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能登半島視察

こんにちは。そしてはじめまして。
私は8/26〜8/28の3日間能登視察に参加させていただきました、秋田大学の一年、遥といいます。
地元福島から、そして石川へと被災地の記憶を語り告げるよう、たくさんの記録を残しましたので、ぜひご覧ください。

今回の能登半島視察では、自身の経験とすり合わせながら、追憶のように、間違い探しのように、被災地を見ていました。

この能登の地に降り立った時は、そんなに地元との違いは見つかりませんでした。少し閑散とした、温もりが残る住宅街という印象です。


七尾駅の様子。一見して綺麗

しかし、少し奥に入るだけで様相は一変します。

折れた柱、ひび割れた外壁、潰れた家屋、下敷きになった車…。

現実味のない世界が眼前に広がり、言葉を失いました。
そして、全壊した家屋に貼られた張り紙の、冷たく状況を伝える言葉を見て、この街の「消失感」を感じました。

倒壊した家に貼られていた紙
斜めになった家屋
倒壊した家と、潰された車

私が初日に出会った、石川で生活する人々は、悲しい顔一つ見せず、私たちを迎えてくれました。
しかし、その裏でどれほど苦しく、悲しい思いをしたのでしょうか。
正月というめでたい日を劈くように轟いた自然の脅威を、あの人達はどう受け止めたのでしょうか。
それを訊こうとする頃には私は店をとうに離れていました。

二日目、珠洲市や輪島市のような被害の大きかったところは胸に来るものがありました。

復興が進んでるとはいえ、無事な家屋を数えるほうが簡単です。
ほとんどの家が全壊しており、人が住むことは愚か、近づくことすら危険と感じる建物ばかりでした。

車内から見た珠洲市の様子

普段私たちが守られている家が、粘土作品を潰すかのように跡形もなくペシャンコになっている様子を見ると、自然の無情さ、壮絶さが語りかけてくるようです。

地震が起きてから時が止まったように、生気を感じない街を見ていると、厳しい表情を思わずとっていました。

そして私はただ、この様子を記録しなければならないと、使命感のようなもので写真を撮り続けていました。

この家屋にどれだけの命が無情に潰されたのか、考えるだけでも体に力が入ります。
「なぜ?」「この人たちが何をしたんだ」そんな問いかけが頭を埋め尽くします。

しかし、その地で生きる人々を見ていると、別なものを見ていることがわかりました。
それは、「未来」。
インターンで復興を手伝う大学生を見ていると、様々な形で未来を創造していました。

例えば、被災地にいる人たちの心を癒すため、周りの人を集めて人との関わりを増やす人たち。
例えば、倒壊した家の木材から、さらに別な物へ生まれ変わらせる事業を行う人たち。
例えば、小中高生をサポートし、心を守る人たち。

年も自分とあまり変わらない人たちが自ら積極的に未来を創ろうとしている姿がそこにはありました。

支援者だけではありません。
被災者はより、強くそこに在りました。

明るく、快活に客を迎える居酒屋の女将さん。何十年も続けてるお店を今も守り続けるおでん屋のおばあちゃん。地元の人も、県外の人も温かく癒やしを与える温泉宿の方々。
きっと、不条理な世を恨んだこともあったでしょう。失ったものの大きさに打ちのめされそうになったこともあるでしょう。
それでも、その姿を見せずに私たちの前に毅然として生きる姿はとても大きく見えました。

憩いの場となっている温かい雰囲気のおでん屋さん

そして、3日間中で一番印象に残っているのは、震災という面より、そこまで年齢が離れていない学生がたくさんの事業の中心となっていることでした。

ノウハウがある大人ではなく、活力のある大学生が、自ら人を集めて、まとめ上げ、やりたいことを見つける。

それは簡単にできることじゃありません。

勇気と自信、目標がないとできないことだと思います。

同じ大学生が、たくさんの大人の中に混じって自分の意見を言い、ディスカッションを行う姿は、まるで自分に、「お前ならどうする?」と問いかけてきているようでした。

受け身ではきっと駄目なのです。

「チャンスがない」なんてきっと言い訳に過ぎないのです。

チャンスは自分で掴むもの。

それが強く自分の心に訴えかけてきました。


この気付きは、正直恐ろしいものです。

それは、逃げ道が完全になくなるバリケードになりうる考えだから。
「やらない」理由がなくなる考えだから。

でも、この考えを見て見ぬふりはしたくありません。

自身の手で機会を掴む力を、私は欲しいのです。

東日本大震災を経験し、能登半島の被害の様子を実際に見た私でしか出来ないことがあるはずです。
東日本大震災を経験した人は限られます。
そして、当時の様子を語れる人はさらに減ります。今後、さらに減っていくでしょう。

そして、東日本大震災と、石川県沖地震の被害を同時に語れる人はなかなかいません。
私のこの記憶を「辛く悲しい記憶」と片付けるのではなく、さらなる未来へ繋げるピースと受け取れば、それこそ、私はじっとしてられないのです。

あのとき、ただ家族に守られるだけだった私は、今度は支える側となっている。
そう、私はこの3日間で学ぶことができました。

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