感情を捨てる女

 あの日捨てた、たった一枚の紙切れ――。
 何気なく捨てたあのひとひらが、私の運命をこんなにも狂わせてしまった。
 取り返しのつかない片道切符は、あっさりときられてしまっていた。
 それでももう、私の心は……。

「お待たせしました。次の方、どうぞ」
 殺風景な待合室の椅子で順番を待っていた私を、よく通る涼し気な声が呼ぶ。
 カーテンと簡単な立て板で仕切られた薄暗い部屋に入ると、華奢な女性が口元に笑みをたたえていた。
 特徴的な銀髪が黒々とした濁った瞳を半分ほど隠し、口の端を吊り上げるようにして作られた笑み以上の表情は読み取れない。全身黒づくめの衣服のなかに垣間見える肌は、異様なほどに白い。
「たいへんお待たせしました。さあ、こちらへ」
「はい、失礼いたします」
 細く長い指先で椅子を指し示され、私は言われたままに腰かける。
 目線が同じ高さになると女性がもう一度微笑み、丸いテーブルのうえで手を広げた。
「わたくし、占い師の脇坂未明と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。それでは、まずはあなたの――月城都子さんのお話を聞かせてください」
「占うのではなく、私の話をするのですか?」
「ええ、どのように占うかはそれからです。占いにも相性がありますから」
 ここは都内でも人気の占いの館である。
 館といっても寂しい雑居ビルの一角にある小さなものだけど、口コミで評判が広がっている。都会の端っこの吹き溜まりにあるここは、知る人ぞ知る名店となっているという噂だ。
 私は就職してからずっと胸につかえている悩みを、俯きながら話し始めた。
「あの、私、これから職場でどうやって仕事をしていけばいいのか悩んでいて」
「ふむふむ。悩むということは、職場でなにか問題を抱えているのですね?」
「上司と……。直属の女性の上司とうまくいかないんです。何かにつけて私に絡んできて。きっと目をつけられているんだと思います。入社以来ずっと、重箱の隅をつつくような指摘を毎日繰り返されて、とても息苦しいんです」
「なるほどなるほど、上司との間に問題を抱えておられると。それは困りましたね」
 女性は指先でトントンと机を叩くと、口元に手を当てて口角をあげる。
「そういったトラブルでしたら本来ならば、その女上司さんのお考えが変わってくれることが最良なのですが」
「それは……難しいと思います。もうずっと、今の状態が続いてますから」
「それならば、解決方法はただひとつ。月城さん、あなたの方が上司と関わるのをつらいと感じる気持ちを捨ててしまうしかないですね」
「つらいと感じる気持ちを、捨てる?」
 このひとは何を言っているのだろう。それが簡単に出来るなら、そもそもこんな場所まで足を運んでいない。
 しかし脇坂さんは眉を寄せた私に向かい、にっこりと微笑んで頷いて見せた。
「そうです。人間というものは実に不思議なものでして。周囲の環境をなんとか変えようと思ってしまえばそれは大変な労力を伴うことになります。とても難しいうえに、うまくいくかもわからない。割に合わない作業です。けれど」
 言葉を切ると、彼女は私の方にそっと白く細い腕を伸ばした。
「自分自身が気持ちを捨てることは簡単に出来る。貴女自身が『上司に責められてつらい気持ち』を捨て去るのです。そうすれば、貴女の日々は穏やかで優しい、とても気持ちの良いものに一変するでしょう」
 脇坂さんの言うことはまるっきり理想論で、人間の感情というものを無視しているように感じた。捨てることが簡単に出来るなら、何も苦労はしていない。
 私は一瞬零れ落ちてしまいそうになったため息をなんとか抑えた。
 あなたがつらい気持ちを捨てれば?
