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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第3章 ③ 施設

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沙和子が亡くなって一か月が過ぎた頃、結依のもとに兄の大樹から連絡があった。

「どうしたの? お兄ちゃんが電話なんて珍しい」
『いや、今後のこともあるからさ。父さんから連絡が来ただろ? 一度こっちに帰ってこいって』

結依は曖昧に唸った。
今後の相談という名目はもっともだが、母のいない実家へ足を運ぶのがどうにも億劫で仕方ない。仮に行ったところで、母がいた頃のあの居心地の良い空間は、ほとんど消え失せたと言ってよかった。

あの広く手のかかった造りの家をきちんと保っていくのは並の手間ではない。家事万端を遺漏なく務めていた母を失った父の晃雄は、長年の身内主義を返上して、家事代行サービスを頼み始めたとは聞いている。だがやはり外部の人間には手が出せない部分もあるし、同居する長男、大樹の家事スキルは父と似たり寄ったりだ。そうなると次第に家の中が少しずつ荒れてくるのも無理からぬことではあった。

『実はさ。父さん、祖母ちゃんを施設へ預けるつもりらしいんだ。それは知ってるか?』
「え!?」

結依は思わず声を上げた。そんな話は欠片も聞いていない。

『ああ、やっぱり聞いてなかったか。いや、俺もちらっと聞いただけなんだけどさあ……』

言葉の端に優越感が滲んでいるのを感じ取った結依の眉間に、ますます不機嫌そうな皺が寄った。
それにしても、かつて通所リハビリを勧めただけで不快感を示したはずの父が、母が亡くなってわずか一か月かそこらで早くも音を上げるとは、結依は呆れる一方、それ見たことかという気持ちが半々だった。


果たして渋々ながらも実家へ足を運んでみると、父の相談●●というのはまさにそのことだった。

「大樹には少し話をしたが、母さん……お祖母ちゃんを施設へ預けることにした。父さんの知り合いにいいところを紹介してもらったんでな」

晃雄はまっすぐ結依を見て “宣言” した。もはや相談ですらなく、単なる事後通告だ。兄の大樹に目を向けないところを見ると、恐らく二人の間ではすでに合意が為されているのだろう。何が『俺もちらっと聞いただけ』なんだか、と結依は内心で毒づいた。
晃雄は主義撤回の気後れも見せず、滔々と言葉を続けた

「施設といっても、いわゆる老人ホームのようなところじゃない。一流ホテル並みの設備とサービスが付いて、専属のメディカルセンターが併設されているグレードの高い高齢者居住施設だ。そこならケアも万全だし、何かあってもすぐに対応してもらえるからな。まあそういうところはなかなか空きがないのが普通だが、そこは知り合いに頼んで上手く都合をつけてもらった。普通のルートで行ったら1~2年は待たないと入れないらしいんだが」

「お祖母ちゃんはOKしたの? あの人、前から最期までこの家に居たいって言ってたと思うけど。だからヘルパーさんや在宅医療チームを依頼してたんでしょ。それじゃだめなの?」

つい口調が尖るのを自覚しつつも、やはり一釘刺したい気はある。これまで自分が何を言っても、母がどれだけ頼んでも、施設に関する提案を父が一括りに門前払いをしていたことは忘れていない。
晃雄は、例によって持て余すようなため息をついた。

「どうして結依は、そう喧嘩腰なんだ。状況っていうのは変わるものなんだよ。お祖父ちゃんもお母さんも居て、その中でヘルパーさんたちに来てもらってた時とは、全然状況が違うだろう?」

兄の大樹が父の言葉に便乗するように被せた。

「そもそもいくら外部のスタッフが来てくれたって、24時間365日っていうわけにはいかないんだからさ。その人たちが不在の間は、お祖母ちゃんが一人になっちゃうんだよ。父さんも俺も仕事が忙しいから、帰りも遅いしさ」

それ自体はスジが通っている。だが結依にしたら、あれほどもっともらしく主張していた理屈を、こうもあっさりと悪びれることもなく手のひら返しされることが、どうにも面白くなかった。

「確かにお祖母ちゃんはこの家にいたがっていた。だが大樹の言うとおり、他に選択肢がないのは事実なんだ。だから手続きやら何やらが整い次第、できるだけ速やかに移すつもりでいる」

まるで引っ越しの計画を話しているような晃雄の口調に、結依は何とも言えない違和感を覚えた。愚痴や不満の多い祖母に深い愛情があるとは言えなかったが、訳も判らず住み慣れた家から引き離されるのはあまりに不憫だった。
だが父の晃雄はそんな結依の内心など欠片も気にせず、あくまで事務的に通告●●した。

「基本的な準備は向こうのスタッフがやってくれる。もしお祖母ちゃんの個人的な持ち物で何か用意する必要が出てきたら、その時は結依へ連絡するから、いいようにやっておいてくれ」

