心亡くした志

 薄暗いほこりっぽい部屋に、たどたどしいタイピングの音が響く。
 私は慣れない小さなノートパソコンの画面を前に眉間にしわを寄せた。
 ディスプレイの明かりを受けた本棚には、ずらりと同じ著者の書籍が並んでいる。
 著・松本葉造。
 かつて、ヒューマンドラマを書かせたら右に出るものはいないと称された天才作家――他でもないこの私自身である。
 二十数年前、携帯電話などほとんど流通していなかった時代、若き日の私は新進気鋭の小説家として文壇にデビューした。
 私がとにかくこだわりをもって描いたものは、男女のすれ違う切ない思いである。
 時間、言葉、場所、お互いの気持ち。
 それらはかつて、今のように手軽にコミュニケーションをとれる時代よりも伝えにくいものであった。携帯電話のない時代の待ち合わせは、待っているだけで心が揺らめく切ない恋物語となりえたのだ。
 私は徹底的な取材により、恋人たちの心と時間のすれ違いとその切なさ・儚さを丁寧に書きつづった。彼らの色あせない淡い思いを、物語にしていったのである。
 その繊細な描写に誰もがドラマ性を感じ、私の小説は何度となくテレビ番組や映画の題材にもされ、大成功を収めた。
「ふう……。今日はここまでにするか」
 私は猫背になっていた背を伸ばし、大きく息をはいた。
 栄枯盛衰。時代の移り変わりと価値観の変化、携帯電話などの普及が私の紡ぎ出す切ないすれ違いを描いた小説からリアリティを奪い去っていった。今では私の作品たちは、時代遅れで現実味のない、有り得ない物語として世に受け入れられなくなった。
 松本葉造の名は、少しずつ地にうずもれていったのだ。
 それでも、すれ違う男女の恋と思いの切なさを描く物語こそが自分の強みであると信じて疑わず、私は自身が紡ぎ出す作品の変化を拒んだ。
 その結果どんなに書いても、編集者が首をたてに振ることはなくなっていった。
 ついには私の物語は書籍にすらなることなく、編集部で企画どまりになってしまうほどまでに落ちぶれていた。
「いつか、いつか必ずまた私の時代が来るはずだ。人間の本質は、変わらないのだから」
 どうしても私は、一世を風靡したという見栄と矜持を捨てることが出来なかった。
 そして、世間がイメージするような成功者として振舞い、派手な外車にのり日々深夜の街で豪遊を繰り返した。私はかつての売れっ子作家だった自身の影を、追い求めていた。
 どうかしていたと思う。
 あるいは私は、絶頂期と変わらぬ生活の中で、かつての自分の輝きを取り戻そうとしていたのかもしれない。
「過去の栄光、か」
 そんな生活のなかで、私の蓄えはあっという間に借金へと姿を変えた。
 売れない焦りと借金苦の重圧が、筆を更に鈍らせていく。いつの間にか、私はどうしようもない負のループに転がりおちていった。

「失礼します、松本葉造先生はいらっしゃいますか?」
 ある日、私の家をひとりの女性が訪ねてきた。
 真っ黒な細身のジャケットに長い銀髪が輝くようになびいている。
 唇は薄く、まだあどけない少女のような雰囲気すらただよわせていたが、真昼間の明かりさえ反射しない深い真っ黒な瞳はどこか大人びて見える。
 小さく開けたドアの隙間から見える女性の笑顔に、私は眉をひそめた。
 編集者が家を訪ねて来ることなど久しくなかったし、取材を受ける予定も入っていない。
 そもそも私は、雑誌などに今の住所も公表したことはなかった。
「どなた様ですか?」
 私は警戒して、ドアを半開きの状態にしたまま尋ねた。
「はじめまして、松本葉造先生。私は脇坂未明と申します。実は私、松本葉造先生の熱心なファンでして、ついここに来たいという気持ちを抑えきれず……。今、お時間よろしいでしょうか?」