 言われるまでもなく、そんなことが出来ているならとっくにやっている。そもそもこんな場所にも来ていない。私の表情の変化を感じ取ったのか、目の前の占い師は大げさな素振りで自分の胸に指を置いた。
「もちろん、本来人間の気持ちというものは割り切るのに苦労するし、捨てにくいものです。それが相手から押し付けられるネガティブな感情から来るものなら、尚更です。だけど、自分の感情を上手に処理することが簡単に出来てしまう方法があるのですよ」
 そう言って彼女は、マグカップほどの大きさの木編みのかごを取り出した。
「これは?」
「簡単に言えば、魔法のゴミ箱ですよ。ここにあなたの捨てたい気持ちを書き記した紙を投げ込めば、たちまちその気持ちを捨てることが出来る。そんなゴミ箱です」
「ここに捨てればつらい気持ちが消える? おまじないみたいなものでしょうか。でも信じがたいです、だってそんなに簡単にいくわけないじゃないですか」
「まぁまぁ、そう言わず。なんなら試しにひとつ、やってみませんか?」
「やってみると言われましても……」
 戸惑う私の手元に、脇坂さんがペンと細長い紙を置く。
 机のふちに引っ掛けた指をどうしていいか戸惑っていると、彼女がにこりと微笑んだ。
「さあ、一種の願掛けのようなものだと思って、やってみましょう」
 長い前髪の奥で、大きくて黒い瞳がきらりと輝いたようであった。
 その眼でじっと見つめられると、不思議と反発していた気持ちが霧散してどこかへ消え去っていく。
 私は操られるようにペンに手を伸ばした。紙を前にして、何を書くべきかと迷っていると「『上司に絡まれてつらい気持ち』、と書いてください」と促された。
 言われるままに私は『上司に絡まれてつらい気持ち』と紙に書き記す。
 あやつられるようにして書いた文字は、ひどく震えていた。
 脇坂さんはひとつ頷くと、小さなゴミ箱を私の前に差し出した。
「さあ、その紙を小さく折りたたんで、このゴミ箱の中に捨ててしまいましょう」
 まるでごっこ遊びである。それでも促されるままに、私は書いた紙を小さく折って差し出されたゴミ箱に放り込んだ。
 その瞬間、心のなかに涼しい風が吹き抜けた気がした。
 それはもちろん気のせいに違いないのだろうが、不思議と心地よさをともなった感覚に私の気持ちは少しだけ軽くなった。
「いかがですか? 月城さん」
「不思議な感じなんですが、ゴミ箱に紙を捨てたら、少しだけ気持ちが軽くなったような気がします」
「それは良かった。では今日はここまでにしましょう。もしも月城さんの気が向きましたら、また私を指名してください。私はいつでもここでお待ちしておりますので――」
 そういって、脇坂さんは名刺を差し出した。
 白地に黒い文字だけのシンプルな名刺には、脇坂未明という名前だけが記されていた。
「はぁ。ありがとうございました」
 占いというよりも儀式だったな、そんなことを感じながら私は脇坂さんに頭を下げた。
 名刺を受け取って立ち上がるともう一度お辞儀をして、薄暗い部屋をあとにして家路についた。
 心のなかを吹き抜けていった、この奇妙な感覚はなんなのだろう。そんなことを思いながらマンションの自室でベッドに横たわると、睡魔はすぐに私のそばへやってきた。

 翌日、会社に出勤した私のもとにさっそく問題の上司がやってきた。
 相変わらずにらみつけるような目付きをして、眉間には深いシワを寄せている。
 ハイヒールをわざと大きな音で鳴らしながら近づいてくる上司に、私は心のなかでため息をついた。
「月城さん、昨日あなたが作成した今期の決算に関する書類だけどね」
 私のデスクに無遠慮に書類を広げ、上司が一方的に説教を始めた。
 重箱の隅をつつくような指摘に、また今日も一日いじめられるのだと身を固くする。
 しかし――。
 いつもならばめまいや息苦しささえ覚える、まとわりつくように執拗な上司の説教が、今日は私の気持ちを全く乱さないのだ。
 どんなに強い言葉を言われても、顔を覗き込むようににらみつけられても、私の心は微塵も痛まない。時折かすかな驚きや恐怖心がわきだしても、それすら心の中に吹く涼しい風がさらりとかき消していってしまう。
 あれほど辛かった上司の詰問の時間が、今の私にはなんともない。
「とにかく! ミスをするなんて論外! どんな些細な間違いだって許されないんだからね! ちゃんと自覚を持ってやってちょうだい!」
 上司がそう言い残して背中を向けると、私はなんだかおかしくなって小さく微笑んだ。
 あれほどつらかった時間が、ウソのようにあっさりと過ぎ去っていく。
「これも、あの奇妙なゴミ箱のおかげなの?」
 昨日、紙に書いて捨てた気持ち。
 『上司に絡まれてつらい気持ち』。
