『最強の挑戦者』Aqoursについて

・前段

もはや結成10周年にも現実的に手がかかってきたAqours

たくさんの声優・アイドルグループが生まれては消えていく昨今で9人組という決して少人数ではない体制の中でも1人のメンバー変更・人数変更もなくこれだけの長期間活動を続けているグループというのは非常に稀だ(らしい)

同時に、いまやラブライブ!シリーズの中でもその後進となるグループも多数生まれて……というこの状況で

「Aqours」ってどういうグループなんだろう?

どんな魅力をもっているんだろう?

これからどうなるんだろう?

というのをコンテンツ的方向からあらためてまとめて考えてみた、というお話

 

まずは簡潔に(?)結論を書くと

Aqoursというグループはその発足時からいままで「挑戦者」であり続けたグループだということ。「挑戦」を続けることで様々な強みを手に入れてきたということ。

ただ、その「挑戦」の内容は少しずつ変わっていて

①「ラブライブシリーズの担い手」としての挑戦

  μ’sの後役としてステージに立ちながら

  μ’sの続きだけでないラブライブを続けさせる

②「2.5次元コンテンツトップランカー」としての挑戦

  “シンクロ”の可能性の追求

  =双方向性 2次元からの供給に依存しない2.5次元コンテンツ

③「真の2.5次元パフォーマー=ハイブリッドな存在」としての挑戦

  持続可能なコンテンツ作り

 

この3つに対して順番に、場合によっては同時並行的に挑戦をし続けてきた、そして今もなお挑戦し続けているのだと思う。

(Aqoursを夢中で追っかけてきた人ならもう上記の3項目を見ただけでピンとくるとも思うのでこのあとに続く冗長な本文は読まなくてもいいかもしれないけど……)

 

『最強の挑戦者』


これは自分やごく親しい人たちの間でこっそり読んでたるAqoursちゃんの呼び方だったのだが、

「これまでも これからも 挑戦者」

“We Are Challenger project”

活動初期の頃はそうでもなかったが、いつしかキャスト含めた制作サイドからも自然と「挑戦者」というワードが発せられるようになったことに、自分たちの気持少しは彼女たちの主観に寄り添えているようで嬉しかった記憶がある。

ただし、

必ずしもここでいう挑戦者=パイオニア・ファーストペンギン、ではなかったことは間違いない。なぜなら言うまでもなく、ラブライブ!自体のパイオニアとしてはμ’s(の存在を無視することはできない。

一方で、「パイオニアでなければ挑戦者ではないのか?」と言われればそれも違うだろうということを、Aqoursをリアルタイムで追っていた一人のファンとして強く感じる。

挑戦し続けてきたAqours

かつては“二代目”として清濁入り混じった目で見られるところから始まったグループ

あまりにも大きな期待と同じくらい大きな不安を一身に受け止めながら彼女たちが何を手に入れたか

そして唯一無二のグループとしていまどこを目指しているか

 

※本文の前の注釈兼逃げ道

 データベース的・論文的文章を目指したものではないので感情論多めだし、ところどころ雑誌や配信からの事実や発言を引用する場合も正確性などは度外視です。

また他コンテンツやラ!内の他グループと必要以上に比較したり、運営サイド含めてそちらを腐す他意はまるでないので悪しからず……Aqours自体の話以外をしている気はないのでなにとぞ。。

とにかくAqoursちゃんどっぷり大好き人間視点のマインド重視な「感想文」的読み物として納得してくれる方だけどうぞ。。。

 ※ここから本文


①「ラブライブシリーズの担い手」としての挑戦

  μ’sの後役としてステージに立ちながら
  μ’sの続きだけでないラブライブを続けさせる


ラブライブにはかつて間違いなく“ラブライブ=μ’s”の等式が揺ぎ無い時代があった。

……などと書くと大仰。だってかつてはμ’sしかいなかったのだから。

しかし、当時もリアルタイムであの熱狂の中に居合わさせてもらっていた立場としてあらためて思うこととして……あれは異常だった。

当時は既に、ニコ動等ストリーミングサイトの普及に伴ってけいおんや初音ミクなどを始めとした多くのコンテンツが、“オタクコンテンツ”としてそれまでの時代とは比較にならないほど市民権を得た=ポジティブ目線で社会に受け入れられ始めた頃合いだった。

しかしそれを差し引いても、長らくオタクである身の主観としてμ’sがもたらした熱狂の凄さは異常だった。

ゆえに、自分はμ’sというムーブメントは「再現不能な特異点(コンテンツ)」と考えている節はある。

ここで言う「再現不能な特異点」は別にμ’sに限ったことではない。μ’sに限らず大きなムーブメント=ガンダム・エヴァ・けいおん・鬼滅はしばしば起こっているのだし。

ただ、それらが今でも語られ続けている理由はその量産が不可能であるからであるからだと思う。後付けでは様々な理屈・要素を並べられたとしても、どれだけ“ガワ”を謎っても意図的に再現することができないものだと。

だからこそ人はあれだけ熱狂できたし長い月日が経っても度々それを振り返ってしまうのだろう。

ことμ’sに限っていうのであれば、当時が今では飽和しつつある2.5次元コンテンツの黎明期であり、さらにスクフェスが当時としてはゲーム性含め異例の完成度を誇ったアプリであったことも無視できないだろうが。

いずれにしても結論は変わらない。

 

μ’sというムーブメントは「再現不能な特異点」なのだ

 

ともあれ

 

それでも一度生み出されたあの熱狂をラブライブという枠組で(制作サイドからすれば「ビジネス的」な意味でも)続けていきたいし続いてほしい。そうした願いの末に生まれたのが“2代目”Aqoursであることは疑いようがないと思う。

 

つまり、Aqoursはその生まれから

“ラブライブを続けさせる“という枠割を徹底的に担わされた存在だった


さて。そうした経緯から生まれたAqours

しかし、冒頭で散々「Aqoursは挑戦者だ!」などとはいってきたものの、決して初めから自由奔放な挑戦に特化したグループでは全くなかったのだと強く思う。特にコンテンツ始動初期の展開は先代でありザ・ラブライブであったμ’sの流れをしっかりと踏襲するスタンス=自分たちがザ・ラブライブの“続き”にいることを殊更意識させるスタンスであった。

