北原はザイルを切ったのです。北原は転落して行きました・・・」
「北原、きたはら~~~~」

 
俺は何とか壁に戻った後、北原を探しに下に降りました。
北原は、テラスのでっぱりに引っかかっていました。北原は、頭の半分が陥没していました。助からないことは、本人も知っていたのです。ご存知のように、八千メートル級のヒマラヤでの遺体の収容は不可能です。俺は、北原の形見のピッケルをもってベース・キャンプまで下山しました。
以上が、あの日の北原と俺の全てです」
香織の目には涙がたまっていた。
「・・・話してくれてありがとう」
藤崎も暫く沈黙した。
あの日の悲劇が、また藤崎にもありありとよみがえってきたのだ。
「それから、これを」
藤崎は何かをポケットから出した。
「なに?」
「いつかあなたに渡そうと思っていたものです。北原がもっていた、あなたの写真とあなたが作った水晶のお守りです。これはおふくろさんより、あなたが持っていた方がいいと思っていました」
「これ、わたしが作った・・・」
「その水晶はカンチェンジュンガでとれたものです。北原もそのほうが喜ぶでしょう。
香織さん、俺は、カンチェンジュンガに登ります」
「それはやめて。お願い、やめて・・・わたしがなぜここに来たのかわからないの」
香織は泣いて藤崎にすがった。
「香織さん・・・」
「さえ子さんのお金のためにのぼるなんて、やめて」
「俺はそんなことのために登るのはではありません」
藤崎はそっと香織を引き離した。
「俺は自分のために登るんです。一度は負けた山に再び戦いを挑むんです」
「いいえ、やめて。お願い。これ以上、私の・・・な人たちが死ぬのを見たくない」
香織は泣きながら再び藤崎にすがった。香織の言葉は悲しみにかき消されて聞こえなかった。
「香織さん・・・」
香織は泣きながら首を振るだけだった。
「香織さん、おれは生きて帰ります。大丈夫です」
藤崎は香織の肩をやさしく抱いた。 
 
香織と別れた藤崎はふと空を見上げた。
藤崎の脳裏に北原、絹子、そして香織の顔が順番に浮かんだ。
「カンチ、まっていろよ」
藤崎はつぶやいた。
 
第一部 了

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