好きと嫌いと普通の話

どうも。本日はゆるーく、好き、嫌い、普通について、考えてみたいと思います。

私は割とコンテンツに文句言ったりするんですが、超嫌いなコンテンツはカスが・・・・と思っても、絶対触れないんですよね。なんでかというと、絶対俺が認めたくないコンテンツであっても、絶対誰かは好き、大好き、ないと生きていけないみたいな人がいるんですよね。別に私一人が意見表明したところで、その人達にはなにもないとは思うんですが、もしかすると、この一言きっかけで好きじゃなくなる可能性を孕んでいるんですよね。これってもう殺人と差がないと思っていて、だから、これはマジで許せないってことがあれば、その気に入らないポイントをしっかり探り出して、そこだけを攻めるようにしてます。どんなものも、いい点、悪い点ありますからね。じゃないと、たけしの挑戦状なんて、今もタイトルだけ知ってるなんて人、いないはずですからね。

で、なんですが、私は基本的にこれめっちゃ嫌い!みたいな人も物も存在はしないんですよね。基本、めちゃくちゃ好きか、好きしか持ってない人間なんで。そこで、許せないという選択肢が稀に入るぐらいですね。この選択肢は基本的に、自分に遠い未来か、近い未来に火の粉、もしくは刃が向いてきそうな場合だけ生まれるんですよね。だから、ここだけは気に入らないけど、まあ、これだけ支持されてるんだから、いいとこも当然あるよなぁという捉え方になります。でも、初めからこんな適当な区分けしてたかというと、当然、そうじゃなくて、過去にはもうめちゃくちゃやったこともありました。でも、力関係とか、人間関係、支持を受け続けているとかコンテンツ、人間、なんでも絶対に折れない支柱があるんですよね。これに気づいて、嫌いなんて表明する意味がないことに気づいてしまったんですよね。それどころか、ダメージ受ける人間も出る始末。なら、あ、無理ってなったらさっと距離取るというのが一番安全なんですよね。距離取れば危害を受けることはないですからね。

だから、肯定的なものだけ目に入れるというのは精神安定においても非常に有効なんですよね。ただ、これは清濁併せ呑む必要も当然あると思っていて、自分の気に入るもの以外、全部排除!ってやっちゃうと、絶対的に良いもの、悪いものを見極める能力を失いますからね。好きか嫌いかみたいな話じゃなくて、敵味方みたいな変な感じになっちゃうので。なので、まあ、いいものだけみて、優しくなりましょうという話でした。

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