 その思いが、今はどこからもやってこない。胸のなかにあるのは昨晩ゴミ箱のなかに紙を捨てた時に感じた心地よい風と、つらい毎日から解放されるかもしれないという、晴れ晴れした思いだけであった。
「あ、あの、月城先輩……」
 清々しい気持ちで自分の席に座り直すと、今年入ったばかりの新人の女の子に遠慮がちに声をかけられた。
 とにかく仕事が出来なくてどんくさい子で、だけど顔だけは可愛いので男性社員からはチヤホヤされる。そのせいで、この子はまるで成長しない。お嬢様大学出身の、世間知らずな子であった。
「業務発注書の書類で、わからないところがあって」
「はぁ? わからないって……それはこの間も教えたでしょう!」
「ごめんなさい……」
 消え入りそうな声で俯く新人を見て、私の心に苛立ちが募った。
 どんなミスをしても男性社員たちが笑って許すせいで、この子はろくに仕事を覚えやしない。そのくせ、いつでもだれにでも可愛がられる女。
 私がもう一度書類の書き方を教えても、彼女は頷くばかりでメモすらとらなかった。
「ねぇ、私何度も教えるのイヤだから、教わるときくらいキチンとメモしてくれない?」
「えっ、メモ……ええと、あの、はい」
 新入社員は業務書類を裏返して、その白紙にボールペンを構えた。
 思わず怒鳴りつけそうになった気持ちを抑え込み、無言でメモ帳を押し付ける。
 今まで上司にぶつかられてヘトヘトだった気持ちに余裕が出来た時、私の胸はこの出来損ないの新人への苛立ちで心の隅々まで満たされていった。

 次の日の夜、私は脇坂さんを指名してあの雑居ビルへと向かった。
 対面した脇坂さんに、私は出来損ないの新人のことを矢継ぎ早に話す。
 彼女が如何に無知でどんくさいか、それでいて男性社員に保護されまるで学習すらしないか。その厚顔さ、世間知らずさ。語っていくほどに声が大きくなっていくのを自分でも感じるくらい、私は感情的になっていた。
 話をひとしきり聞いてくれた脇坂さんは大きく頷いたあと、にこりと微笑んであのゴミ箱を取り出した。
「そんな甘やかされて生きてきた甘ったれた人間は、早々変わるものではありません。ましてや、今もチヤホヤされ続けているとなるとなおのことでしょう」
「はい、脇坂さんのおっしゃる通りです。私もそう思います」
「先日も言いましたね。周りの人間や環境を自分の意思で変えることは難しい。けれど、自分の気持ちを捨て去ることはじつに簡単です。さあ、この間のようにその邪魔な気持ちを捨ててしまうのです」
「はい、私もそうしたいと思っていました」
 脇坂さんからボールペンを受け取った私は、渡された紙に『出来の悪い後輩に苛立つ気持ち』と書いて折りたたみ、ゴミ箱のなかに放り込んだ。
 瞬間、私の胸の中に爽やかな風が吹いた。ああ、これは錯覚ではなかったんだ。
 まるで新緑に包まれた森のなかで、ゆっくりと深呼吸をするような爽快さ。
 私は大きく息を吸って、心の中を吹き抜ける心地よい風を存分に味わった。
 にっこりと微笑んだ脇坂さんが、ゴミ箱に指で触れて言った。
「月城さんも気持ちを捨てるのが二回目で、すっかり気持ちの切り取りがお上手になりました。いやぁ、才能があるのでしょうね。どうです、こちらのゴミ箱は、お気に召しましたか?」
「ええ、とっても素晴らしいものだと思います。。本当に不思議なんですが、そのゴミ箱に書いて捨てた気持ちは、綺麗さっぱり私のなかから消えていくんです。すごく、すがすがしい気持ちだけが残って」
 私の返答に、うんうんと数度頷いた脇坂さんがゴミ箱を指で撫でて言った。
「いやはや、それは良かった。とても良い、とても良い傾向ですよ月城さん。ですが、これだけ気持ちの整理がつけば、貴女にはもうこれは必要ないでしょうか?」
 突然の脇坂さんの言葉に、私は戸惑ってしまう。
 きっとまだまだ、捨てるべき感情は残っているはずなのだ。
「い、いえ。それは困ります。まだきっといらない感情がたくさんあるはずで……ぜひそちらをこれからも使わせて頂きたいです」
 そういうと、脇坂さんはニタリと笑って言った。
「そうですか。それはそれは……。ああ、そうだ。いいことを思いつきましたよ。月城さんさえもしよろしければ、今日はこちらのゴミ箱をお持ち帰りになりますか?」
「え、でもこういうものってやっぱりお高いというか、値が張るものなんじゃ……」
 これほどに効果がてきめんな道具だ、きっと相当高いに違いない。
 今までの二回は、いわばお試しサービスのようなものだったのだろうか。
 微かに警戒し尻込みする私の様子を察したのか、脇坂さんはすっとゴミ箱を私の前に差し出した。
「いやだなぁ、そんな警戒しないでください月城さん。こちらのゴミ箱は、特にお代は頂戴しませんよ、これは無料で差し上げます」
「そんな。こんなすごいものを無料でお譲りいただくなんて、申し訳ないです」
