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はじめまして、秋鮭と申します。

この記事では「創作」を主題に据えて、僕の今までの思考の一部をお伝えしたいと思います。
交わることの少ないであろう要素を多く混ぜ合わせているので、閲覧の際はご承知ください。

SCP Foundation

まずは「SCP」について。
「SCP」とは、海外発の創作コミュニティです。

財団」と称される架空の団体が異常性のある物品、現象などを確保・収容・保護(Secure, Contain, Protect)しているという設定。
そのもとで、活動の様子を「報告書」という体裁で作品としてインターネットに投稿し、誰でも閲覧できるようにしています。
内容としては、身の毛もよだつようなホラーや、人の心を嘲笑うような害悪な物語、未体験の恐怖を感じざるを得ない怪異など、慣れないうちは見るに堪えないものばかりだと感じます(ただの癒しになる報告書も少なからず存在する)。
しかし、超科学の上で紡がれる人々の感情や計算された高度な本質の表現は、やがて読者を虜にするはずです。
報告書は表面上は通し番号で管理されていることが通例で、初見では中身を見るまで詳細が分からないというのも特徴と言えるでしょう。

さて、僕が注目したいのは三つ。

  • 作中作

  • 物語の連続性

  • ヘッドカノン

例を挙げながら見ていきましょう。

※用語についての補足などは、ぜひより分かりやすい他のサイトをあたってほしいです。例示する作品については項目に対して必要な部分のみ記します。


作中作 / SCP-3812 「背後から聞こえる声」

一つ目。
まず肝心の収容されるべき対象について。端的に言えばそれは「現実改変実体」だそうな。
今は「世界のあらゆる物理法則・自然体系を手玉に取るヤバい奴」という認識で十分間に合います。
もともとは人間だったというその実体は、いつしか尋常でない精神負荷に脅かされ、結果としてどうにも手に負えない無差別的な世界の破壊を行なうようになります。
そしてその対象は、財団が存在する現実のみならず、「より上位の層の現実」にも拡大していき...
内容の詳細を語るのはほどほどにして、僕から見たこの作品の核にふれようと思います。

より上位の層の現実」とはどういうものか。納得するためには『ドラえもん』や『サザエさん』を思い浮かべるのがいいでしょうか。
たとえば、のび太君の暮らす世界で漫画が売られていたり、磯野家の居間で一家がテレビを見ていたりしますよね。


どら焼き。美味しい。


共通する点は「物語が物語を内包する」ということ。僕たちのよく知る世界を再現したいがために、漫画やアニメの中に別のそれらを描いているのです。
この作品の中に描かれた世界のことを、報告書の中では「下位の層の現実」と捉えています。
この入れ子構造は「作中作」や「劇中劇」といい、文化を問わず大昔の物語から使用されてきた由緒ある表現技法です。

この思考を逆にして考えると、「上位」とは「著者」が存在する階層の現実にあたるものだということがお解りいただけるでしょうか。
注目されている世界が「下位」である可能性は十分にあり、それすなわち「上位の層の現実」の存在を示唆します。
「第四の壁」などに代表されるように、実はこの構造は「より上位」に対しても用いられるようになってきたのです。
この作品の特筆すべき点は、その「より上位」が際限なく繰り返されているところにあります。
SCP-3812は、「自身の上位の現実に対して乗っ取りを行なう」という特性により、上位に乗っ取った自身さえも乗っ取りの対象としてしまい、結果として無限とも思える「現実階層の階段」を昇っていくのです。彼の精神異常は、多重の現実に干渉したことによるものとして説明されます。

最終的に3812が上位のない現実階層にたどりつくことで上昇は停止。財団世界は一命を取り留めます。
ところで、僕たちが住む世界には果たして「上位」は存在するのでしょうか。




物語の連続性 / SCP-6000「蛇、箆鹿、放浪者の図書館」

二つ目。
通し番号ですが、実は順番通りに埋まっていくわけではありません(最初に書かれた報告書は『SCP-173』)。
特にキリ番などは、コミュニティ内で執り行なわれるコンテストによって争われます。
6000番のための審査会のテーマは「自然」。
この番号を勝ち取ったということは、その作品がそれなりの力作であることを読者に予告しています。