 突然の訪問者に戸惑う私に、女性が身を乗り出してしゃべり始めた。
「あ、いけない。私としたことが名刺も出さずに……大変失礼いたしました。改めまして、脇坂と申します」
 押し付けるように差し出された名刺には電話番号すらなく、ただ中央に『脇坂未明』とだけ記されている。非常にシンプルなものであった。これでは連絡の取りようもない。
「君が、私のファン? ずいぶん若い子に見えるけれど、信じがたいな」
「そうです、ファンなのです。松本先生の作品の登場人物は、まるで本当に生きているようです。彼らの呼吸ひとつひとつが伝わってくるような文章たちに、私はいたく感動いたしました。先生の描かれる若者の行き違う思いや届かない言葉は、スマートフォンや携帯電話、インターネットが普及した今でこそ輝いております。無機質になりつつある今の時代にも、いいえ今の時代だからこそ、存分に通じるものがあるのです」
「……そりゃあ、どうも。世間はそうは思っていないみたいだがね」
 深いため息をついた私を無視するように、脇坂という女はさらに身を乗り出した。
「今日はぜひ、尊敬する松本葉造先生の仕事場を拝見し、ご迷惑でなければ、直接先生のサインなどを頂戴できればと思いまして」
「そんなことを突然言われても迷惑だ。ファンだと言ってくれたことは嬉しいが、悪いが今日のところは帰ってくれ」
 ドアを閉めようとした私を制するように、脇坂が声のトーンを落としてささやいた。
「もちろん、いきなりのご訪問でしたから。こちらもタダで見学やサインをお願いしようとは思っておりません。御無礼は百も承知ですので、それ相応のお代は――」
 脇坂は左手にもったビジネスバッグを持ち上げて、私に見えるようにわずかに留め具をずらした。真っ黒なバッグの中から、いくつもの紙幣の束が顔をのぞかせた。ドアを閉めようとしていた私の手が思わず止まる。
「これは、どういう意味だね?」
 私は、自分の声がかすかに震えていることに気が付いた。
「書店や通信販売では手に入らない、憧れの作家先生の秘蔵のコレクション。そういうものがどうしても欲しくって。こちらを拝見して頂ければおわかりになると思いますが、先生にとっても、悪い話ではないと思います。あがってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
「それでは、お邪魔いたします」
 にっこりと微笑んだ脇坂が、私が固まったままのドアの隙間からするりと身を滑り込ませるようにして上がりこんでくる。
 脇坂はそのまま廊下を進んでいく。慌ててそのあとを追った。ずいぶんと遠慮のない女である。
 散らかった書斎に入った脇坂が、両手を広げ舞うようにして感嘆の声を漏らした。
「ああ、素晴らしい。本当に素敵です。ここがあの名作たちが生まれた場所なのですか?」
「引っ越してきたのは十五年前だ。それからはずっとここで作品を書いている」
「そうなのですね。いやぁ、かつて何度も小説で読み、ドラマを見て、映画に感動し涙しました。今は幻となっているあの作品たちがここで……。はあぁ、夢のようですね。ここは宝の山だ」
 感に堪えないと言った表情の脇坂。
 しかし私にとってはそれは考えすぎかもしれないが、今となっては廃れてしまった自分の作品たちのふさがることのない傷口に無遠慮にふれられたようでもあった。
「残念ながら、今じゃあただのガラクタの山だよ」
 自嘲的な気持ちになって、投げやりに言う。
「そんなことはございません」
 振り返った脇坂が、口の端を吊り上げた不気味な笑顔のまま私の顔をのぞき込んだ。
「先生の作品はほんの少し生まれ変わるだけで、今の時代でも十分、いいや十二分に……。違う、なんて言えばいいんだろう。最前線で活躍出来るドラマティックな作品ばかりです。先生は何も間違っておりません。きっと編集者が愚かなんでしょう。先生の良さに気付きもしないで、素晴らしい作品たちを眠らせてしまっている」
