どこまでも自由になろう。
「私」とは誰だろうか?と考えたときに出てくる答えは、
私は女である。
私は双子座生まれである。
私はA型である…など、
玉ねぎの皮を一枚一枚はいでいくと最後に「私」という実態がつかめなくなる。
要するに「私」は相対性で証明されているものだとわかる。
『わたし』など決まったものは『ない』のである。
という事は、反対に考えるとなんでも『ある』という事でもある。
では、今この場所にいる私は何でできているのか?という疑問が出てくる。
そうすると、私自身が作った『過去の記憶」で出来ていると考えることが出来る。
では本題の自由について。
自由を感じられない時はどんな時だろう?
私が不自由を感じる時は、自分で選択できる自由を奪われた時だ。
生きていれば少しくらいは我慢をしなければいけなこともあるだろう。
しかし、自分で納得していないのに我慢するのは不自由だと感じないだろうか?
そうすると、今、不自由を感じている『私』は『私が作った過去の記憶』で苦労をしているわけだ。
ということはその記憶を作り変えれば良いだけではないか?
柿の種を植えたら柿がなるように、今ある不自由さの根本をまず探し、それをやめること。
そうすれば、私たちはどんどん自由になっていくと思いますが、皆さんはどう考えられますか?
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