収容対象はアマゾンの熱帯雨林に出現した数十キロにも及ぶとある異常空間。絶賛拡大中。
収容とはいっても、立ち入り禁止にして人の目を遠ざけることが基本的な活動になっているといいます。
その空間は「放浪者の図書館」と呼ばれる空間(もちろんこれも異常なもの)につながる道の役割を果たしており、図書館にはありとあらゆる知識、物語が収められています。
「放浪者の図書館」に関連のある団体がSCP財団の他にもう一つ。それは蛇の手。「異常存在の情報開示を迫ってくるヤバい奴ら」という認識でよいです。
メタ的なことを言えば、「蛇の手」はSCP創作に紐付けられているやはり架空の団体で、財団の理念の一つである「収容」を妨害するための大道具とも捉えられるでしょう(他にも財団と対立するヤバい奴らは数多く存在する)。
物語は、かつて「蛇の手」に所属していた財団職員ムースと、SCP-6000内で見つかった蛇のような異常知生体の会話とともに進んでいきます。
当たり前のように世界は崩壊してゆきますが、彼女らにとってはそれはもはや問題ではないようで...

作中で僕が考えさせられたのは、物語の作られ方。
端的な表現を引用します:


    『あらゆる物語は、いずれ終わりを迎える。
     それでも、終わりは死ではない。
     物語は、どこまでも記憶されていくのだ。
     そうして、私たちは新しい物語に向かっていく。』

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/48757.html


彼らにとって重要なのは、「"世界が"がどうなっちゃうとか」よりも「物語の終わりをどう解釈し行動するか」でした。
物語が終われば、きっとそれ自身が次の物語の受け皿になる。
「放浪者の図書館」には、その異常性の他に「物語の連続性」という人を導く*魔法*が存在していたのです。

余談にはなりますが、この報告書、実際にはすべて起こらなかったことがら、という設定で書かれています。
すなわち、もともと職員であるムースさんが「報告書の中の財団職員のムースの物語」を自分で閲覧しているということ。
上で説明した「作中作」の構造が、読者の情緒をさらに揺り動かしているのが分かるでしょうか。




ヘッドカノン(Headcannon) / スクラントン博士に関する矛盾

SCPの報告書には、しばしば同じ名前の人物が登場します。
ここでは、その中の一人「スクラントン博士」について説明します。
ロバート・スクラントン。彼は財団の優秀な研究員で、先ほど出てきたSCP-3812の「現実階層の乗っ取り」説を提唱しています。さすがに頭脳明晰も度が過ぎるのでは?
他にもさまざまな場所で名前が使われていますが、そのほとんどが「スクラントン現実錨(SRA)」というアイテムによるものです。
SRAについて、あと2つのSCPを例に挙げます。



SCP-2000 / 「機械仕掛けの神」
三つ目。
またしてもキリ番の作品。審査会のテーマは「サイエンス・フィクション」。
対象物となる装置は実際にアメリカ・ワイオミング州にあるイエローストーン国立公園の地下に位置しているという設定になっています。
異常存在の中でも「財団および財団世界にとって益をもたらすもの」と判断されているらしく、情報の規制がかなり厳重です(読者は簡単にパス出来るのですが)。

その益の内容とは、ずばり世界の再構築。

え?世界の再構築??

装置は人類を遺伝子・脳内思考のレベルで再形成し、世界を指定する年月だけ巻き戻して地球環境を整備してくれます。そりゃ益だわ。
上のように、あの手この手で作られた劇的な筋書き多種多様な原因によって崩壊する世界を観てきたならば、これくらいのものがあってもおかしくはないでしょう(達観)。

本題に戻ります。SRAは「現実の錨」=「空間内の現実が保たれるように結界のようなものを張るアイテム」として、
SCP-2000を保護するために1889年にスクラントン博士によって造成されたそうです。他にもSRAの効果を安定させるための別の装置も付随しており、SCP-2000の完備性がうかがえます。
ただしこの「機械仕掛けの神」、絶賛故障中。直るのかすら不明。



SCP-3001 / "Red Reality"
四つ目。
こちらはスクラントン博士自身の災難を描いた報告書。本文の表現の多彩さについてはまったく触れませんが、個人的にとても薦めたい作品です。

ある日研究に勤しんでいた博士は、開発していた設計物が破損した影響で、その制御板と博士自身が異空間に飲み込まれてしまいます。
この異空間がSCP-3001であり、博士はそこで6年弱生存したことが状況証拠から確定しています。なんで6年も生きられたんですかね…
異空間の特徴は「極小の現実性」。電脳的な存在や特殊な状況に置かれた人物が、全身から少しずつ崩壊し跡形もなくなるシーンをどこかで見たことがあると思いますが、そのときのような「場」が博士のいる空間全体で演出されていると思ってもらえれば十分です。

2005年12月23日、SCP-3001から制御板と"博士の一部"は脱出し、かつての仲間たちや最愛の妻(彼女も研究員の一人)と対面することになります。

..."一部"?