サンシャインはこの「続き」という要素を間違いなく色濃く持っている。

現在では3作目となる虹ヶ咲を始め既に数多くの後進シリーズが展開されているが、他シリーズとのつながりを唯一明言しているのがAqours(のアニメ)なのだ。(小ネタやちょっとした言及はあったかもだけれど。ストーリーに深く関わっているという意味で)


そしてその中で深く印象にも残っているセリフ

「今回のライブが成功したのは過去の先達たちの努力のおかげ」

「μ’sを目指すのをやめます」

どちらもμ’sの存在を強く意識したからこそ生まれた言葉だが、この2つのセリフに込められているのが当時のキャスト・メンバーどちらのAqoursにも共通して強く求められていた本質であり、当時の「挑戦」そのものであったのだろう。

つまりAqoursに求められ、期待されていた役割とは

μ’sの後役としてステージに立ちながら

“μ’sの続きだけでない ラブライブを続けさせる”

ということ


これは決してAqoursのみに課されたオリジナリティのあるスタンスではない。現実の会社でも部活でも、あらゆるケースで一般的の起こりうる“2代目”に課せられる 期待と責務の典型であり、それゆえに多くの人が少なからず経験済でその難しさを具体的に想像できてしまう役割だろう。


憧れと呼ぶにはあまりに眩しかった偉大なる過去の光は、
未来への道筋を暖かく照らすとともに、自分たちの弱さをも容赦なく映し出す
過去はいつだっていまを生きる人に、ときに優しくたいてい厳しい
「あのころはよかった」「最近のヤツらは全然ダメ」
誰もが一度は言われたことがあるだろう

これはかつてアニメ2期放映後にAqoursを大々的に特集してくれたとある記事の編集後記からの概要抜粋であるが、まさにその通り。

2代目のジレンマは踏まえたものが大きいほどあまりにもハードルが高い。

ましてやそれが「再現不能な特異点」なのだ。

「μ’sが好きだったからAqoursは好きになれないし見ない、って言われたこともある」

「わたしたちの出る幕なんてないんじゃないか」

「(μ’sが成し遂げた)東京ドームや紅白出場がなければその先はないと言われていた」

多くの人に愛された初代があるがゆえに当然それをリスペクトして踏襲することを望まれながらも、

従来通りの固定観念的なラブライブをなぞるのみ→だったらμ’sでよかったじゃないか。

新しい試み→こんなのは俺たちの知ってる“ラブライブ”じゃない。勝手なことをするな。

少しでも落ち目な面を目にされれば→前の方がよかったじゃん。


悲しいかな我々大衆の手のひら返しはあまりに露骨だし、手のひらに載っているものが大きく愛着があるほどそれが落ちる量も速度も大きい。

それはラブライブを好きだった=本来は一番の味方であるはずの存在からも「試される」ということ。

当時、Aqoursとしての活動が芸能活動としてもほぼデビュー作となるメンバーが大多数を占める中で、それはあまりにも苦しい立場だったと思う。(などと言っている自分もAqoursの活動スタート時はまだまだμ’sに囚われていたのだけれど…今思えば凄く嫌な話だが、Aqoursの1stライブを見ていた際の姿勢には純粋な応援というよりも「値踏み」ともいえるような感情がかなりあったのは否定できない…)


彼女たちは何をおいても「ラブライブを続けさせる」ことへの挑戦者から始まった。


ゆえに、いつも最新の注意を払いつつ慎重にμ’sの歩みを尊重・踏襲しつつ、その中でも着実に範囲を広げて歩んできた。

★ここから少しだけ余談↓

・かつての「箝口令」がもたらしたもの

 具体的にはμ’s -Aqoursキャスト間でお互いの話題を自由に口にしない、というもの。比較的最近になってAqoursやラブライブに触れたファンからすれば耳を疑うかもしれないが、活動開始から短くない期間において否定できないレベルで存在した「箝口令」
1オタクに真実を知る術などないが、当時の状況は誰もがその単語を連想できるくらいのものだった。
当時はもちろん今でも賛否両論。その経緯と真実については今のなお全くと言っていいほど語られていない。

※明確な解消は虹ヶ咲キャスト発表時にえみつんと杏ちゃんが共に登壇した際?=Aqoursサイド視点から「続けられた」実感を示せた1つの場という解釈

この話題については本文章でそこまで言及するつもりはないが……個人的にはこの「箝口令」は“アリ”だったのではないかと思っている。

普通ならそれでも同シリーズ内の姉妹グループなのだから然るべきレベルの連携があることが自然ではあるだろうが、

片割れが当時のμ’sなのだ。

あのとき、もしAqoursの横や後ろにいつもμ’sの影を感じていたら、当時の自分は純粋にAqoursを見れただろうか?
ラブライブ=μ’sという等式の印象の外にある可能性を感じられたか。

否、だと思う。ごくごく平凡な1オタクの自分がそうであるなら少なくないファンも同じだったのじゃないか。

だから、
“μ’sの続きだけでない ラブライブを続けさせる” 
ならば「箝口令は」必要だった

それを期待していないファン層が少なからずいることを理解しながらも踏み切ったのは、目先の2代目ラブライブ=Aqoursの成功と中長期的なコンテンツ展開を天秤にかけた末の決断だったのだろう。

あくまで主観だが、あの経験があったからこそAqourは今のように強くなれたし、最終的に得た唯一無二のアイデンティティ獲得に早くから手をかけ  それをひと際大切なものだと重心をおけるようになったのだと思う。

★ここまで余談↑


おそらくではあるが、Aqours自身やラブライブ制作サイド、そして多くのファンから見ても「ラブライブを続けられた」というのを明確なものとして実感できたのがラ!フェスなのではないだろうか。
フェスというからには2グループでは不足、最低でも3以上の数字が必要だからだ。
その開催にこぎつけ、千秋楽ではトリを飾ったAqours