「このゴミ箱はですね、あくまできっかけにすぎない。言うなればおまけなんですよ、オマケ。本当に大切なことは、いらない感情を捨てようという気持ちそのものですから」
「そうなのかもしれませんけど、それでも」
 遠慮する私を覗き込むように見て、脇坂さんは人差し指を立てて提案した。
「そうですね、もしもどうしても気が引けてしまうのであれば、ときどきで良いので私を指名してここに来てください。そうすれば、私だって助かりますから。どうです、これなら交換条件のようなもので納得しやすいでしょう?」
「脇坂さんの指名なら、むしろこちらからしたいくらいです。それが、脇坂さんのお役に立つのであれば……。それじゃあ、このゴミ箱はありがたく持ち帰らせていただきます。また、指名してここに来ますね」
 私がそう言うと、脇坂さんは口角をあげて手提げ袋に包んだゴミ箱を差し出した。
 私はそれを大切に抱えて帰り、部屋の机のうえに置くことにした。

 感情を捨てることの出来るゴミ箱を手に入れた日から、私の生活は一変した。
 朝起きるのが面倒に感じたときは『朝起きるのが面倒くさい気持ち』を捨て、満員電車が窮屈で不快に感じた時は『満員電車を嫌がる気持ち』を捨てた。
 そうすれば朝の目覚めはとても快適だったし、ぎゅうぎゅうの満員電車で足を踏まれたり、誰かのカバンと私のスーツのボタンが引っかかってしまったときだってニコニコとしていられた。
 『会社でイライラしてしまう気持ち』を捨てた時は効果はてきめんだった。
 社内でも明るくなったと褒められ、驚くべきことにかねてから気になっていたとなりの部署のイケメン男性と、お付き合いすることにもなったのだ。
「月城さん、貴女の優しい笑顔に一目惚れしました。付き合ってください!」
 そんな言葉をかけられたときは、はしゃぎまわりたくなるほどの嬉しい気持ちで心が満たされた。いらない感情を捨てることが、これほどに素晴らしいことだったとは。
 私は本当に幸せものだ。それも全て、あのゴミ箱のおかげである。

 だけど、会社でも評判のモテる彼氏が出来ると、心配になることも多くなった。
 彼はとても顔が良く、人当たりもいい。私の部署でも人気があり、きっとどこへ行っても評判が良いだろう。そのうえ忙しいあのひとはなかなか連絡がつかなかったり、デートの予定が仕事で急にキャンセルになったりもした。
「やっぱり、私なんかじゃ釣り合わないのかな。本当のことが知りたい」
 ドタキャンが続いたあるとき、彼の行動を怪しく思った私は、彼がうちに泊まりに来てお風呂に入っている間に、そっと彼のスマートフォンを盗み見た。
 しかしそこには何ひとつ怪しいことはなく、むしろ私のメッセージを大切に保護してくれていた。何気ないやりとりでさえ、南京錠のマークで保管されているのをみて、私は天にも昇る気持ちになった。
「あんな些細なやりとりまで大切にとっておいてくれているんだ……。こんな一途なひとを疑うなんて、私は本当にバカね」
 嬉しい気持ちを抱きしめて、私は机に向かった。彼の思いに対して、どうしようもなく汚い自分の心に嫌気がさしたのだ。嫌気が差した感情は、捨ててしまうに限る。
 おもむろに紙とペンを取ると『彼を疑う気持ち』と『彼に対して心配になる気持ち』をゴミ箱に捨てた。彼を一途に信じる。もう彼のことで不安にならなる必要なんてない。
 だって、あのひとは私だけを見てくれているのだから。
 心のなかに吹く風が、いつもよりも強く冷たく感じられた。
 それもまた、私の気持ちを心地よくさせていったのであった。

「いやぁ、素晴らしい。月城さん、あなたはすでにあのゴミ箱を完全に使いこなしておられる。疑う気持ちを捨てる。ネガティブな感情も捨ててしまう。それはとても美しい、人間として溌溂と生きることにつながります。本当に良いことですよ」
 彼氏への気持ちを捨てたことなど、私の近況を聞いた脇坂さんは、笑みを浮かべ手を叩いて喜んでくれた。
「余計ないらないものを捨てて、シンプルに心地よく生きる。モノに対しての在り方ですが、そういう生き方は昨今見直されて来ているでしょう? いうなればこれは心の整理整頓なのですよ」
「心の、整理整頓……」
 脇坂さんが笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「そう。執着や恨み、妬み……。不安になるようなマイナスな感情は抱えていたってただただ苦しいだけ。心を無駄に苦しめてしまうだけです。しかし人間はナゼかそういった感情ほど捨てにくく出来ている。けれどもあのゴミ箱があれば大丈夫。心の中まできれいに整頓し、いらないものを捨ててしまえるのです」
 脇坂さんの言葉に、私はいたく感銘した。
