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(旧作)桃の花咲くころに 〈5744字〉 光文社文庫Yomeba優秀作

【おことわり】
2024年5月の文学フリマ東京38で発売した短編集『夜半舟』に収録されている『桃の花咲くころに』は、旧作を改稿したものです。
本記事は2022年に執筆した旧作の『桃の花咲くころに』であり、短編集に収録したものとは異なる部分もあります
ご了承ください。

「――おまえ、また山に来たのか」

不意に後ろで声がした。
木の陰に座り込んでしゃくり上げていた佐助は、泣き腫らした目をこすりながら振り返るや思わず声を上げた。手を伸ばせば触れられそうなすぐ近くに、一匹の狐が座ってじっと佐助を見つめている。

「き、狐がしゃべった……!」

腰が抜けたようにへたり込んだまま、手だけでずりずりと後ろに下がる佐助を見て、狐はおかしそうに笑った。

「驚くことはない。われがその気になればヒトと話すことなど造作もないわ。それより坊、ここ最近、毎日山へやって来ては一人で膝を抱えて泣いているではないか。里で何やら辛いめに遭うとるのか」

どうやら狐はすべてお見通しのようだった。

「学校で……いじめられてるんだ。僕が都会から来たからって」
「ほう、ぼうは街から来たのか。どうりでこの辺の坊主どもとは毛色が違うわけだ。確かにここは辺鄙な田舎だからな。珍しいやら妬ましいやら、いろいろ思惑があるのだろうよ」
「だからって僕が悪いわけじゃない。僕のせいじゃない!」

親の事情でいきなりこんな田舎に連れてこられた佐助にとってはいい迷惑だ。元々の友達とも引き離され、言葉も服装も明らかに違う地元の子供たちとの付き合いは、大人が思うより遥かに複雑で面倒だった。

「それはそうだ。知らない土地に来て友達もできないでは寂しかろう。どうだ、我が坊の友達になってやろうか」

佐助は眼をぱちくりさせた。

「友達?狐が僕の友達になってくれるの?」
「おうよ。ここに来ればいつでも会えるぞ」

摩訶不思議な誘いではあったが、寂しかった佐助は喜んで毎日来ることを約束した。

「おお、そうだ。友達と言うなら名を名乗らんとな。我はシンだ。坊、おまえの名は?」

佐助はもごもごと気恥ずかしげに自分の名前を口にした。

「佐助、か。いい名だ。じゃあまた明日な、佐助」

嬉しげに頷いた佐助が振り返り振り返り山道を下っていくのを、狐はじっと座って見送っていた。


翌日授業が終わるや学校を飛び出した佐助は、一目散に山へ向かって駆けていった。約束どおり、狐は昨日の場所にちんまりと座って佐助を待っていた。

「おお、来たな坊……いや佐助。学校とやらはどうだった」
「相変わらずだよ。あいつら先生が見てないと何でもやるんだ。嫌な奴らさ、まったく。でも今日は平気だったよ。だって学校が終われば……シンに会えると思ってたから」

ぽいとランドセルを放り投げた佐助は、草の上にすとんと腰を下ろした。都会では馴染みのない土の匂いがふわりと心地よく立ち上る。

「そうか。まあゆっくりしていくといい。ここなら誰もおまえを傷つけはせん」

佐助は恥ずかしそうに笑った。初めて親しく言葉を交わせる友達ができたことが何より嬉しかった。

「ほんとは学校なんて行きたくないんだけどさ。行かないと母さんが泣くから。そうすると今度は父さんが怒るんだ。僕のことも母さんのことも。それが嫌だから……」

シンはほわりとした尻尾を鋭く一振りして、ふんと鼻を鳴らした。

「何を怒るのだ。自分の息子が辛いめに遭うて怒る親がどこにいる」
「仕方ないんだ。父さんは僕の本当の父さんじゃないから。本当の父さんは僕が小さい頃に死んじゃったんだ。今の父さんは会ってからまだ間もないし……仕方ないんだよ」