結成当初より、ずっとμ’sの存在が目標であると同時に重圧や(心無いファンによって)足枷になって辛く苦しめられてきたことが否定できなかった状況の中での、Day1からDay2にかけた分かりやすいトリの交代。

この交代劇はともすれば徐々に収まりつつあったかつての反感を再び呼び起こしかねなかったとも思う。

ただ逆を言えば、

「これからのラブライブを牽引するのはAqoursだ」

という気概と覚悟と気迫と自信。

そしてそうした表明が出来るだけの様々な基盤をAqoursが備えるのが間に合っていたからこそ、ラブライブコンテンツ全体の方向性としてフェスでの劇的な交代劇を実施することを関係者全員で決断できたのではないかと思っている。

フェスでのあの交代劇はAqoursとして最初の大きな目標を成し遂げたという宣言だったのではないか

フェス後に語られた言葉
「わたしたちの出る幕なんてないんじゃないかと思っていた」

それに対するようにμ’sサイドから語られた言葉
「Aqoursが活動し続けたおかげでフェスができた」

そして大きな挑戦を成し遂げた実感を得た上での言葉
「これまでの数年間は振り返るひますらもなかった」
「やっと振り返れるようになりました」

“ラブライブを続ける“という長く苦しい挑戦がついに実を結んだことを意味したのがあのフェスだったのだろう。

Aqoursはラブライブを生み出しはしていないが、間違いなく続けさせることができた。

そしてラブライブを続けさせるため、それを表す代表的な要素である “シンクロ”パフォーマンスの魅力を洗練させてきた。

千歌ら9人のメンバーを表現するために、目線や指先の角度1つまで拘り抜くためにほとんどの日々をAqoursとして過ごし愚直に邁進と研鑽を続けてきた日々。

「昔はAqoursが生活の一部でいた。でも今はもうAqoursで生活が決まっているんです」

これらの努力の日々は決して裏切らず彼女らをいわゆる2.5次元パフォーマーとしての高みへと昇らせる。

その結果、Aqoursはあらたな挑戦に直面できるようになる。

②「2.5次元コンテンツトップランカー」としての挑戦

  “シンクロの可能性”の追求
  =双方向性 2次元からの供給に依存しない2.5次元コンテンツ

前述の通りAqoursは企画発足当初から
“μ’sの続きだけでない ラブライブを続けさせる”
という大きな挑戦を続けてきた。

具体例をあげると
国外ライブ展開・シリーズ初のライブツアー・ユニット単位でのライブ/ファンミーティング実施・ライバルユニットにフォーカスしたイベント展開
など様々だ。

ただこれらは間違いなく“μ’sの時点で望まれていたこと”であり、つまりはμ’sの続きでしかないという側面もあったように思う。

しかし、積み重ねた研鑽によるパフォーマーとしてのレベルアップ、そして長い時間をキャスト・メンバー間で共有した経験がAqoursに新しい「挑戦」を課し、その結果としてそれまでのラブライブに対して革新的な要素を生み出す。この革新性を持ち始められたからこそ、Aqoursはただの”2代目ラブライブ”の肩書のみに頼らない“Aqours”になれたともいえると思っている。

その「挑戦」およびAqoursならではの強みとは、どうしても“原作”“元ネタ”となる2次元側の展開・供給が止まると魅力や勢いを損ないかねないという2.5次元コンテンツの大きな課題に対する一つの解決可能性でもあった。

また、アイマス765/μ’s台頭以後に舞台化なども含めて市場が拡大・飽和しつつある2.5次元コンテンツ界での新たな価値観を創生することにもなったのではないか。

それを一言で表すと

“突き詰めたシンクロによる双方向からの物語の創造”

その明確な転機もしくが示されたのは

・4thライブ
・Fantastic Departure
・DREMY COLOR MV

であったと思う

“シンクロ”

ラブライブを広く説明するにあたりこのフレーズが使用され始めたのは4thライブ以降、具体的には同ライブの制作過程をドキュメント的にまとめたシブヤノオト放映前後だったかと記憶している。

ではなぜそれまでは“シンクロ”という非常にキャッチ―かつわかりやすい言葉を使っていなかったのか?

従来“シンクロ”と思われていたもの。
それは有り体にいってしまうと視覚的な“アニメやCGのフリコピ・トレース”であり(もちろんそんなに簡単なものではないだろうが)言ってしまえば歌やダンスといった表現力のスキルを十分に持つ者であればある程度のレベルまでは完成させられてしまうものだったのかもしれない。

しかし、前述のようにのちに“シンクロ”という言葉を使うきっかけとなった4thライブ。そのライブで披露された、ある意味で1stライブ以来「封印されていた」と思われるほどですらあった「想いよひとつになれ」のパフォーマンス。そこで見せられたものは我々ファンがそれまで想定していた“シンクロ”の概念の一線を越えた第一歩だった。

「原作」である二次元での展開を主としてそこにキャスト自身の魅力も上乗せして如何に表現するかが王道として求められがちな2.5次元コンテンツの中で、
原作には存在しなかった物語、既存の物語の外を描いたライブパフォーマンスを見せてくれた。


それは、千歌たちメンバーの心身を理解・トレースすることで彼女らになりきることが出来るAqoursが次ステップとして、キャストらの一挙手一投足やその歩みを千歌たちのそれにフィードバックさせることができるということ、

「原作」に縛られずに双方向にAqoursの物語を創造することができるということ

の証明だった。


なぜ“シンクロ”という言葉が4thライブ終演以降からはっきりと言語化され使われだしたか。

それは“シンクロ“という概念をただのトレースダンスと捉えられたくなかったから。

最終ゴールに設定していた

“単なる担当キャストによる“真似”ではなく双方向で寄り添いながら物語を創る”