「これは、正しいことなんですよね? いらない感情を捨てていく私は間違っていないですよね?」
「もちろんです。あなたは立派にあのゴミ箱を有効に使っています。ですから会社での時間も快適でしょう? 彼との時間は素晴らしいでしょう? 日々の生活が素晴らしい景色に一変したでしょう? それこそが、あなたが何も間違っていない証拠ですよ」
「本当に、素晴らしいものをありがとうございます」
「いえいえ。これからも、その調子でどんどん心の整理整頓を頑張ってください。いらない消極的な感情は、迷うことなく捨ててしまいましょう。本当に大切なのは、ネガティブな気持ちを捨ててしまおうと思える自分自身の生活の在り方なのですから」
 私が深々と頭を下げると、脇坂さんは「私はいつでもここでお待ちしておりますよ」と言って嬉しそうに微笑んだ。彼女は私と話しているときほとんど……いや、いっさいまばたきをしていないのではないだろうか。ふと、そんなことに気付いた。
 脇坂さんのしぐさと言葉に気を取られ、私は時折自分のなかに吹く風のことを話し忘れてしまった。ううん、話す必要もないと判断していたのだ。
 だって、これは心をきれいに整理整頓するための行為なのだから。私は脇坂さんに言われるままに――ううん、まるで操られるように――次々と生活に不要な煩わしい感情たちをゴミ箱へ捨てていく。
 心のなかを流れる隙間風は、感情を捨てるほどに冷たいものへと変わっていった。

 異変を感じたのは、私が誕生日を迎えたときであった。
 その日、彼は急な仕事が入ってしまい、私は自分の部屋で独り寂しくバースデーを過ごすことになった。孤独感に苛まれながらも、心の奥底にはある革新があった。
 というのも、彼に対するマイナスな感情をほとんどすべて捨てていた私には、予感のようなものがあった。それは不意に彼が私の家にやってきて、サプライズで誕生日を祝ってくれるに違いないという確信に近い思い。
 そして夜、私の部屋のインターフォンがなった。ドアカメラの確認もせずに玄関を開く。
 そこには思った通り、花束とプレゼントを抱えた彼の姿があった。
「やっぱり来てくれたのね、本当にありがとう」
「あれ、ここにくること、バレバレだった? もっと君を驚かせようと思ったのにな。必死に仕事を前倒しにしてきたんだよ」
「だって、私はあなたのことを信じてたから、きっと来てくれるはずだって」
「信じていたって……。ありがたいけど、サプライズのし甲斐がないなぁ」
 私は笑顔で苦笑している彼を招き入れ、豪華にラッピングされたプレゼントを受け取る。そこには以前私がデパートでじっと見つめていたバッグがあった。それも、私が予期していたことであった。
「あのとき君が気にしていたバッグ。欲しかったんでしょ、これ」
「うん、すっごい嬉しい。大切に使うね」
 穏やかに微笑んで頷く私に、彼は少し物足りなそうな顔をした。きっと予想外の来訪やプレゼントに大はしゃぎする姿を期待していたのだろう。
 けれど彼への心配ごとを捨てている私にとって、全ては予想の範囲のなかにあった。
 来てくれたこともプレゼントも嬉しかったけれど、そこには新鮮な驚きはなく、どことなく喜びも単調なものに感じられた。だから、彼が思った以上に落ち着いて来訪する彼を迎えたり、プレゼントを受け取ったのがどことなく寂しかったのだろう。
「それじゃあ、まだ少し仕事が残っているから、もう行くよ。短い時間でごめんね」
 そういって私に一度キスをして会社に戻る彼を見送ると、私は机のゴミ箱に向かった。
 彼は私の思うことを完璧にこなしてくれた。だからもう、かつて捨ててしまった彼のことを疑ったり心配したりする気持ちは必要はない。そんな彼に対して、捨ててしまっていたマイナスな気持ちを取り戻そうと思ったのだ。
 そうすればきっと、彼のサプライズに今以上にドキドキすることも出来るし、嬉しかったプレゼントに喜びの涙を流すことも出来るに違いない。
「ええと、彼に対する気持ちはどれだろう?」
 ゴミ箱にはすでに沢山の折りたたんだ紙が山になっている。
 適当に指を奥の方に入れて、当てずっぽうで一枚取り出してみる。ゆっくりと紙を開いていくと、そこには何も書かれていない白紙があった。
「あれ? 捨てたい感情を書く前に紙を捨てたことなんてあったっけ?」
 もうひとつ、紙を取り出して開く。そこにも何も書かれていない真っ白な空間が広がっていた。何枚取り出してみても、ゴミ箱の中の紙は全て白紙に変わっていた。
「これってどういうこと?」
 不意に、長い間忘れていた気持ちが私の胸を締め付けた。
 漠然とした不安という、背筋が震えるようなどうしようもなく大きな感情。
 呼吸が浅くなる。これは一体どういうことなのだろう。一度このゴミ箱に捨てた感情は白紙になって消えてしまう?