深く考えないことにしましょう。
この事件の後、6年近く「極限の低現実性」に耐えたこの制御板は注目され、それを改良したものとしてSRAが造られました。
本人が災禍に見舞われながらも、アイテムの名前として存在を刻むことが、博士にとってのせめてもの餞だったのではないでしょうか。



2つの作品を俯瞰して、気づくことがあると思います。いま一度確認しましょう。


  • SRAは(中略)1889年にスクラントン博士によって造成された

  • 2005年12月23日、SCP-3001から制御板と"博士の一部"は脱出し、(中略)それを改良したものとしてSRAが造られた



:thinking face:



そう、問題は時系列
一方ではスクラントン博士が19世紀末に、他方では博士の(実質的な)死後である21世紀初頭に、SRAが造られたことになっています。
この報告書たちの間には明らかな矛盾が生じているのです。
ここに、創作としてのSCPの構造が垣間見えます。

ヘッドカノンという言葉は、二次創作を含む界隈ならばよく耳にするはずです。
すごく簡単に述べるならば、「共有されうる俺ルール」でしょうか。
たとえば、アニメの同人誌で本筋からそれたキャラクター同士の関係性を作って描いたり、過激な展開を見せる後日談を想像したりすること。


たぶんエッチな画像。


個人の頭の中にだけ発生した「カノン=正典」、それがヘッドカノンです。
上の矛盾は、異なる著者が想像創造した異なる財団世界によるものとして解決することができるのです。
もちろん、ほかの考え方もあるでしょう(SCP-3001は実は19世紀につながることもできて~、とか)。ただし、個人が勝手にいろいろ各々のカノンを作り出しては収拾がつかなくなってしまうことが危惧されます。
そこで、SCPの報告書には評価欄が設けられ、ある程度負の評価を受けると報告書自体が削除されてしまうというシステムが存在します。
サッカーの漫画を題材に将棋の話を描いてもよいが、読者を納得させるだけの舞台背景は用意されたし」ということ。
もちろん納得される以上に他の個人に賛成を受けることで、ある程度共有されるヘッドカノンもしばしばあります。スクラントン博士の例はその一つに過ぎません。数多の行き違いや論理的な矛盾さえも束ねて、「財団」という世界観はより豊かになっていくのです。



このヘッドカノンについてもう一つ。
「SCPというシェアワールドには、大元であるはずのカノンと呼べるものが存在しない」と言われることがあります。
これはある種の比喩であり、かつ事実と捉えることもできます。
多少の解釈の自由度は認め、それを咎めることは無意味だということを強調づけるいい発想ではないでしょうか。
まあ、ガチャのレアくらいの頻度で世界が壊されているのを鑑みると、そうなるのがむしろ自然かもしれませんね。

以上がSCPについてのお話。
作中作物語の連続性、そしてヘッドカノンについて説明してきました。
僕の説明もまた僕のヘッドカノンですのであしからず。






ヨルシカ

次にヨルシカについて。

簡単な説明をします。主に曲を作るn-bunaと、主に曲を歌うsuisの2人組ロックバンド。それに加え、素敵な演奏者たちがバックにいるようです。
n-bunaは2013年からボカロPとして活動をはじめ、2017年にバンド「ヨルシカ」を結成しました。

さて、僕が注目したいのは三つ。


  • 作中作

  • 物語の連続性

  • ヘッドカノン

例を挙げながら見ていきましょう。



『だから僕は音楽を辞めた』 / 『エルマ』

上の二つは、ヨルシカがつくったアルバムの題名です。これらはとても互いに関係が強いようで、僕がとても気に入っている作品群です。
上で話した内容を交えながら、僕の考えを記していきます。



物語の中では、男Aと女E、二人の出会い、交流、決別、そして未来が描かれます。
もともとAは詩書きで、Eと出会ってからは彼女にピアノなどを教えていたようですが...