その一線をAqoursが踏み越えられたことを4thライブで実感できたから。

という制作サイドの矜持に近いものだったと考えている。

(おそらく…だけれどかつてのμ’sのパフォーマンスには制作サイドもファンもそういった一段上の“シンクロ”の可能性をそこまで強く求めていなかったんじゃないか…と思う。それは今でこそポピュラーな分野になった2.5次元的パフォーマンスが当時はまだあまり浸透しておらず、ただ現実のキャストが担当キャラのダンスを再現しながらライブをすること自体がそもそも大きな挑戦であり我々はそんな新体験に熱狂していたから。あとは “シンクロ”についてそういった指針を描くほどコンテンツがプロジェクトとして未熟だった、もしくはそこまでの可能性を秘めたものだと誰も認識できてなかったから。それでもあれだけのものを生み出せたのがμ’sの奇跡でありその経験がAqours以降のプロジェクト体制の糧になったのだと勝手に推測している)

 

この4thライブを以降、再び劇場版アニメさらにはその再現ライブといういわばμ’sの歩みを彷彿とさせる“ラブライブ的王道”に一度は回帰してアニメ世界線の物語をしっかりと完結させたAqours

しかし、既に双方向で物語を創造する挑戦に踏み出したAqoursであれば、そうした2次元サイドで物語の区切りを迎えたからといっても、その歩みが止まらないことはもはや明白だった。

“ラブライブを続けさせた“証でもあるフェス後に初めてリリースされたシングル

Fantastic Departure!

本楽曲には
・(中止にはなってしまったが)声優発のグループとしては異例の挑戦ともいえるドームツアーライブのテーマソング
・既存のAqours「らしくない」曲調
・アニメ映像を背負わないでの地上波番組への出演

非常にたくさんの挑戦が詰まっていた。

特に後者2つは従来の2.5次元コンテンツからすればある意味で積み重ねてきた魅力やファンを致命的に損ないかねないリスクすらはらむ要素であったと思う。

はたしてifの話にはなるが、もしもっと早い段階でAqoursが上述のようないわゆる“既存のラブライブ=2.5次元コンテンツ”から大きく逸脱した挑戦に踏み出したとしてそれは成功しただろうか。

最初こそはその目新しさで面白がられるものの、自分としての答えは、否、だったのだろうかと思う。

μ’sが作ったラブライブの魅力をしっかりと守り続け、数年の時間をかけて着実に備えた実力と千歌ちゃんらへの理解、そして双方向で物語を想像できるのだという自信と実績。

それらが出来上がっていたから“既存のラブライブ=2.5次元コンテンツ”の枠という制限を超えたヴィジョンで関連アーティストやスタッフが準備したステージでもそれをきちんと18人のAqours色に染め上げられるようになったのだろう。

コンテンツとして潤沢な資本が準備できるラブライブであれば、著名なトラックメーカーに依頼をすればもっと早くからFDのような新機軸な楽曲を用意することはできただろう。その知名度を生かして“シンクロ”抜きでもごり押しで地上波の出番を確保することもできただろう。「一生おぼえられないかとも思った」とキャストが漏らすほどの難易度の振付もユミ先生であればいつだって考えることもできたし、必要に応じてその時のAqoursのレベルに合わせてほどよくデチューンすることも出来ただろう。FDのにちにリリースが開始した各メンバーソロ楽曲のように、勢いのあるイラストレーターに作画を依頼して高品質でインパクトの強い二次創作のようなMVを制作することもいつだってできただろう。

それでもここまでその方針を選ばなかったのは、大きすぎる野望に向かって敷かれた険しすぎる軌跡をAqoursの18人が踏破してくるのを制作サイド一同がずっとずっと信じて待っていたからではないかと思う。


FDのパフォーマンスが地上波で初めて披露されたのを見たとき

「そっか、これがずっとAqoursがやりたかったことなんだな」

という印象が強烈に直感的に頭に浮かんだ記憶がある。

 

キャラクターの物語をキャストが3次元で再現するという2.5次元コンテンツが

キャラ→キャスト

という図式なのだとしたら

ラブライブを続けるという最初の大きすぎる挑戦の終着でAqoursが手に入れた“シンクロ”
継続した日々の果てで確固たる自信と表現力という実力を備えたAqoursはただ単にキャラクターの物語に寄り添いときにその物語を新しく補完することだけでなく

キャラ⇔キャスト

の図式で新たなステージに千歌たちを連れていけるようになったのだ

 

そういった意味でもFDは

18人でともに新しい物語を続けるという意思をそれまで以上に明確に示そうとした楽曲だったのではと感じる

「どんな歌であっても わたしたち9人で歌えば Aqoursの色になる」

「その色っていうのはいわゆる“青”とか“白”とかそういうのじゃなくて汗とか涙とかいろんな感情で染め上げてきた色」

当時、複数のキャストインタビューの中でしばしば語られていた“Aqoursの色”という考え方。それは彼女たちにとっても自分たちAqoursがただラブライブを続けるためのグループでなく、唯一無二のオリジナリティを持つことができたと強く実感できるようになったことを表している言葉のように感じられた

 

そして、そんな“色”というフレーズが伏線であったかのように作成されたさらなる挑戦の証

DEAMY COLOR 実写MV

そこには千歌たちメンバーの姿はもちろん、クレジットにすら彼女たちの名前は1つも出てこない。直接目にすることができるのはのは 当時活発になりだした各自のソロ活動の方向性の違いからもわかるように、その経歴も目指す夢もバラバラな個性豊かな9人のキャストのみ。

それでもあのMVから伝わってくるものは、これまでずっと見てきたのと同じ18人のAqoursの空気感。それがどんどん鮮やかに大きくなっていく可能性の塊のようなワクワク感ばかりだった。

当時はまさにコロナ禍の真っただ中でもあり、思うような活動が出来ずあまりに悔しいという言葉では余りある思いを重ね続けていたAqours。Aqoursとして描いていたであろう様々なプランやタイムスケジュールは白紙になり、その大切な数年間を意図しない形で突如削られてしまった。