 そんなこと脇坂さんから何も聞いていない、そうだ。聞いていない。ならば、聞いてみなければ。
 占い師の脇坂さん、彼女ならば何か良い解決方法を提示してくれるに違いない。
 私は適当に着替えを済ませると、そのまま夜の街へと駆け出していった。
 目的の駅に向かい電車に乗る。ビルの最寄り駅までがどうしようもなく遠く感じられた。
 目指す駅のホームに電車が滑りこむと駆け足で電車を降り、息を切らせて通りの角を曲がる。この向こうが脇坂さんに占い――というよりも、ゴミ箱をもらいその使い方を伝授してもらっていた場所だ。あと少し――。
 どうなってしまうのだろうという大きな不安と、すぐに解決出来るに違いないというかすかな期待が交錯する中、私が目にしたものは【入居者募集】と書かれた何もない廃ビルであった。
「そんな、どうして……確かにここは占いの館を開いていたはずなのに」
 目の前建物は、店をオープンしていたときには行き届いていた清掃は見る影もなく汚れ、もう何年も放っておかれたかのようにくたびれた、からっぽのビルとなり果てていた。あの占いの館は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
 カギのかかっていないビルのなかに入り、占いの館が入っていたフロアまで階段を昇る。
 そこはぽっかりと空洞が出来たようなからっぽの何もない場所に変わり果てていた。
「なによこれ! 占いの館はどこにいってしまったの、一体どういうことなの!?」
 外の街灯や夜の街のネオンに照らし出された極彩色と闇が交じり合った空間は、がらんとしていて机ひとつ置かれていない。
 まるですべてをなかったことにしてしまったような場所。私は全身の力が抜けてぺたんと地面に座り込んだ。
「なんで……だって、脇坂さんはここでいつでも待ってるって」
 しまっていた彼女の名刺に触れる。その瞬間、がらんどうとなった部屋のなかに風がふいた。ほこりっぽい風に目を閉じる。指でまぶたをこすりながら目を開けると、目の前に真っ黒な服を着た銀髪の女性――脇坂さんが立っていた。
「いやぁ、これはこれは月城さんではないですか。こんな遅い時間に来ていただいたのに、申し訳ございません。残念なことに、私自慢の占いの館はついこの間閉店になったんですよ、いやぁ、色々訳ありでして。ふふっ、ご連絡も差し上げず、申し訳ございません」
「閉店に……ううん、そんなことより! あのゴミ箱はどうなってるんですか!?」
「ゴミ箱がどうなっている、と言いますと?」
 さも不思議そうに片方の眉を吊り上げ首を傾げて見せる脇坂さんに、私はかすかな苛立ちを覚えかけ――その感情は不意に消えた。
 そうか、私はもう様々なことに苛立つ気持ちさえも捨ててしまっているのだ。
「感情を整理整頓出来るゴミ箱の話です。今日ゴミ箱を開けてみたら、今まで捨てた感情を記した紙がすべて白紙になってしまっていました。あそこに捨てた感情は、どうしたらもう一度取り戻すことが出来ますか?」
「取り戻す? おやおや、奇妙な話ですねぇ。月城さん、あなたはそれらの感情がいらないからゴミ箱に捨てたのでしょう。今更いらなくなって捨てた感情に対してどうしたっていうのですか」
「一回捨ててみて、やっぱり必要だと思った気持ちがあるんです。私はもう一度彼に対する思いを改めたいんです、取り戻す方法を教えてください」
 脇坂さんの唇が両側に裂けるように広がった。微笑む脇坂さんの白い肌が、ネオンライトの明かりで色とりどりに変色していく。
「あーあ、そういえば、あのゴミ箱をさしあげたときに、捨てた感情がどうなるかの説明をうっかり忘れていましたねぇ。それは失礼」
 脇坂さんはその細長い指でピストルのような形を作るとそれをすっと左胸に向け、一度打ち抜くしぐさをして笑った。くふっ、くふっ、と空気を攪拌するような耳障りな声が薄い唇からこぼれだし、真っ暗な部屋を動き回った。
「月城さん、一度でもあのゴミ箱に捨てた感情は、二度と戻ってくることはありません」
「そんな!? どうして最初にそれを言ってくれなかったんですか!」
 脇坂さんはおどけるように両手を肩の辺りにもちあげてみせた。
「いえいえ、うっかり忘れていたんですよ、うっかりね。でも、それがなんだというんです? 月城さんは必要がないからそれらの感情を捨てたのでしょう。いらないからゴミ箱に放り込んだのでしょう? 月城さん、あなたはもうこれは着ることはないと思って捨てた服を、ゴミ箱から拾いなおしてまた着ようというのですか? そんなこと、しないでしょう」
「感情と服を同じように語らないでください!」