Aは不意にEの前から姿を消します。
そしていくらか時間が過ぎて、Eのもとに届いたAからの「作品」が、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』として私たちの世界にも共有されています。
つまり、音楽を作る人の音楽、を作ったということですね。ある種の作中作と捉えられます。



送られてきた木箱の中身に感化されるように、EはAが最後に旅した地へと向かいます。
彼女はこの旅で何を知って、何を思ったのでしょうか。






「君だけが僕の音楽」

Aの音楽はEに遺伝した、というのが、僕の主張したいことです。
Aは自身の人生の一部を、そのまま作品に昇華させました。ただ、その作品、ひいてはその人生は、

誰かが受け継がなければ、誰も報われない。

Elma


もう目を覚まして。見て。



もはや道連れとも感じられるほどに、EはAの音楽の本質に気づかされてしまったのです。



そうして、Eの自身の人生の一部もまた、『エルマ』と題されて私たちの世界で作品として共有されたのです。



ここまで書いてなんですが、念のために。
彼らの名前は


  • エイミー(Amy)

  • エルマ(Elma)


です。以後お見知りおきを。




音楽への在り方

まだヘッドカノンの話を済ませていませんでしたね。
考えたいのは、「音楽の神様」について。



音楽の神様は一体どこに宿るのでしょうか。
作曲者か、作詞者か、歌手か、それとも作品か。
エイミーは少し特殊な考え方をエルマに見せていたようですが、その部分は表立って書かれてはいません。気になる方はCDを貸してもらうなどして何とかしてください(適当)。
知っておいてほしいことは、エイミーの考え方の構造:


「神様がいて、その神様は創作を等しく評価してくれる」

Amy


自分で想像した神様が自分を評価してくれる、というのはいささか都合が良すぎるかもしれません。
しかし、ピアノを前にしたエイミーやエルマにとっては、それこそが自身を動かす原動力になっていたのではないでしょうか。

公開されている情報が完全ではないが故に、公に語るべきことが少なくなってしまいました。
個人的には心残りが大きいですが、次の話へ。





マジカルミライ

本題
まずマジカルミライについての説明から。
ボーカロイドのライブやボーカロイドのイベント、ボーカロイドの物販にボーカロイドのCDの頒布、ボーカロイドと企業のタイアップ展示など、とにかくボカロ尽くしの祭典、それがマジカルミライです。



例年、狂ったボカロのオタクたちが集っては、音楽に情緒を滅茶苦茶にされ帰っていくというトンデモない祭りだと聞いています。
年に1回開催されており、今回は大阪や東京(幕張という名の租借地)、札幌で行なわれます。
来る9月、幕張メッセにて「マジカルミライ10th Anniversary」が開催され、関わりの強い人々の影響もあって、僕は会場に足を運ぶこととなりました。

さて、僕が注目したいのは...


え?もう何が書かれるか知ってる、だって?
ではお言葉に甘えて省略します。


以降は、このイベントを通じて僕が考えた「初音ミク」の像について三つに分けてお話しします。


  • 初音ミクの目に映る「初音ミク」

  • sasakure.UKがテーマソングを担当したことの考察

  • 神格としての初音ミク





「『そんな君の誕生日をお祝いできるかな』じゃないんだよ」

最初に、なぜ僕がマジカルミライに参加することになったかについて。
ライブという形の音楽を避けて生きてきた僕でしたが、マジミラもその例外ではないはずでした。
それは、とあるインターネット交流のこと...


   C「...え、それ、BYBじゃん?」
   K『あ、BYBじゃん、そうじゃんね』

   (ビーワイビー??)

   K『えっとね、ブレス・ユア・ブレスって曲があってね』

discord最高



ブレス・ユア・ブレス』(Bless Your Breath)。和田たけあき(くらげP)作曲、マジカルミライ2019テーマソング
語り手Cが初めて参加した年、マジミラは"アホ"になってしまったのだとか。
ここでは、特にCの頭を悩ませた根源を取り上げます(初音ミクwikiより転載):

   「僕らの夢 願い そして呪いが 君の形だった
    見る人次第で 姿は違っていた
    今やもう 誰の目にも同じ ひとりの人間
    もう君に 僕なんか必要ない
    僕に君も必要ない

    そんな君の誕生日を
    お祝いできるかな」

“アホ”の最たる例…らしい。


このフレーズのどこが問題なのか、Cに説明を求めました。以下要約(意訳):