現実に生きるキャストには色んな側面から当然避けられない時間的制約もある。誰よりもキャスト本人らが感じていたであろうその不安はきっと誰にもぬぐえなかった。

「わたしたちがAqoursでいられる時間が減ってしまったように思えて」

しかし

「私たちは諦めが悪いから」

どこまで意図してかはわからないけれど奇しくもスリリング・ワンウェイの歌詞にあるようなフレーズを口にして歩みを止めなかったAqours

その結果として、彼女たちは現存した2.5次元パフォーマーのトップランカーとして成長したのみでなく、双方向で物語を創造しうる挑戦をやり遂げたのだ。

それは3次元の活動やパフォーマンスを2次元の単なる代替としない共生関係。

Aqoursというコンテンツが既存の2.5次元コンテンツにイメージされる一線を越え、現実×アニメ双方の強みを兼ね揃えたハイブリッドなものへと進化しつつあることを証明できたということではないだろうか。

そしてこの“ハイブリッド”な強みがAqoursの最新の挑戦の足掛かりとなる。


★余談↓ この時期のAqoursのパフォーマーとしてのスキルアップについて

双方向で物語を創造できるハイブリッドな2.5次元パフォーマーという目標に対して新たな要素に挑戦してきたAqoursではあったが、当然その間も全てのベースとなりうる要素、つまりはステージ上のパフォーマーとしての個々の技術や経験を積むこと、そしてAqoursとしての知名度向上のため実績を積むことを止めはしなかった。

中でも特に、フルメンバーではないユニット単体での各種媒体・フェスへの参加、アニサマでの大トリ登壇、未体験ホライズンの初パフォーマンス披露の場として地上波ON AIRを選択したことなど……はこの時期のAqoursの活動方針の特徴をよく表していたと思う

例えば第一回バンナムフェス

本イベントは上記の「フルメンバーではないユニット単体での各種媒体・フェスへの参加」の先駆けにあたるもので、Aqours名義ではあるが参加はGuilty Kissの3人のみであった。

自身もGuilty Kissをお目当に参加したが、やはり当時は楽しみな反面で別の不安な感情もかなりあったことはよく覚えている。

ファン側登壇者側のいずれにおいてもその大半がアイマスコンテンツ関連で占められた会場でAqoursが、しかもたった3人で何を残していけるのか。フェスでのスポット登壇という性質上(しかもユニット単位ということもあり)“シンクロによる文脈や物語の表現”……というAqoursがもつ大きな強みが発揮されにくい中で単なる異物として消化されてしまうのではないか、と。そんな状況の中で3人はどれだけ心細い気持ちで東京ドームに立つことになるのだろうか…など。

結果は知っての通り。彼女たちは3人だけであっても、限られたCG栄光以外はアニメ映像を全く背負わない=シンクロを封じられた中でも東京ドームいっぱいの観客を熱狂させた。

翌日のitune music DLランキングに既にリリースされてから数年を経ていた彼女らの楽曲が軒並みランクインしたことは3人のパフォーマンスがそれ単体で新規のファンを獲得するに至ったことを目に見えて示していた

アニサマの大トリを務めた際のエピソード。

Aqours発足当初から常に彼女らに寄り添い(個人的には)畑亜紀さんと並ぶAqoursの理解者である石川ユミ先生が当日の舞台袖で涙をながしながら口にしたとSNSで漏らしていた言葉

「私がずっと教えてきたことが ぜんぶできていた」

「あなたたちはもう どこに出しても恥ずかしくない」

(自分はダンスに対する知見も経験もまるでないので全て推測だけれど)文脈からするにここでいう「教えてきたこと」というのはおそらく個々の楽曲の細かい振付けやステップなどの直接的な技術やスキルの話ではなく、もう一つ上位の概念“パフォーマーとしてステージに立つ際の心構えや姿勢”といったものを指しているんじゃないかと推測している。言わずと知れた話だがユミ先生は別にAqours含めた2.5次元アイドル専属の先生というわけではなく、ガチガチ本職アイドルも担当される方で一部では鬼(失礼)と呼ばれることもあるくらい厳しい指導もされる方とのこと。自分はダンスについてまるで詳しくないしファンとしての贔屓目な熱狂の中でAqoursを見てしまっているから細かい差異とかに鈍いのだろうけど、そんなユミ先生にはっきりと認められるAqoursは1パフォーマーグループとして客観的にも高いレベルに到達しようとしているのだな、と知らされたエピソードだった

また、第二回バンナムフェスでのステージも印象深い。

コロナ禍により大きく延期された本イベント。その経緯もあってか、Aqoursからは当初予定されていたメンバーとは大きく異なったメンツでの参加となった。そのメンバーがじもあいコンビ+黒澤姉妹の4人ということもあったため、メンバー的制約からデュオソング×2を軸のセトリが組まれるであろうというのが大勢の予測であった。結果、披露されたのは全て9人曲であり、そのフォーメーションダンスは全て4人verへと再構成されたものだった。この「限定された条件下で出来る曲をやる」のではなく、「限定された条件下でもやるべき曲を最大火力に仕上げる」というスタンスはAqoursキャスト9人全員のパフォーマーとしての平均レベルが上がっていること、そしてそれを出し惜しまないという姿勢が伺えてとても驚いた記憶だ。

初音ミクとの“共演”ステージ

そしてそうした2.5次元コンテンツパフォーマーとしてスキルアップを果たした現時点での集大成がExtra ライブで披露された初音ミクとの“共演”ステージなのだろう。

はっきり言ってあの初音ミクとの“共演”方法は、ただ実施するだけであれば技術的ハードルはそう高くない。細かい調整などの問題はあれど、要はキャストがパフォーマンスする位置とモニターの位置関係だけの話なのだから。

ではなぜラブライブ含め同様の2.5次元コンテンツステージでは類似のステージが見られてこなかったか?