「おんなじですよ。もう必要がないから捨てる、非常にシンプルな話じゃないですか。それに、余計な感情を捨てていったあなたは、実際に活き活きとしていたではないですか」
 大きく見開かれた真っ黒な瞳が、私の心のなかまで探るようにぎょろりと動いた。
「感情を捨てることで助かったこと、生活が楽になったことは確かにあります。だけど捨ててはいけないものまで手放してしまった。そんな気がするんです」
「それは――錯覚でしょう」
 脇坂さんが静かに歩み寄ってくる。座り込んだままの私をのぞき込むように腰をかがめて、そっと顔を近づけてきた。呼吸さえぶつかりそうな距離なのに、彼女からはなんの息吹も感じられなかった。
 ただその口から無機質な声を、言葉をつむいでいるだけだ。瞳の向こう側は私の姿さえ映さない、真っ暗な黒色で満たされていた。
「月城さんは、必要ないから捨てた。感情とは自分の心に寄り添うもの。気持ちとは生きていくうえでどうしても切り離しがたいもの。あなたはそれをさらりと捨ててしまえたんです。そんな風に捨てられるなら、もとからいらないんですよ。胸にぽっかり穴があいたようでしょう? 心のなかをどうしようもないほどのすきま風が吹き抜けていくようでしょう? それもまた、素晴らしい。なぜならあなたは感情を捨てるたびに吹き抜ける風の心地よさを感じたのでしょう? それなら――あなたにはこうなることが予想出来ていたはずだ」
「私には気付けなかった、ううん、ようやく気付いたときにはもう手遅れだったんです! お願いです、二度とこんな間違いは犯しませんから! もう一度捨ててしまった感情を私に返してください!」
 すがりつく私をひょいとかわすように、一歩下がった脇坂さんがゆっくりとステップを踏むように歩きながら言った。
「私はね、月城さん。べつに意地悪をしているわけじゃあないんですよ。あのゴミ箱に捨てた感情は戻らない。それが私が差し上げたゴミ箱のシステムであると、ただ説明をしているだけですよ」
 私は冷たい床を握りしめるように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「それじゃあこの先、私はどうすればいいんですか? 様々な感情を失って、どうやって生きればいいんですか!?」
「おや、先のことで迷っておられるのですか? それなら解決方法は簡単ですよ。『未来に悩む自分の気持ち』をゴミ箱に捨ててしまいましょう。そうだ、それがいい。そうすればまた、あなたの心には平穏が訪れますよ。『感情を捨てて悔いる気持ち』なんてものを捨てるのもどうでしょう。そうです、捨てましょう、捨ててしまいましょう」
 楽しくてたまらないというように、脇坂さんがまくしたてる。
 私は自分が次々と自身の感情をゴミ箱に放り込む姿を想像してぞっとした。それでも、強い恐怖はわいてこない。怖いという気持ちさえ、私はどこかに――ゴミ箱に置いてきてしまったのだろうか。
 もはや、あのゴミ箱に捨ててきた感情の数多すぎて、ひとつひとつを明確に記憶していない。それほどに、思いつく限りの邪魔な気持ちを放り込んだ。
 捨て去った紙がすべて白紙になってしまった今、私自身どんな感情を捨てたのか、はっきりとは思い出すことができない。
「ああ、このさいもっと大きな感情を捨てるのはどうですか? 恐怖、後悔、悩み、失望……。こういった生きる上で邪魔な、マイナスな感情をまとめてポイと投げ捨ててしまうのがオススメですよ、きっと月城さんは良い気持ちになれますよ。晴れやかで、満たされて、生まれたての魂のような。透き通った心を保てるに違いない」
 負の感情を何もかも捨ててしまったら、私のなかには何が残るのだろう。
 漠然とした不安が、私の全身を駆け抜ける。ぶるりと震えた私を見て、脇坂さんがいつくしむように優しい声を出した。
「今の月城さんはとても苦しそうだ。そう、まるで最初にこの場所にやってきたときのように。私は、あなたを解放して差し上げたい。そのためにはどうすればいいか、賢明な月城さんにはもうおわかりでしょう? その答えを実行するときを、心待ちにしておりますよ」
 そう言うと、脇坂さんはネオンが作り出した雑多な影のなかに溶け込むように消えていった。
「脇坂さん? そんな、消えた……?」
 ひとりホコリくさい部屋に残された私は、呆然と脇坂さんがいた場所を見つめたまま、しばらく立ち上がることすら出来なかった。
 これから私はどうすればいいのか。不安という海に投げ込まれたような心細さのなかで、心には不安をかき消すあの涼しげな風が吹いている。身体と心がバラバラになってしまったような思いのなかで、それでも捨ててしまった感情が戻ることはなかった。

 その日から、まだ捨てていない、残り僅かな不安に苛まれ眠れない夜が続いた。