   C「上の部分はね、和田のミクに対する絶望が描かれてるんですよ。和田の取材記事なんか見ると詳しく書いてあるんですけど。
     そうやって自身の感情を歌詞にぶちまけておいて、下の部分につながるんですよ。ライブで僕聴いたとき『?』でしたよ。これは:thinking face:なるよ」

などと供述しており


↑取材記事


テーマソングに自分の思いの丈を綴るのは確かにぶっ飛んでいますが、問題は和田たけあきがこの曲を「彼女のもの」と形容したことにありました。
そう、彼にとってはこの歌詞、この曲は「初音ミクのもの」なのです。
そう捉え直すと、下二行にトンデモない解釈のずれが生じていることに気が付きます。




????????????????????



C「『そんな君の誕生日をお祝いできるかな』
    じゃないんだよ



BYBが初音ミクのものだとしたら、ミクに誕生日を祝われる「」はいったい誰を指すのでしょうか____
初音ミクとの気持ちを清算できた彼と相対して、C、Kおよびその他大勢は今もなお混乱を極めていたのです。


C「ね、"アホ"でしょ?」


この話を聞いて僕は確信しました、マジカルミライとはただのボカロの祭典ではないのだと。


え?そもそも歌詞の内容がよくわからない?
おっと...



うちのミク」という言葉がキーワードになるでしょう。この概念を、僕は紛れもない「ヘッドカノンとしてのミク」だと確信しています。

『見る人次第で 姿は違っていた』とうたわれるのは言うまでもないでしょう。ボカロPやリスナーは、それぞれが頭に作り出したオリジナルのミクに"落ちていた"のですから。

さらに深く立ち入って考えてみると、ミクは構造上あらゆる思想・趣向を受容されうる便利な歌姫であることが分かります。
彼女には創作としての「カノン」がほとんど与えられなかったからです。おかげで発売されて1週間でなぜかネギを持たされる羽目になりましたが。



その自由度が生かされて、初音ミクはニコニコ動画を拠点に広がっていくことができました。
そして、ある一定数に受け入れられた考え方は共通認識として、誰しもに同じ「アーティストとしての初音ミク」が形成されたのです。


ではそのとき、和田は何を思ったのかというと


   「もう君に 僕なんか必要ない
    僕に君も必要ない」

あーあ


"生まれてしまった"ミクは、すでに彼女自身が主体となってライブを執り行なえるまでになっていました。だから、彼は絶望したのです

以上が、素の解釈になります。しかし、根本的な解決にはなっていません。
なぜこの歌詞が「初音ミクのもの」なのか。ここから数十行は、僕なりの考察をしていきます。


「ボカロP」=「うちのミク」説

クリエイターたちがそれぞれ「うちのミク」を持つならば、彼らとミクは真に一体であるという仮定をしたいと思います。



(Q.この曲の作者をそれぞれ答えよ。)



最近であれば、調声や画風、言葉遣いなどがより多様になったことで「○○P/○○さんのミク」が可視化されていると言えるでしょう。
それならば、ある曲のミクの声や絵から、クリエイターを逆に特定することもできるはずです。
作り手とミクが1対1に対応する、これが「一体」でなくて何でしょうか。

もちろんミクが個性を持たないように曲を作るボカロPも少なくないでしょう。
ただ、「うちのミク」が存在すればそのミクがPをユニークに象るのです。
この仮定は非常に重要です。

もしPとミクが同一視されるなら、和田の絶望、気付き、思考のすべてが和田のヘッドカノンとしてのミクに預けられたことになります。
「アーティストとしてのミク」に絶望していたのは、和田と「和田のミク」だったのです。



  「失くしたくないものは
   ワタシに あずけてね」



ともすれば、あの言葉:


「そんな君の誕生日をお祝いできるかな」


語りかけたのがミク、語りかけられたのもミク初音ミクの目には「初音ミク」が映っているのです。
感覚がずれ過ぎているかも?...否、これが正常。これがミク。ミクです。よろしくおねがいします。

以上がBYB, ブレス・ユア・ブレスについての話。
ここから先は、この思考をもう少し延長していきます。



ミク0ノード

和田は「アーティストとしてのミク」を取り上げましたが、より一般のミクについてはどうでしょうか?