それは2次元と3次元のパフォーマンスに間にある溝や違和感を埋めることが我々の想像以上に難しく、それらをそのまま披露することへの不安要素が勝っているからであろう。

だからAqoursが初音ミクとの共演を成立させたのは、純粋なパフォーマンス力の底上げだけでなく“千歌たちメンバーの姿が見えるような2次元的なパフォーマンス”をずっと追求してきたという彼女たちの姿勢、“ダンサー”ではなく“2.5次元パフォーマー”を突き詰めてきたAqoursだからこそ成しえたことなのだろう

★↑ここまで余談

  

③「真の2.5次元パフォーマー=ハイブリッドな存在」としての挑戦

  持続可能なコンテンツ作り

2.5次元コンテンツの担い手のトップランカーの一つとして新たな可能性を追求してきたAqours。

そんな彼女たちがこれから向かうのは、その新たな挑戦のターゲットはどこなのか。


ここで少し時系列的に話を戻してみる。

Aqous 5thLove Live

それは劇場版アニメの物語をなぞることを主題としたライブであり、前述の通りにある意味でμ’sの歩みを彷彿とさせる“ラブライブ的王道”を辿った最後のライブであった。

現時点においても劇場版アニメ=アニメストーリーの終着点という構図はμ’s、Aqoursともに変わっていないため、そういった一側面ではμ’sで言うところのFinalライブに相当するものとなる。

そのライブのMC

「私はラブライブが好きな気持から始まってここまできた。だけど……好きなものを好きでい続けることは簡単じゃない」

「これだけの人がここに集まっていることは当たり前じゃない。みんなが次のライブでもこうしてきてくれるかは分からない」

「しばらく会えない日が続くかもしれない」

「アイドルっていうのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。だけれどこの9人のAqoursだけは永遠であって欲しいと思ってしまった」

多数のメンバーから共通項として語られた想いは“時間の有限性”または“諸行無常”の概念だった。

 劇場版というアニメの物語の終着点でグループとしての終わりは明言されたもののその後の具体的な描写は伏せられたまま伝説のようになったμ’s

一方でAqoursは、当然のようにその後の苦難や別れを具体的に淡々と描かれた。

そこにはラブライブ大会優勝グループという威光や特別扱いもなく、ただただシンプルに時が進み、学年が上がり、続くものといなくなるものその双方が表現された。

変化しなければならないこと。変わらないものはないということ。

その事実をまざまざと突き付けるような物語が劇場版で描かれた。

 そうした物語の中で千歌たちAqoursメンバーは、自分たちがずっと同じままではいられないことを受け入れた。

 そのコンセプトはライブ中の演出でも徹底的に表現され、ダイヤを始めとした上級生の3人が9人のAqoursから飛び立ち、イコールでAqoursが6人に形を変える様が5thライブでは強調された。

 そんな風にダイヤたちが変化を受け入れ明確な区切りを迎えたのに対して、自分たち現実のキャストAqoursは変わらず9人で活動を続けていく状況。

ともすれば“永遠であろうとすればそう出来るような創作物“であるAqoursメンバーの方が先に明確な変化を迎えたのに対して、現実のキャストAqoursの方が変わらず活動を続けていくことになったのだ。

キャラとキャスト。次元を超えた2つのAqours。その二つの存在がそれぞれに迎える、永遠と“終わり” “区切り”そして“継続”

それらに本気で向き合ったからこそ、件のMC中に出てきた言葉の多くに “時間の有限性”や“諸行無常”も概念が含まれていたのだと思うし、そもそも「スクールアイドル」を謳うラブライブとしてもそれは至極自然な流れなのだと感じた。


さて
“時間の有限性” “諸行無常”

 
これらの言葉を現実的なコンテンツ展開の観点から解釈した場合、それは

・今後どこまでAqoursに人的・時間的・金銭的リソースが注がれ続けられるのか
・それに見合うだけのファン数を維持しビジネスとして成立させられるか

と言い換えることも出来ると思う。

Aqoursはその活動を通してたくさんのものをファンに見せてくれた。Aqoursに人生を救われたという人は自分の周りだけを見ても少なくない。自分もその一人だ。もらったものは決してお金に換えられるようなものでない。

それでも非常ながら、コンテンツの継続とはビジネスの継続に他ならない。

採算が見通せないコンテンツは決して続けられない。それを無理に通すことは、見えないところでたくさんの不幸が生まれることを無視するのと同義だと思う。

「わたしたちがAqoursでいられる時間が減ってしまったように思えて」

キャストもプロ。彼女たちがAqoursとしていられるためにはそれ相応の価値を数字で示し続けなければならないことは自身が痛いほどわかっているのだろう。(「活動してなくたってAqoursはAqoursだ!心の中にいつもいる!」という気持ちがあるのもわかるけれどここではそういう精神論じゃない領域の話ということで……)
常に目新しくフレッシュなコンテンツが山のように生まれては消えていく現代で、同じ1つのコンテンツがずっとファンを増やし続ける、そうでなくてもたくさんのファンの支持を維持し続けることがどれだけ難しいことか。
そんなことは作り手サイドは日々痛いほど感じているのだと思う。

そして先にも述べた通り、従来の2.5次元コンテンツ展開にはやはり「原作」の存在が何よりも重要であり、「原作」も供給抜きでは活動範囲にも限界がくる。
しかし継続的な「原作」の供給にはたくさんの人と時間と予算が必要だ。
ある程度成熟した状況であれば3次元を主体とした展開で押し切ることも可能ではあると思うが、それは「原作」と乖離したものになることで2.5次元コンテンツである必要性やそもそもの魅力を失いかねないリスクすら内包するものとなりうる。

そうした課題への一つの解として浮かび上がったのが前節で述べた

双方向で物語を創造しうる挑戦

であったのだと思う。

そしてもう一つの新しい解、というよりもその延長線上にあるコンセプト。

 アニメ×現実双方の長所を兼ね揃えた真にハイブリッドで持続可能なコンテンツ作り

 それこそが8周年プロジェクト:富士山すえひろがりプロジェクトとしていまのAqoursが挑戦しているものではないだろうか。 

  

そもそも2次元コンテンツの強みとはなんだろう?

