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『砂の惑星』について。

「砂の惑星」という楽曲がある。ハチこと米津玄師(米津玄師ことハチ?)が、初音ミク10周年記念のマジカルミライ テーマソングとして書き下ろしたものだ。

「今後1000年草も生えない砂の惑星さ」

ニコニコ動画或いはVOCALOIDコンテンツをそう揶揄するこの曲は、初音ミクの10周年を祝うための楽曲にはいささかシニカルであり、良くも悪くもシーンは騒然とした。

今なお各所で話題になっているこの曲であるが、今回気まぐれで俺もこの曲について極々個人的な感想を述べたいと思う。

ようやく、活字に出来るくらいには考えが纏まって来た。

※記事の内容は全て俺の主観的な感想でしかない事を留意されたし。

前編:全員の耳を無理矢理こじ開け鳴らす"警鐘"

"オワコン"という言葉がある。
"終わったコンテンツ"の略であるその名詞は、時代に流されてすっかり過去の物となってしまったコンテンツを指して呼ばれる蔑称だ。

しばしばVOCALOIDも"オワコン"と言われる事がある。初音ミクブームが始まってからもう10年以上経った。かつては社会現象になりテレビ特集が何本も組まれ、シーンから飛び出したスターが音楽チャートを賑わせた時代に比べれば、流石にその勢いは鳴りを潜めている節がある。

しかし、現に世界中で毎回ライブイベントは大成功し、未だに未知数な音楽的可能性が渦巻くVOCALOIDシーンである。一概にオワコンと呼び捨ててしまうのも早合点というものだ。

オワコンとはどういった状態なのだろうか。ここで分かりやすいオワコンの例を挙げる事は出来ないが、ただオワコンはオワコンなりに、好きな人達だけで細々と楽しくやっている場合もある。「オワコンか否か」にコンテンツの良し悪しはさして関係無いのだ。

しかし、VOCALOIDは少し勝手が違う。
他のコンテンツと違い、需要と供給が明確に分かれていないからだ。VOCALOIDで曲を作る人は製品の消費者でもあり、ファンに楽曲を提供する供給者でもある。VOCALOIDは音楽製品なので、盛り上がりのためには、消費者であり供給者であるボカロPによるクオリティの高い楽曲群が欠かせない。

製品の開発者やイベント主催者だけではなく、VOCALOIDシーンには消費者による飽くなき向上心が必要不可欠なのだ。

さすがに10年続いたコンテンツである。まだまだ当たり前のように盛り上がり、いつまでも熱が続くだろうと思う人もいるかもしれない。
ただ、全員がその"なんとなくの安心感"に沈んでしまったらどうなるか。

まさしくシーン全体の士気は下がる一方なのである。

消費者の向上心や創作欲がコンテンツの良し悪しに敏感に連動する特殊なシーンゆえに、ボカロP達は、常にアンテナを張り巡らし、高みを目指している方が良いに決まっているのだ。(皆が皆そうしなければならないという意味ではない)

そこで、2011年よりシーンの内部からVOCALOIDの成長を見続けて来たハチは2017年のVOCALOIDを見て「早急に、膨大なVOCALOID消費者全員の耳をこじ開け、爆音で警鐘を鳴らすべし」と思ったのではないかと、俺は考える。

ボカロ(ニコニコ)が本当に砂の惑星かどうかは分からない。認識は十人十色だ。だが、ボカロが草木が生い茂る星かどうかも、確かめようがないのだ。ならば、闇雲でも拳を突き上げ、雄叫びを上げて、前に進まねばならないのだ。VOCALOIDは、消費者こそ供給者なのだから。

だからこそ、「初音ミク10周年記念」であり「マジカルミライのテーマソング」なのだ。「砂の惑星」はコンテンツそのものが意識の片隅に宿らせるべき"危機感"なのだと。実際に誰が見ても明らかな砂漠になってからでは遅いのだと。

ハチはそう語りかけているような気がする。

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後編:頂から底までに等しく叩き付けられる挑戦状

ここからは俺自身が、「砂の惑星」を初めて聴いて抱いた感想だ。

先程も述べたように、VOCALOIDというシーンにはボカロPの創作が欠かせない。VOCALOID製品を使って楽曲を投稿しさえすれば誰でもボカロPという肩書きを手に入れる事ができる。才能に溢れる者から凡庸たる者まで、大富豪から貧乏人まで。その肩書きにはあらゆる取得条件が無いに等しい。

俺は当時再生数4000にも満たないボカロPであった。「ボカロP」という肩書きに憧れてただけの高校時代から数年経ち、自分で音楽を作れるようになり、漬物石になっていた初音ミクを引っ張り出した。

ただ実際手に入れてみるとその肩書きはまあ軽い物だった。参加資格もへったくれも無い「ボカロP」という座に就いてはみたものの、自分の社会的価値が上がるわけでも無く、周りからすぐさま賞賛されるわけでもない。

「ボカロPってなんだろう?」

彼らの創作はファンに閲覧され、再生数や話題性に関係無くVOCALOIDというコンテンツを絶えず広く深い物にしてゆく。

それは作者の気概の有無を問わずだ。
再生数が100に満たない楽曲も、興味本位で半ば実験のように投稿された曲でさえ、紛れもなくVOCALOIDコンテンツの一部と化し、文字通りシーンの引き出しを広げる要因と化すのである。肩書きは安いが、役割が無いわけではないのだ。

要するにボカロPは、本人のやる気やコンテンツへの愛に関係無く、1人残らずVOCALOIDシーンが持つ可能性の一部である。「伸びてる人は凄い」「超会議に出てるボカロPは凄い」ではない。「皆凄い」のだ。ボカロPに階級など存在しないのだから。

そんな中公開された「砂の惑星」は、ファンだけでなくボカロPへも向けられたメッセージだった。「どこへも行けなくて墜落衛星」。その操縦桿を握っているのはお前だ。お前だ。お前だ。今のままでお前はいいのか?と。1人残らず全員にハチは、米津玄師は、挑戦状を叩きつけたのだ。

当時の俺は嬉しかった。
これは紛れもなく、時代の張本人であるハチから直接受け取った挑戦状なのだと。頂点も底辺も無く、ハチも左手も同じボカロPだ。だからこそ「砂の惑星」の歌詞を聞いて震える。ただただ血が騒いだ。俺はこの日初めて「ボカロP」という肩書きの重みを知ったのである。

きっと、同じ思いを抱いたボカロPが大勢居たと信じたい。こんな直筆の挑戦状をばら撒く人間が、ボカロを愛していないわけがない。馬鹿にしているはずもないと。

実際、「砂の惑星」への挑戦や反感により新しいボカロ曲が数え切れない程生まれた。そうしてVOCALOIDというコンテンツは、失っていた"かもしれない"向上心を再び燃え滾らせ、今なお深みを増し続けるのである。

「砂の惑星」は、まさしくハチからの愛のメッセージだ。

これを読んで、もう一度あの曲を聴いて欲しい。日本語というのは角度によって色んな受け取り方が出来る言語だから、今度こそ前とは違って聴こえるかもしれない。

「あとは誰かが勝手にどうぞ。」

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