 脇坂は喋っている間、まばたきを全くしなかった。私は気圧されるような気持ちになって、彼女から顔を背けた。
「君はずいぶんと私の作品を評価してくれているようだが……。認めたくはないけれど、私の書くものは今の時代と合わないのだろう」
「そんなことはございませんわ。なぜなら時代が変わっても、人間の根本は変わりませんもの。等しく無能で、等しく愚かだ。先生はそれをよくご存知のはずでしょう?」
「無能で愚かだからこそ、切ないんじゃないかね」
「まさに」
 私の言葉に、脇坂は何度も頷きながら私の両手を強く握った。
 脇坂の手はまるで体温というものが存在しないかのような冷え切っていて、手のひらを押し付けられた私はその冷たさに全身がぶるりと震える。
「やはり先生は私が思った通りの人です。最高です、あなたのファンで良かった。こんなに幸せなことはありません。ああ、なんて素晴らしい。無能で愚かで、だからこそ切ない。先生のおっしゃる通りです。まさに、まさに」
「それで、脇坂さんと言ったか。君は何が欲しいんだ、サインか?」
 興奮気味の脇坂の様子に不気味なものを感じ始めた私が、話題を先に進めた。
 女性は「そうでした」と言って微笑み、さきほどとは打って変わって書斎を物色するように静かにゆっくりと歩く。規則的な足音が、二人きりの書斎にリズムを刻む。
 やがて、脇坂はひとつの本棚の前で足を止めた。
 私の書斎の一番奥、最も古い本棚の前である。
「ああ、これがいい。これこそ私の探し求めていたものです」
 脇坂が本棚に手を伸ばしかけ、気づいたように私の方へ視線を向けた。
 私が小さく首を動かすと、にやりと笑って再び手を本棚に伸ばす。そして、ホコリを被ったノートの束を、丁寧に取り出した。
 その瞬間、胸の奥がわずかにチクリと疼いた。胸のなかに小さな傷が痛むような、かさぶたに触れられるむずがゆさと痛痒のような感覚がでうごめいている。
「松本先生、もしよろしければ、このノートたちを頂きたいのですが?」
「君は、どうしてこんなものを? ただの古びた取材ノートじゃないか」
「これが、欲しいのです。お譲り頂けますか?」
 つかの間、私は逡巡した。
 今脇坂が手にしているノートたちは、私が小説を書き始めたころに取材に奔走しあらゆることを書き留めたものである。
 若いころ、何度も何度も書き直して読み返してを繰り返しており、その内容はすでにノートをわざわざ見なくてもそらんじていた。
 しかし、あのノートたちはいわば私の創作の原点なのだ。
「このノートたちを……」
 脇坂は、これが欲しいという。しかし、私の作家としての出発点とも言えるそれを、誰かに渡してしまっていいのだろうか。目の前で、脇坂がノートをテーブルに置きビジネスバッグを開いた。
「松本先生の大ファンである私にとって、この取材ノートはとてもとても価値のあるものです。ほかの何ものにも代えがたいですわ。ぜひ私にお譲りください。ああ、いくら出せば足りるでしょうか。どうしましょう、あまりに素敵すぎて、私には見当もつきません」
「このノートたちに、値段など……」
 うろたえる私を上目遣いで見上げて、脇坂がニタリとほほ笑んだ。
「一体、いくら詰めば足りるでしょうか、松本先生」
 耳に絡みつくような甘ったるい声でそう言いながら、脇坂は紙幣の束を二つ三つと積み重ねていく。八つ目の束をテーブルに置き、脇坂が再び私の顔をのぞき込んだ。
「一冊、百万円。松本先生直筆の貴重なノートです。安すぎるくらいではありますが……。いかがでしょうか?」
 私は突然の提案に混乱する頭で、なんとか思考した。