それは「キャラクターのクリーンさ」にあると思う。
よりシンプルに言い換えれば「不祥事を起こさない」。

SNSの普及等により監視社会としての様相が進む昨今ではかつてでは考えられないような些細な(というとまずいか……)事柄での炎上・イメージダウンリスクが跳ね上がっている。中にはまるで見当違いと言わざるを得ないクレーム以下のような批判からの炎上もあったりするが……いずれにせよ企業サイドからすれば可能な限りそうしたリスクを小さくしたいことは変わらないだろう。今やコンテンツや企画の健全な持続のためにはこれらは細心の注意を払うべき事由の一つとなっているだろう。

その点において、創作物であればそのあたりのリスクは大きく回避できる。

もちろん、創作物に関連した声優・俳優・クリエイターから発信される炎上のリスクは存在し続けるだろうが、直近の例でも俳優・声優によるスキャンダルが明るみになったとて彼彼女らが演じるキャラクター自体が炎上し追い込まれるような例はあまりない。

 

ならば3次元ならではの強みとは?

これはその実在性によるフットワーク、対応力の高さじゃないだろうか。

昨今ではVtuberコンテンツの普及でかつてに比べると比較的容易にリアルタイムにリアクションが可能な「ガワ」を準備することはできるようになった。しかし、容易になったとはいってもそこにはある程度のインフラの準備は必要で必あるし、また実在性やその対応の幅という点では3次元=実際の人間にはまだ遠く及んでいないと思う。

 ラブライブコンテンツそしてAqoursはこの2つの強みを非常に上手く共存させられる存在に近いのではないか。

たとえば2次元の強みであるクリーンさについて

Aqoursが単なる振コピを超えた内面・精神性の“シンクロ”に挑戦してきたことは前述の通りであり、その達成までで長い時間をかけてキャストから担当メンバーへの限りない同一化・強い感情移入が努められてきたことはあらためて言うまでもない。 
またその過程において自身の成長やキャリアに多大な貢献を果たした、あるいは多くのメンバーにとっては「人生を変えた」と言えるまでの成長とチャンスをもたらした担当メンバーへの強い感謝の念や、さらにはメンバーへの責任感が醸成されていることも想像には難くない。
その結果 アニメのメンバーと同様に本気で夢を語り輝きを追い求められるクリーンな3次元パフォーマーが生まれているのではないだろうか。

 

そして実在性

3次元キャストが精力的に活動することだけでも実在性による多雨応力が大きいの当然だが、Aqoursにおいてはもはやあらためて言及するのも憚られる存在:沼津という実在の町・土地の貢献があまりにも大きい。

沼津という土地自体がもつ印象的な風景をベースとした明確なAqoursイメージの確立。

実在しリアルタイムに生きる町を架け橋として介在させることによるアニメ—現実間の結び付けへの強力なバフ効果。

町が作品を愛してくれることで 制作サイド・ファンからのリスペクトも高まるという正のスパイラル効果。

もたらされる経済効果によるさらなるスパイラルの助長。

結果としてより強力な介在も好意的に受け入れられ 成立する関係性。

 

とかくAqoursは様々な方面から3次元・2次元の双方向性を強固にすることで、2次元側の活動と3次元側の活動、さらに町そのものが日々生きていること。それら全てをフルに活用して”Aqours”を展開できる。

クリーンなイメージに実在性によるフットワーク・対応力の高さを兼ね揃えたハイブリッド。そうした強みによる持続性のあるコンテンツ作り

これこそがいまAqoursが、ないしはプロジェクトラブライブサンシャインが目指し挑戦しようとしているものではないだろうか。

 

活動年数が増えるに従って多くのコラボ企画を行ってきたAqoursだがここ数年の中でも印象的だったものとして

・厚生労働省との手洗い推進ポスター

・内閣サイバーセキュリティーセンターとのセキュリティ啓発ポスター

・JR東海との沼津ゲキ推しキャンペーン

これらは間違いなく上位にくるのではないだろうか。

いずれも行政・巨大インフラであり、いわゆるオタク以外の一般人も否応なく目にすることになるレベルのコラボ企画である。きっとその選出には単純なコンテンツ人気だけが判断基準ではないのではないかと思う。

2次元と3次元の双方で兼ね備えられるクリーンさ、そして両輪で相乗的に機能するフットワークや対応力。その強みが評価された象徴的な結果だと思っている。

 

こうした目線からここであらためて、8周年プロジェクト:富士山すえひろがりプロジェクトの中身を考えてみる。

現時点で判明している本プロジェクト内の大きな企画としては

・幻日のヨハネ

そして

・7周年プロジェクトから継続して開催される地元愛まつり

の2つだ。

 

幻ヨハ 

大々的なスピンオフアニメ展開それ自体が新たな「挑戦」であったことは疑いようもないが、そもそもアニメ幻ヨハとはどういった話だったか。

 “現実”の同音対義語として表題に冠された”幻日“

確かに異世界ものスピンオフとして中世風な風景と魔法をアクセントとした背景でアニメの物語は展開されていた。

してその実態は

いままさに少女から大人へ成長する過程の少女の葛藤

という非常に普遍的かつ地に足の着いたテーマを描いたものだった。

それを表現する要素として主に用いられたのはファンタジー色の強いバトルなどでなく

小さなコミュニティでの人間関係

大人を象徴する仕事・労働を通した社会との関わり

ある意味では、「スクールアイドル」という新たな可能性への夢や希望にあふれていた“現実”と比べてもむしろ非常に狭く限られたコミュニティでの話をベースにしたものだった。

また最終的にヨハネがたどり着いた結論も

「わからない」「(やりたくてたまらないことは)これからも探さなきゃ」

1話時点でのヨハネが抱いていた心境・悩みから表向きは大きく変わってもいない。

そして物語のキーとなったフレーズ 

「変わらないものなんてない ということだけが変わらない」
「今日も、今日を生きる」

誰にでも訪れる地続きの世界を必死に日々生きること。
そこにあるあまりに普遍的な様子や気持ちを歌やAqoursメンバーで描いたものが幻ヨハだったんじゃないだろうか。(この地味さが今に始まったことでもないサ!の特徴&魅力であると思うけど……割愛)

物理的にも精神的にも非常にLOCALで地に足がついた方針で一貫しており“オタク”だけではない今を生きる誰からも共感が得られる普遍的で寄り添った物語だったのじゃないか。

 

一方、現実の沼津で2年連続開催となった地元愛まつり

この地元愛まつり。

ただ事実だけを言ってしまえばAqoursがその物語の舞台である沼津でファンミーティングを実施する。ただそれだけのイベントなのだ。

しかし実態はどうか?