俯く佐助をじっと見つめていたシンは、不意にすっくと体を起こした。

「シン?」
「来い、佐助。いいものを見せてやる」

そう言うが早いか、シンは先に立って細い山道をとことこと上り始めた。やがてふいと道を逸れて草むらに入ると、かさかさと落ち葉を踏みながら切り立った崖ふちに向かっていく。

「シン!そっちは危ないよ。近づかない方が……」

そう言いながらもシンの後に続いた佐助は、突如開けた視界に息を呑んだ。

「うわあ……!」
澄んだ青空の下、鮮やかな紅や黄色に染まった木々が、谷一面を燃え上がらせるように覆っていた。そのふもとに小さな山間やまあいの里がぽつぽつと広がる様は、まるで昔話の風景のようだ。

「――冬を前にして、山は飾るが如くに色づく。ヒトはこれを『山よそおう』と言うのだそうだな。知っているか?」

佐助が首を振ると、シンは難しいかと笑った。

「この辺りではここがいちばんの景色だ。春には里の、そら、あの辺一帯に桃の花が咲くのだ。里がぼうっとどこまでも桃色に染まってな、それは美しい眺めだぞ。夏になれば青々とした樹々が陽の光を浴びてきらきらと輝く。秋はこのとおり見事な彩りを見せたかと思うと、冬は一面、音もない雪景色だ。この麗しさ、都会ではなかなか味わえまいよ」

崖下から吹き上げる強烈な風に髪が踊るのにも構わず、佐助は眼下の眺望に言葉もなく見惚れていた。佐助とシンの寄りそう影が、乾いた草むらに長く尾を引いて伸びていた。

それからというもの、佐助は学校が終わると毎日山へ行くようになった。
シンはいつもあの見晴らしのよい高台にある大きな椎の樹の下に、ちょこんと座って佐助を待っていた。その椎の樹にもたれて美しい景色を飽かずに眺めたかと思えば、山葡萄の実を集めて一緒に食べることもある。学校で誰とも打ち解けられない佐助にとっては、何よりの憩いのひとときだった。

だがシンは、佐助が家から持ってきた菓子には一切手をつけようとしなかった。

「悪いな。ヒトの甘い食べ物は我らの体には毒なのだ。仲間が何匹もそれでやられた」

佐助が驚いて菓子を引っ込めると、シンは困ったように笑った。

「そんな顔をするな。ヒトに悪気がないのは判っている。それでも相容れないものはあるのだ。ただそれだけのこと」

時にこっそりと里に下りては、佐助をいじめる同級生たちにちょっとした悪戯を仕掛けることもあった。

「はっはは、見たか佐助。あの団子を食べた坊主どもの泡を喰った顔を」
「あれは何だったの?シン」

シンは得意げに顎を上げた。

「泥団子だ。そいつにちょいと細工をしてな、さも美味そうな団子に仕立てたというわけだ……なに心配するな、あの程度では腹も壊さん。小僧っ子相手にそこまではせんさ。あれが大人なら容赦なく馬糞団子でも馳走してやるのだが……どうした佐助。何か気に入らんか」

シンは俯く佐助の顔を覗き込んだ。

「ううん、そんなことはないよ。ただ……」
「ただ?」

冬の訪れを感じさせる冷たい風が、佐助とシンの顔をひやりと撫でていく。

「もう、あいつらのことはいいかなって」
「許すということか?」

佐助は首を振った。

「そうじゃないよ。嫌なものはやっぱり嫌さ。でも僕はもうあいつらのために大事な時間を使いたくないんだ。仕返しなんかよりシンと話している方が、僕にとっては大切なことだから」
「ふん……そういうものか、な」

シンの尻尾が、照れくさげに佐助の背をふさりと撫でた。



冬の気配が濃くなり始めたある日の晩、佐助の家の古い戸が激しく叩かれた。訪問するにはあまりに遅い時間だ。何事かと父親が席を立って程なく、玄関先で押し問答するような声が漏れ聞こえてきた。