 八百万円もあれば、借金の全額を返すことは出来なくても、数か月分は前倒しで返済することが可能だ。
 そうすれば、しばらくの間は借金のことは頭の隅に追いやって執筆に集中できる。
 脇坂が言うように、もしも今もなお自分のセンスが通用するのであれば、その数か月で大作を書きあげればいい。
 今ならば、無用な意地もはらないで執筆が出来るのではないだろうか。
 時代が変わった事を認め、原点であるノートたちを手放す。
 これも自分の殻を破るために必要な変化なのかもしれない。私は、冷たい汗が流れる顔で脇坂の顔とノート、そしてテーブルに置かれた札束を何度も見比べ――そして頷いた。
「わかった。このノートたちを、君に譲ろう……」
「本当ですか。嬉しいです、先生。そうだ、記念にこのノートに、ぜひ先生の直筆のサインも頂けましたらと思うのですが」
 そう言って、女性が一番上に置かれたノートのホコリを払った。
 私の胸の奥が、再びチクリと疼く。痛みが、より鮮明になった。
 ざわつく胸の内をなんとか押さえつけ、震える手で女性が差し出したサインペンを受け取る。かつて手が真っ黒になるまで取材内容を書きこんだノートの表紙に、震える手でペンを走らせる。
「サインをするのも、いつぶりだろうな……」
 自嘲的な気持ち。数年ぶりのサインは、胸の痛みのせいかひどく字が歪に曲がっていた。
「ありがとうございます、松本先生。憧れ続けた先生直筆のサイン入りノート。大切にいたします。それでは、私はこれで。今後のご活躍を影ながら応援しております」
「ああ。こちらこそ、ありがとう……」
 脇坂の足音が遠ざかり、玄関のドアの閉まる音がした。
 誰もいなくなった部屋の片隅で、私は座りこんで小さく呻いた。
 これで数か月の生活は保証されるだろう。金銭の苦しみからも、解放されるのだ。そうすれば、新作だって書けるに違いない。いきなりの申し出であったが、自分にとっても今の取引は良いことづくめのはずだ。
「これでいい。これでいいんだ。そうだ、間違っていない。これでいいんだ」
 繰り返し自分にそう言い聞かせても、胸の奥の痛みとざわめきが収まることはなかった。
 汗の雫が、ほこりまみれの床に黒いシミを作りだしていた。

 翌日、目覚めるとひとつ伸びをしてベッドから抜け出し、カーテンを開き陽射しを浴びながら朝食をとった。
 金銭が与えてくれる安心感は大きく、私は軽快な気持ちでパソコンを立ち上げた。
 まずは手始めに短い物語でも書いてみようと、メモ書きを見ながらパソコンのキーボードに指を置く。しかし――。
「むっ……おかしいな。ぜんぜん捗らない、なんでこんなに筆がのらない?」
 言葉がまるで出てこないのだ。
 昨日までは順調とは言えないまでもなんとか紡げていた物語たちが、今ではまったく動く出さない。
 書き出しはどうするのか。どんな人物を書くのか、どんな思いを物語に託すのか。
 何ひとつとして、頭のなかに沸きあがってこないのだ。
「いや、ときにはこんな日もあるか」
 大きくため息をつき、デスクから腰をあげた。
 しかたのないことなのかもしれない。どんな作家にだって、スランプはあるものだ。
 いや、前に進んでいるからこそ、スランプにぶつかるとも言えるのだ。そう自分に言い聞かせて、ヒゲを剃り顔を洗った。
「良い天気じゃないか、ちょっと気分転換に家のまわりを散歩してみるか」
 お気に入りのジャケットを羽織って、軽い気持ちで外に散歩に出掛けた。
 春の陽射しは心地よく、散歩にはうってつけの快晴だ。良い外出日和である、
 それでも私の気持ちの奥底は、どうにも晴れることがない。
 何かが欠けている、なんとなくそう感じた。