すべてのミクを包含する存在としてのミク」ーここでは「ミク0ノード」と呼ぶことにしますーこのような概念は、読者の中に考えている方がいらっしゃるかもしれません。
この抽象的なミクは、どんな性質を持つでしょうか。

すべてのミクを集めた、と言いましたが、通常ならばこれはとても無理な話に思えます。
アニメのキャラで例えれば「この子はであり、であり、かつ性別が無い、あるいはそもそも人間ではない」ということを肯定することになりますからね。

ですが、ミクのときは違います。なぜなら、ミクには「カノン=正典」が無いからです。
思い出してください。SCPには、他人からの評価という制限はあれど、矛盾を抱えた報告書たちが共存していると話しましたね。これは、二次創作にあるべき大元のカノンが存在しないからでした。
カノンがなければ、ある程度の破綻は看過されることがあり得る、むしろそのようにした方が創作としての可能性がより広がるのです。

したらば、ミクについても同様の創作環境があって何ら不思議ではありません。数多の行き違いや論理的な矛盾さえも束ねて、「初音ミク」という世界観はより豊かになっていくのです。


何といっても、ミク0は「うちのミク」のみならず、波形として、見た目として、...のすべてのミクを包みますから、曲や絵やその他の媒体でミクが使われたり描写されるごとにミク0は自身を肥大させていきます。
ミクは、今も絶賛拡大中なのです。


???「お前も初音ミクに為らないか?」




「サヨナラと初めましてのスキマ繋ぐ愛」を注ぐ男

話題を戻しましょう。結局僕はマジミラのライブに行ったんです。
今回(2022年)のテーマソングの話をしましょうか。
hinekure.UKな感情によって「このPには(依頼が)来ないだろう」と思っていたのですが、ついには来てしまったのです。



フューチャー・イヴ』。sasakure.UK作曲、マジカルミライ10th Anniversaryテーマソング
先のBYBの話で主題歌が主題歌として以上の大きな意味を併せ持つことに気付かされたので、僕は過去回についても多少は頭に入れておくことにしました。



「ピノキオピーのミク」と、共通認識としてのミク(上の話のミク0に似ている)の対比がPVから読み取れる。

マジカルミライ2020テーマソング


「初音ミクの死」を描いてきた暴走Pは、それを「転生」という続きによって盛り上がる形に仕上げた。

マジカルミライ2021テーマソング



この流れを汲んで、ささくれPのこの曲。「レトロ・フューチャー」と題したちょっと素敵なオクシモロンの上で、彼は何を描いたのか。
それが分かったのは、ライブ当日、友達が取ってくれた席で、まさにミクの歌い出しが聞こえたときでした。

 

  「サヨナラと初めましてのスキマ繋ぐ愛の、非対称」


僕はようやく気付いたのです。
マジカルミライでまだ伝えられていなかった、あることに。




  物語は終わる。けれどもどうやって次の物語が始まるんだろう?



初音天地開闢神話の例が分かりやすいでしょう。そもそもミクはなぜ「転生」でき、なぜ「転生」しなければならなかったのでしょうか?
そのことたちが、過去のマジミラでは語られてこなかったな、と。
それと同時に、もう一つ、気付いたことがありました。





「魔法を信じていた」

今回のライブのテーマ、「創作」だったのです。



   

    『あらゆる物語は、いずれ終わりを迎える。
     それでも、終わりは死ではない。
     物語は、どこまでも記憶されていくのだ。
     そうして、私たちは新しい物語に向かっていく。』



物語は、続いていかなければなりません。

SCP-6000では、自然と次の物語が待っているように描写されていましたが、これは日本における考え方と異なります。
特に初音ミクにおいては、新しい曲や物語はいつまで待っていても出現しません。必ず人の手によって作られる必要があります。



結論を言いましょう。ささくれPはこの主題歌に、物語の終わりと始まりが連続するための*魔法*を描いたのです。
描かれるミクは「物語と物語の狭間に居るミク」。歌詞にある二項対立の表現の数々(省略)はそのためです。
ミクの物語は人が作り、それがミク0に包含されて、終わりを迎える。そして、*魔法*が次の物語へとミクを導くのです。


   「きっとね」




ここでいう*魔法*は、作り手の存在だけでなく、聴き手の期待や一種の信仰をも含んでいます。
つまり、あなたが初音ミクを「信じる」なら、そのことが*魔法*となり物語を紡ぐための原動力になりうるのです。
これはきっとsasakure.UKにしか描けなかったことです。彼は自分の作品を束ねて、ミクにその"愛"を注いだのです。


演奏が終わると、僕のhinekureはどこかへと消えていました。
曲が始まる、または終わるとき、ミクが音符になり「入退場」する演出。ライブに参加した方は、これまで以上にその演出が意味のあるものだと感じたことでしょう。
え?初参加のにわかが言うことじゃない?