「何のことだ!そんなもの俺は知らんぞ!」
「おめえが知ると知るまいと関係ねえ。とにかく坊主に会わせろや」

揉み合うような物音に母親が急いで佐助に駆け寄った瞬間、古ぼけた襖がぱしんと開かれ、狭い部屋に村の男たちがなだれ込んできた。

「こいつだ!こいつのことだ!」

一人が佐助を指差しながら大声を上げる。

「何ですか、あなたがたは!」

普段は頼りないほどに儚げな母親が、人が変わったように激しく声を張り上げた。

「あのな、奥さん。あんたの息子に用があるんだ。そいつをこっちに寄越せ」

母親は男たちから守るように佐助をぎゅっと抱きしめた。あまりの強さに息が詰まるほどだ。母親の腕の中で必死に頭を動かすと、人垣の後ろで、助けるどころか半ば呆けたように佐助を見ている父親の姿が目に映った。

「あなた、何とか言って下さい!この子が何を……」
「朝子……みんなが……みんなが佐助のことを……」
「佐助が何だと言うのです。この子は私の……!」
「奥さん、あんたの息子はな――狐憑きだ」

部屋の中に凍りついたような沈黙が流れた。

「狐憑き……?」

母親の手が微かに緩む。それを見越したように、男たちの後ろから白装束に身を固めた老人がずいと進み出た。

「老師、この坊主です」

佐助を見据えた老人は、深い皺に落ち窪んだ眼をカッと見開いた。

「まさに……まさに憑いておる。近頃村で起こるおかしなことは、すべてこやつの仕業じゃ」

それを合図に男たちがわっと飛びかかった。渡すまいと抗う母親を無理やり引き剥がすと、佐助の細い腕を掴んで老人の前に引き据える。屈強な男たちに両脇を固められ、為す術もなく振り返った佐助が見たのは、父親に羽交い絞めにされて必死にもがく母親の姿だった。

「父さん、母さんを放して!」
「やかましい!養ってもらってる身で狐憑きだと!俺の立場も考えろ、この恩知らずが!」
「祓え!!」

狭い部屋に怒号が飛び交ったかと思うと、佐助の体に激痛が走った。脳天が粉々に打ち砕かれたかのような衝撃に思わず頭を抱えようとしても、佐助の腕は男たちにがっちりと押さえられたままだ。

「やめて……放して……はなせっ……!」

全身を二つに引き裂かれるような痛みに、佐助の口から狂ったような叫び声が延々と吐き出される。

「うわああああっ……!」

その時だった。固く閉じた眼の裏に、燃え盛る炎にまかれて苦しみ悶えるシンの姿がくっきりと浮かび上がった。

「シン、逃げて!君は……僕たちは何も悪いことなんかしていない……!」
「やはりいたか!成敗!!」

老人の嗄れた声が響き、佐助の激痛は頂点に達した。同時にシンの身悶えも激しくなる。その刹那、炎の向こうからシンが息絶え絶えになりながらも顔を上げて佐助を見た。

「シン!しっかりして!」
「佐助……すまない……いつかこうなることは判っていたのに……だがおまえを……一人で泣いているおまえを放っておくことはできなんだ……許せ佐助、我が声をかけたばっかりに……だが楽しかった……いつかおまえに……咲き誇る桃の花を見せてやりたいと……」
「シンっ!!」

佐助の口から獣のような咆哮がほとばしった瞬間、ばちんと大きな音が響いた。荒れ狂う炎が一瞬にして暗く凍りつく。底の見えない暗闇の中を、佐助はどこまでも落ちていった。



「佐助!ああ、良かった……母さん、もう駄目かと……」

暗い視界に少しずつ光が差し、まわりがぼんやりと形を作り始めた。ゆっくりと瞬きをする佐助を覗き込んでいたのは、眼を真っ赤に泣き腫らした母親の顔だった。

「母さん……僕は……シンは一体……」

母親はそれには答えず、何度も佐助の髪を撫でた。

「もういいのよ。もう全部終わったの。あなた、丸二日眠ったままだったのよ」
「丸二日……?」

佐助は微かに頭を動かすと窓の外を見た。雪がちらついている。どうやら少しずつ積もり始めているようだった。母親は小さく鼻をすすると、佐助の布団をそっと直した。

「元気になったら母さんと二人でここを出て、元の街に帰りましょう。この土地はあなたには合わないわ。でも今はまずお休みなさい」

母親はもう一度佐助の髪を撫でると、静かに部屋を出て行った。

――街に帰る。

それは佐助が何度となく夢に見た願いだった。だが今の佐助にとって、それはあることを意味していた。
やるべきことはただ一つだった。

力を振り絞って起き上がった佐助は、ふらつく体を必死に支えながら外に出た。雪のせいか、幸い人の姿はない。辛うじて羽織ってきたコートが唯一の防寒具だが、山間の寒さはそれを遥かに上回る厳しさだった。