「あの、月城先輩。この書類間違ってます」
「えっ? ご、ごめんなさい」
 寄る辺ない不安に包まれて眠れない日々は、確実に私を蝕んでいった。
 仕事への緊張感はとうの昔にゴミ箱に捨ててしまっている。
 得体の知れない不安とそれによる睡眠不足のせいで、私は仕事で些細なミスを連発した。次第にどうでもいい仕事ばかりやらされるようになり、ついには会議用の資料をコピーする枚数さえ間違えた。
 私だって、できる限り集中しているつもりだった。けれど、どんなに注意深くなろうとしても緊張は続かず、心に張り付いた不安だけが頭を支配する。
 仕事が手につかず、大好物だった食べ物の味もろくにわからず、すっかり様子の変わってしまった私はついには彼からも愛想をつかされ始めていた。
 それでも、大好きな彼への不安を捨て去った自分にとってそれは現実味の欠ける出来事であった。もう彼はいない。その事実をどうしても心が、気持ちが受け入れてくれないのだ。
「ダメ、このままじゃ生きていけない。どうすれば、こんなおかしな気持ち……」
 独りきりの部屋で、離れていく彼にさえ疑問も心配も抱けない自分の胸の内を呪った。
 マイナスな感情はいくつも消して来た。些細な不安は数えきれないほど捨て去った。それなのに、いやだからこそ、漠然とした不安は日々大きくなっていくばかり。
 食べたものを全て吐き出してしまうようになった時、私は震えながら机のうえに手を伸ばした。
「このままじゃ、こんな不安定な気持ちじゃ生きていけない」
 私を覆いつくす重苦しい暗雲のような不安。この感情そのものを捨てない限り、私はもうどうすることも出来ない。
 不安を捨てることにさえ、どうしようもない不安はあった。
 だけど、この息が出来なくなりそうな思いを捨てることが出来るなら――。
 ペンに手を伸ばし、紙を取る。
 震えの止まらない腕で書いたひどく醜い『不安』という字。
 そっと折りたたみ、ゆっくりと、意を決してその紙をゴミ箱に放り込んだ。
 その瞬間、私をがっしり包み込んでいた不安はウソのように消え去った。心の中に、とても強い風が吹き抜ける。
「ああ、これで解放されるんだ」
 重苦しい感情が消えると同時に、私の全身に蓄積されていた疲労が現れた。
 ベッドに身体を投げ出すように横たえて、私はこの数日忘れていた安眠をむさぼった。

 翌朝から、私の世界は一変していた。
 なんの不安もない世界は、まるで色を失ったかのように味気のないものであった。
 美味しい食べ物、美しい景色、大好きな彼との大切な時間。
 胸がときめくような瞬間を過ごしても、心はすぐに機械のように平坦になってしまう。
 次から次に新しい色を心のキャンバスに描いてみても、あっという間に鮮明な色はモノクロームに染まっていってしまうのだ。
 部屋で独り身体を横たえて、動かない気持ちに問いかける。
「なんでこんな風になっちゃうの?」
 声にすら、抑揚が失われていた。
 何かがおかしい。それはわかっている。だけど、おかしいことを不安に思う気持ちはもうあのゴミ箱のなかに捨ててしまったのだ。
 私は、どうにかなってしまったのかもしれない。
 けれど、何を考えたって今にも未来にも不安なんて湧いて来やしなかった。
 毎日が同じ気温なら、外を暑いとも寒いとも感じることはないだろう。私の心のなかにも、同じようなことが起きているのかもしれない。
 寒い日だけを世界中から取り除いてしまったら、残った暑い日を『暑い』と感じることは出来るのだろうか?
 答えは、からっぽになった今の私そのもの。
 あの日捨ててしまった気持ちは、本当にただマイナスな感情としてそこにあっただけなのだろうか。思い返してみても、私にはもうわからない。
 どんなに考えてみたところで、胸の奥には無理やり地ならしされたような窮屈で平らな心があるだけ。
「寂しいとさえ、思えないんだね」
 寂しくなれば心が不安になるだろう。だけど、その『不安』はもう捨てたのだ。
 だから、天井に伸ばした手は何の感情もつかめなかった。むなしく宙を泳いだ腕が、こつんと机の角にぶつかった。
 ゆっくりと身体を起こす。
 手が、自然と机に伸びた。紙を取り出し、ペンを握りしめる。
『死を恐れる気持ち』
 紙にそう書き記すと、ゆっくりと折りたたんでいく。
 悲しい程に、胸のなかは穏やかだった。
 波を失くした海のように静まり返った鼓動を聴きながら、私はその紙をゴミ箱に捨てた。
 胸の奥に、どうしようもなく冷たい風が吹いた。
「いってきます」
 誰もいない部屋に声をかけて、私はマンションの屋上に向かった。

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