「お金もある、天気が良くて気持ちいい。書き物仕事だってこれからどうにかなる。何も心配いらないじゃないか。それなのに、なんだっていうんだ。」
 自分で自分に言い聞かせる。いったい何が足りないというのか。
 その何かを懸命に手繰り寄せようと思考を巡らせても、結局答えは見つからないまま時間だけが過ぎていく。
 そして、私のスランプは長期的なものになっていった、
 週が一周回っても、月が変わっても、相変わらず私の執筆が出来ない日々が続いた。いや、それどころか、書けないという気持ちはどんどん悪化していった。
 どんなに作業机のうえで粘ってみても、何ひとつ言葉が出てこないのである。
「なぜ、どうしてこんなことになってしまったんだ……」
 言葉が出てこない、などということがあるのか。
 しかし実際に、キーボードを叩く指は文字を打ち込んでは、これではないとバックスペースでその文字を消していくばかりである。
 作中の人物に、まるっきり命が宿らない。かけらも心がこもらない。
 老いも若きも男も女も、動物や植物さえも何もかもが無機質で、それでも経験やテクニックで無理やり書きだした文章はまるで新聞記事のように淡々としたものであった。
 その文章からは、かつてヒューマンドラマの第一人者と呼ばれた松本葉造という作家の、人間味あふれる感性や描写の面影はどこにも見られない。
 私はどうしてしまったのか。冷や汗を流しながら机にもたれかかる。
「なぜだ、どうして書けない?」
 借金の重圧から一時的に解放され、むしろ気が抜けてしまったのか。しかし、すでに一か月という時間を無為に過ごしてしまっている。
 借金そのものが消え失せたわけではない。リミットは、刻一刻と迫っているのだ。
 新作を作り上げ、それによって利益を生み出さねばならない。
 焦る気持ちは、間違いなくある。
 それでも、文章を書こうと思うと言葉が出てこなかった。
 私のなかにある物語を作り出す細胞が、まるでどこかへいってしまったかのようであった。
「くそっ、なんだっていうんだ! ……そうだ、俺の昔の映画でも見て、気持ちを変えれば書けるはずだ。思い出せ、あのころを思い出すんだ」
 リモコンを取り、テレビのスイッチをつける。
 私にとってはあまりにもどうでもいい、くだらないワイドショーが流れ始めた。
 それでも古臭いビデオを巻き戻す間、なんとなく画面を見てしまう。
 リポーターが作家にインタビューを試みる企画のようだ。私は舌打ちをして、外部接続モードに切り替えようと指を動かす。その指が、テレビから流れてきた声で止まった。
『それではここで、松本葉造先生の再来と呼ばれている作家を紹介したいと思います』
 久しくテレビで聞くことのなかった自分の名前を耳にして、私は顔をあげた。テレビ画面には、見覚えのある不気味な笑顔が映し出されていた。
『ご紹介いたします、第二の松本葉造、令和の松本と呼ばれデビューを果たした新進気鋭の作家、西坂未明先生です!』
「なっ!?」
 テレビの向こうには、あの女がいた。
 一か月前、私からノートを買い取った脇坂とか名乗った女である。帽子を目深に被りサングラスをつけていたが、あの特徴的な銀髪と口が裂けるような微笑みは、おそらく間違えないであろう。
「そんな、バカな……」
 レポーターは西坂未明がいかにして情報過多の現代社会で、虚しくすれ違う男女の切ない恋愛を表現していったのかを延々と語り続けている。その手法は、どれもこれも私が得意とした作風そのものであった。
 あの女はたしかあの日、脇坂未明と名乗っていた。
 そして今、まるで私を嘲笑うかのように西坂未明という見え見えの偽名をペンネームとして使い、テレビの前で訳知り顔でしゃべっている。
「あいつ、まさかあのノートから盗作を!」
 怒りに震える頭のなかで、私は考えた。