ファンミーティング自体に公式として併設される行政主導の物産展。

ファンミーティングが開催される3日間だけでなく前広に期間をとって行われる各商店での自主的な連動イベント。

昨年ではあるが観光誌との全面連携であらためて大々的にPRされる沼津情報の発信。

プロジェクト発足後丸8年が過ぎながらも、このただの“ファンミーティング”でしかないはずのイベントが、ただのオタクコンテンツ1イベントという枠組を完全に超え、むしろ幻ヨハの始動もきっかけとして過去のどの時点よりも強力に地域を巻き込んだ町ぐるみでのイベントへと変貌を遂げている。
そう。Aqoursが沼津でイベントと行うという事実が、沼津という街を挙げてのお祭りと同義だと認識されているのだ。

 その変貌は、
Aqoursがハイブリッドコンテンツとして築いてきたクリーンさ、実在性の高さによるフットワーク性で地方行政を巻き込んだ結果のコンテンツの発展の様子、に思える

 

正直、ラブライブほどのビッグコンテンツおよびそのメインプロジェクトとして、その舵取りをLocalな方へ向けるという判断は異例なのだと思う。

だが異例であるからと言ってそれは簡単なことではない。

地方といってしまうと言葉通りのLocalさやときに寛容さすら感じてしまうが、それでも実際に人が住み生活がある土地を巻き込むことは行政レベルの判断が必要である。

しかし、Aqoursはそれを早い段階から成し遂げ、そして今日に至るまで継続……どころかより地域に根差したコンテンツ作りに舵を切っているようにすら見える。 

それが実現できているのは前述の通り、2次元と3次元の双方で兼ね備えられるクリーンさ、そして両輪で相乗的に機能するフットワークや対応力。その強みが評価・信頼された結果なのだろう。

 

Aqours活動の初期から 幾度となく 声を大にして口にされてきたフレーズ

 「これからもラブライブサンシャインを、Aqoursを、沼津をよろしくお願いします!」

 自グループやコンテンツへの応援を呼びかける際に、必ずといっていいほどその聖地=地元となる町を並列で口にすることはあまり一般的ではないと思う。

それでも彼女たちはコンテンツ始動当初からそれを続けてきた。

結果としてその声は、他に類をみないといわれるほどの地域共生を実現したと言わしめるほどのコンテンツを作り上げた。

本年度も100周年記念燦々ぬまづ大使に選出されたAqoursは足掛け8年での大使就任が決定している。

若干帰納的な見方にもなるが、こうした地域との共生・地域住民・文化との共生を実績として太鼓判を押されたコンテンツであるからこそ、前述の行政・インフラからのコラボが実現したという流れも推測できる。

 アニメ×現実双方の長所(クリーンさとフットワーク・対応力)を兼ね揃えた真にハイブリッドで持続可能なコンテンツ作り

 これがいま、Aqoursが挑戦している新しいラブライブ!サンシャイン!の可能性なのではないだろうか。

 


・後段

結成時より様々な挑戦を続け、そのために愚直に地道に歯を食いしばりながら進み続けてきたAqours

メンバー同士の良いところを挙げる際に高確率で「真面目」「バカ正直」といったワードが飛び交うAqours

これまでにも本当にたくさんの新しい景色や体験を届けてくれたAqours

 

8年もの月日でたくさんのものが変わった。Aqoursも自分たちファンもそれをとりまく環境も。おそらくではあるがこれからもAqoursの前には望む望まざる関係なく、たくさんの壁が待っているのだと思う。彼女たちはずっとそういった境遇で後ろもろくに見ないでひたすら走ってきたのだから。良い悪いじゃなく、きっとAqoursはそういうグループだから。

 

「最強の挑戦者」

 

自分は今でもAqoursのことを心からそう思って呼び続けている。

 

きっとこれからも彼女たちは最後の最後のその瞬間まで、千歌たちと同じように足搔いて足搔いて足搔き続けて何かを手に入れようとするのだと思う。

その最後の瞬間というのはもう来年のことかもしれない。もしかしたら想像以上にはるか先のことかもしれない。

ただそれがいつだったとしても、Aqoursにたくさんのものをもらったファンとしてはいつでも

 

「やり残したことなどない」

 

そう言えるように彼女たちを応援したい。

 だからこそいつだって「頑張って挑戦!」なのだろう。

 

最後に、ラブライブサンシャインに関係する全てを端的に表してくれていると思い個人的に大好きなとあるAqours特集記事のフレーズから。

 

Aqoursが教えてくれたことはとてもシンプルで明確だ。
楽しむこと。悩むこと。苦しむこと。立ち上がること。
自分たちが駆け抜けた時間は決して無意味ではないと、存在を証明することだ。

 

 

  

・後段の後段

……さて。

あまりにも長々と語ってきた” 「Aqours」ってどういうグループなんだろう?“な文章でしたがいかがだったでしょうか?

最初に逃げ道を残しておいていたようにこれはあくまで18人のAqoursの歩みを見たオタクの「感想文」。批評でも評論でも、ましてや解説などと言う気はサラサラないので悪しからず……

でも、もしこの感想文を最後まで読んで(いるのか?)少しでも共感してもらえたり、または「そういう見方もあるのかー」とか思ってもらえたら嬉しいな、これからも一緒にAqoursの行く末をワクワクして追いかけようぜ!というやつです。

じゃあみなさん地元愛祭りを楽しんで…ワイちゃんははるか遠く海の向こうでお留守番中です。グンナイ。



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