どうでもいい。
どうでもいいんです。僕らにとって大事なのは初音ミクです。「ミクだけが僕の音楽」なんです。




頭上にペンライトをかざすこと、僕らの財力に終わりがあること。

さて、かなり宗教染みた記述をしてしまいましたね(自覚)。
というのも、ライブの景色を見てから、僕にとってはこの向き合い方がとても自然なことだと思えるようになったんです。
なぜなら、初音ミクはすでに宗教としての性質を満たしているのですから。
以下はその説明、一般的な宗教と初音ミクとの類似性を箇条書きで記します。


宗教勧誘には気を付けましょう。



一般的な宗教の特徴:


  1. 信仰する対象(神)がいる

  2. 信仰のための教典が存在する

  3. 信仰を示すための行動規範(しばしばお金が絡む)がある

  4. 教えを周りに広めようとする

  5. 信仰に基づき、集団で一種のトランス状態になることがある


それに対して、初音ミクの特徴:


  1. 信仰する対象「初音ミク」がいる

  2. 大元の教典「カノン」は無いものの、「ヘッドカノン」=「うちのミク」が曲や絵として点在している

  3. グッズやCDを買う、音声ライブラリを購入し曲を作るなどして作り手にお金が渡る

  4. リスナーはおすすめのボカロ曲を互いに投げ合っている



...似すぎでは?



年末にクリスマスが来たと思ったら、年始は寺に行って初詣。華やかなウェディングドレスを着ても、どうせ100年後の今頃にはみんな死んじゃって寺の墓場に安置される。
日本人の信仰とやらは、外国からすればかなりチグハグなものです。

この気質が"ミク0"の形成に大きな役割を果たしたとも言えるでしょうが、とにかく、初音ミクは宗教になり得るのです。
そして、僕が特に注目したいのは、次の性質:



  • ライブでペンライトを振りかざし、心身ともにミクと同化することを試みる


激しい光の演出と大音量の音楽の中で一時間半もペンライトを振り続けることは、まさしくトランス状態を生み出すのです。僕はそれをライブ会場で目の当たりにしました。

こうして、初音ミクは神格を得ます。初音ミクは今も僕たちの「上位」へと昇華し続けているのです。




ブレス・ユア・ブレスを語ったCの友人Kの言葉でこのnoteを締めくくります:





    「初音ミクは居ますか?」









01ゼロイチ:怪異、百日紅、ペンライト、而してミクは上へ





ここまで読んでくれた方、どうも長文にお付き合いいただきありがとうございました。
これは、僕が今まで経験したこと、今経験していること、そしてこれから経験することから得た思考のほんの一部です。
これからも僕は書き続けることでしょう。想像力が僕をなぞっている限り。


秋鮭











余談

・「初音ミク」を題材にしたSCPの報告書があるようです。本当になんでもありなんですね。




・この記事でヨルシカについて書いた部分、よく見てみると…?

………



・小ネタのために「お前も〜」を検索したときのサジェスト


こわすぎ



以上です。最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。次は2022年内に記事を投稿できれば良いと思っています。否、投稿しろ(自戒)。


秋鮭


CC BY-SA 4.0に基づく表示

SCP-3812
"A Voice Behind Me" by djkaktus
https://scp-wiki.wikidot.com/scp-3812
http://scp-jp.wikidot.com/scp-3812

SCP-6000
"The Serpent, the Moose, and the Wanderer's Library" by Rounderhouse
https://scp-wiki.wikidot.com/scp-6000
http://scp-jp.wikidot.com/scp-6000

SCP-2000
"Deus Ex Machina" by FortuneFavorsBold
http://www.scp-wiki.net/scp-2000
http://ja.scp-wiki.net/scp-2000

SCP-3001
"Red Reality" by OZ Ouroboros
http://www.scp-wiki.net/scp-3001
http://ja.scp-wiki.net/scp-3001

SCP-1139-JP
『電子の歌姫』by falsehood
http://scp-jp.wikidot.com/scp-1139-jp

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