 例えあの女が上手く私から買い取ったノートの内容を使って作品を書きあげたとしても、せいぜい一、二作が限界のはずである。
 ノートの内容を思い返しても、そう何度も繰り返し使えるようなものではない。
 ならばあの女、脇坂未明の創作が行き詰まった時こそ自分が再び文壇に返り咲く好機なのではないか。
 悔しい思いはどうしようもなくあるが、あの女が第二の松本葉造と言われ世間で評判を呼べば、自然と第一人者である自分とその作品への注目も高まるはずだ。
 気に入らないという思いは語りつくせないほどあるが、これはチャンスなのである。
 いまいましい気持ちを抑えテレビを消した。
「あの女、ファンだとか名乗ってまんまとやってくれたな。今に見ていろよ」
 今こそ、大作を完成させて発表する時なのだ。
 例え偽者が出てきたせいとはいえ、メディアに再び自分の名前が注目されているのだ。松本葉造の名が活きるときが来たのである。これは、好機だ。
 私は闘志を燃やしキーボードを叩き始めた。

 あの放送を見た日から、二か月の時が過ぎた。
 私はパソコンを置いた机の前で憔悴しきっていた。
 書けないのだ。どうやっても、どれほどあがいても、なにも書けない。
 胸の内から出てくる言葉には色彩がなく、連なる文章は教科書や参考書を彷彿とさせる固いだけの物語になり果てる。登場人物には血が通っているとは到底思えない。
「なにがどうなったって言うんだ。俺が何十年、物語を書いてきたと思っている。なぜだ、なぜいきなり俺は書けなくなったのだ……」
 悔しさと情けなさと絶望感で、目の前の画面がにじんで見える。
 テレビをつけることは、一か月前から自分に禁じていた。
 いやでも、話題の作家となった西坂未明の情報を見かけてしまうからである。それほどに、あの女は売れ続けていた。
 取材や調べ物をしに外に出る気力さえ失った私は、ここ数日資料を求めて皮肉にも自分の作品を廃らせた一因であるインターネットに接続する機会が増えた。
 情報化社会に置いていかれた自分が何をしているのかと自嘲してみたところで、その嗤いすら今はもう枯れきっている。電子の情報に触れることは、藁にも縋る思いどころか、まるでかつての敵に謝罪するような思いであった。
「私が、私の作品を潰す一端を担ったネットに頼ろうとはな……。なっ!?」
 情けなさに憔悴した笑みが浮かぶ。
 しかし、そこで私は見つけてしまった。
 ヒューマンドラマの第一人者、西坂未明という文字を。
 息が詰まる。うまく呼吸ができない。
 震える手でマウスを操作して、慣れないインターネットの情報を辿っていく。
 そうしてネットのなかに私の、松本葉造の名を探し求めた。
 だが世間はこの三か月の間に西坂未明そのものを知り、松本葉造という作家を忘れ去っていた。ヒューマンドラマの第一人者、松本葉造などというフレーズは、もはやどこにも見当たらない。
 すべては、新進気鋭の作家『西坂未明』に上書きされているのだ。
「嘘だろう、あんな女に……。くそぉ!」
 たまらず、私は外に駆け出した。全身が怒りで焼けるように熱かった。
 怒り心頭のまま書店を回り、さらにはコンビニの書籍コーナーの隅々までを調べた。どこに行っても、文芸誌や芸能雑誌の表紙には西坂未明の名が掲げられている。
 そして、松本葉造の文字は、どこを探しても存在しなかった。
 映画化、ドラマ化、マンガ化、度重なる重版決定……。
「これは、かつての私そのものではないか……!」
 売れっ子時代私が歩いてきた栄光の道を、今あの女がそのまま闊歩している。気が付けば私は、コンビニの片隅で、西坂未明を絶賛する週刊誌を握りつぶしていた。
「お客様、あの、そちらお買い上げ頂けるのでしょうか?」
「だまれ! こんなものを買えるか!」