結依はぎょっとして思わず腰を浮かせた。

「ちょっと待ってよ。お祖母ちゃんの用意って何の話? なんで私なの?」

晃雄は正真正銘、驚いたような表情で答えた。

「なんでって……言わなくても判るだろう? そういうものは女同士の方がよく判るんじゃないのか。お祖母ちゃんも男の俺や大樹に言うより、女性の結依の方が何かと言いやすいだろうしな。当たり前だが費用は全部お父さんが持つから、おまえは何も負担しなくていい。かかったものは全部請求してくれればいいし、あらかじめまとまった額の金を渡しておくから」

あまりに勝手な言い分に言葉を失っていると、横から大樹が口を添えた。

「結依もさ、あんまり難しいこと言わないで協力してくれよ。もう母さんもいないんだしさ。家族みんなで助け合わないと」

――家族みんなで助け合う!
結依は思わず噴き出しそうになった。
じゃあ自分たちは何をやると言うのか。施設の選択も当人の移動や準備もすべて外部任せの上、後々のフォローは結依に背負わせて、自分たちは何を協力していると言うのか。

結依が黙ったまま立ち尽くしていると、晃雄がぼんやりと天井を見上げた。

「そうだな……沙和子がいてくれれば、安心して任せられるんだが。でも誤解しないでくれ。何もお母さんみたいにやってくれって言ってるわけじゃない。結依のできる範囲でいいから、お祖母ちゃんの力になってやってくれ」

抑えようとしても抑えきれない憤りに、結依は音が出るほど奥歯を噛みしめた。“できる範囲でいい” などと聞こえのいい言葉で本心をくるんで、こっちが断ろうものなら罪悪感必至の状況を作り出してくるのが、父のやり口なのだ。“力になる” という玉虫色の言葉の陰には、どれほどの配慮や労働が要求されると思っているのか。無知による配慮のない発言というより、そういった仕事は人にさせるものと思い込んでいる人間の言い様だった。

 

話を聞き終えた松下は、呆れとも驚愕ともつかない表情でしばらく言葉も出ないようだった。

「なんか、すごいね……まさかこの時代に『家のことは全部女性に』的な人たちってこと?」

「うーん、それともちょっと違うんです。男女もあるとは思うけど、母とか私はいわゆるエリートコースの人間とは違うから……だから格下みたいに思ってるんだと思います。同じ女性でも、父の職場のよくできる女性職員さんとか、世の中で活躍してる女性の人のことは、いつもべた褒めしてますもん」

松下はパグ犬のようにぎゅっと顔に皺を寄せて首を振った。

「あー、だめだめ。結依ちゃんのお父さんだけど、ワタシそういう人苦手。お勉強よくできる人にありがちだよね。自分と同格だと対等に話すけど、自分より成績悪い人は虫けらみたいに思ってる人。そのくせ自分よりできる人には、やたらへこへこするのよね」
「それ! ほんとそれ!」

瞬発の合いの手に、二人して声を合わせて笑う。母が亡くなって以来、結依は自分が久しぶりに声を上げて笑ったことを思い出した。

「冗談はさておき結依ちゃん的には、お母さんの遺骨をそういう実家に置いときたくないわけか……まさに旧式の埋葬だからこそ起きる問題だよね。水火葬は海に還すことで、すべての区切りをつけられるわけだから」

そういう利点があるからこそ、新しい埋葬法として国民の中に広がっていったのだろう。若い結依の目から見れば「火葬が特権」という父の主張は、限られた富裕層の中でもより高齢の人間が、松下の言う “刀をぶら下げた武士” のごとくに、過去のやり方へしがみついているだけにしか見えなかった。

「そうですね。このままだといずれは納骨されちゃうじゃないですか。でも母自身は、海に還ればお墓に入らなくていい、と思ってたぐらいだから……」
「なら、散骨すれば?」

松下はあっさり言った。

「私が若い頃はさ、暗いお墓に入るのが嫌だからって、自然の中に散骨するとか樹木葬とかがあったんだよ。あとは義理の親と一緒のお墓に入るのはどうしても嫌! とかさ。もう今はそんな話もほとんど聞かなくなったけど」

「ああ、そう言えば聞いたことあります。でも今でもできるのかなあ」

「たぶんね。水火葬が海に還すのであれば、散骨もある意味やることは同じだからさ。だからせめて今からでも散骨してあげれば? それならお父さんたちも納得してくれるかもしれないよ」

海洋散骨という昔ながらの手段に、結依の心はわずかながら明るくなった。
だがあの父が果たして首を縦に振ってくれるかどうか……それを思うと結依は心の中が、再び不吉な雲で陰るのを感じずにはいられなかった。


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