何度もよろめきながらも佐助は山道を登り始めた。あれほど通い慣れた道が、寝込んでいた身体には鞭打つように険しい。どれだけの時が経ったかも判らないまま、佐助はようやくあの高台に辿り着いた。いつもシンと谷の景色を眺めていたあの場所に。

――シンはきっとここにいる。ここで僕を待っている。

佐助はその一念でここまで上ってきた。
美しかった紅葉はすっかり散り、枯れた木々に白い雪が少しずつ積もり始めている。だがシンの姿は見当たらなかった。

「シン、僕だ!佐助だ!どこなの?どこにいるの!?」

佐助の声は、しんとした木立の間にただ吸い込まれるだけだった。絶望感に苛まれ、思わず膝から力が抜けてへたり込んだ佐助は、ふと遠くの崖ふちに目を凝らした。冬でも変わらぬ緑をたたえる椎の樹の下に、降りしきる雪を避けるようにして何かが立っている。
あれは……あの姿は……

「シン!!」

佐助は疲労も忘れて立ち上がると、薄く覆った雪を蹴散らすようにして走り寄った。
「シン!やっと会えた!ずっと待たせてごめん……シン?」

それは確かにシンだった。
大きな椎の樹の幹にもたせかけた体は見る影もなく痩せ細り、ふさふさと豊かだった冬毛はあちこち抜け落ちて赤黒く染まっている。

「シン……嘘だ、シン!」

佐助が絞り出すように叫んでも、シンの目は固く閉じられたままだった。手を伸ばすとその体は石のように固く強張り、身動きひとつしない。
佐助は震える手でシンを抱えると、もう一方の手でシンの前足を握った。その爪はいくつも折れ、爪先は既に乾いた血がべったりとこびりついていた。まるで苦しみのあまり体中を掻きむしったかのように。

「ごめんよ、シン……苦しかっただろう……こんなになって……」

その時ふと椎の樹のうろが目に入った。昔一緒に拾い集めた綺麗な紅葉の葉がたくさん残されている。
佐助は瞬時に理解した。あの日佐助から祓われたシンは、最後の力を振り絞ってここまで辿り着いたのだ。いつも二人で寄りかかっていたこの樹の元へ。

――ここから見る桃の花が、いちばん見応えがあるのだぞ。

自慢げなシンの声が耳にありありと甦る。

「シン……!」

佐助は冷たくなったシンの体を強く強く、いつまでも抱きしめていた。



その日以来、佐助の姿は里から消えた。村を上げての山狩りが行われたが、靴の片方すら見つかることはなく、結局は神隠しにあったのだとして、やがて村人からも忘れられていった。
だがそれから長い時が経った今でも、雪の降りしきる日に子供と狐の足跡が点々と残ることがあるという。すると村人たちは、こう噂するのだそうだ。

――今年の桃はひときわ見事に咲くことだろう、と。

(了)


【あとがき】
本作は、光文社文庫Yomeba!第18回ショートショート公募『ともだち』に応募し、優秀作に選出頂いたものです。
当初からショートショートとは言い難い内容であることは把握していましたが、書いた話がとても気に入ってしまったので、カテゴリーエラーは承知の上で応募しました(笑)
案の定、審査側から「ショートショートではなく短編として……」というご指摘を頂戴し、恐縮の限りです。
元々「動物&子供」の組み合わせがとても好きなので(きつね多し!)、よろしければこちらもお読み頂けると嬉しいです。

*最後までお読み頂き、ありがとうございました。お気づきの点などございましたら、どうぞご遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。
よろしくお願い致します。


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