 叫んで、店を飛び出した。
 世の中にあふれる西坂未明の文字から逃げ出すようにして帰った私の家の門前に、ひとつの人影があった。
「やあどうも。松本先生、お久しぶりです」
「お前は!」
 そこには、あの女が立っていた。
 脇坂未明は、三か月前と変わらぬ不気味な笑みをたたえて、玄関の間で私の顔をじぃっと見つめている。
「いやぁ、どうしても松本先生にもう一度お会いしたくて、ここでお帰りを待っていました。あがってもよろしいでしょうか?」
「俺もお前に話がしたいと思っていたところだ、来い!」
「それでは、遠慮なく」
 書斎に入った脇坂は、あの時と同じように手を広げうっとりと書斎を見渡した。私は、そんな脇坂に怒りで顔を赤くして掴みかかる。
「何が尊敬する先生のノートだ! お前は俺の取材ノートを狙って、アイデアを奪うために来たんだな!」
「何をおっしゃっているのですか、先生。私は松本先生の熱心なファンですよ、今でもね」
 顔色ひとつ変えず言う脇坂に、私はカッとなるものを感じた。
「ふざけるな! あのノートを今すぐ返せ!」
「返せと言われましても、あれはきちんとお金を支払ってお買い上げしたはずですが……。尊敬する先生がそこまで言うのであれば、まあいいでしょう」
 そういうと、脇坂は静かにバッグを開きあのときのノートを全て取り出した。三か月前と同じように、そのノートをテーブルに並べていく。
「確かに、お返ししましたよ」
「いいように使ってくれやがって……。金を返せなんて言いださないだろうな?」
「くふっ、まさか」
 空気を吐き出すように低い声で笑って、脇坂がノートに手を置いた。
「もう、私が欲しくて欲しくて仕方のなかった物は買わせて頂きましたので」
「そんなノート数冊の内容だけで、いつまでも作家として成功が続くと思うなよ。偽者め」
「ふふふっ、松本先生は誤解していらっしゃる」
 脇坂は、薄い唇をゆがめて歌うように言葉を続けた。
「私が買ったのは、このノートに込められた若き日の松本先生の『心』ですよ」
「心だと? わけのわからないことを言うな」
「わからない? 先生、それは嘘ですね。先生だって本当は気づいていたのでしょう。私がこのノートを最初に手に取った時、ホコリを払いテーブルに乗せた時、サインを求め差し出した時……。松本先生は何かを感じたはずでしょう?」
「……っ」
 思いがけない問いかけをされ、私は言葉に詰まった。
「胸の奥が痛んだでしょう。心の底が震えたのでしょう。それでも、あなたは売ってしまった。自分の創作の心を、その情熱を。目の前の小銭に目がくらみ、作家としての矜持も志も全てを売り払ってしまったんだ」
「たかがノート数冊で、お前は何を言っている!」
「ええ、たかがノートです。私にとってはね。でも、松本先生にとっては違ったはずです。思いをこめた、駆け出しのころから使っていた創作の原点であり魂だった。その証拠に……あれから何か作品は書けましたか?」
「それは……」
 いつの間にか、額から大粒の汗が流れ落ちた。全身が不快に汗ばんでいる。喉がひりつく。呼吸が浅くなった私に、脇坂がハンカチを差し出した。
「松本先生、ファンとしてご忠告いたしますわ。もうあなたに生きた小説は書けない、永遠にね。転職をオススメしますよ」
 ハンカチを受け取らない私の上着の胸ポケットに無理やりハンカチを押し込むと、脇坂は躍るようにゆっくりと歩きだした。
 書斎を出ていこうとする脇坂の後を、私は慌てて追いかけた。
「おい、待て!」
「……失望しましたよ。先生なら、絶対に手放さないと思ったのに。さようなら」
「手放さない! こうなるとわかっていたら、私は! お願いだ、待ってくれ!」
 足音が遠ざかる。
 玄関ドアが開き、陽光が差し込んでくる。
 黒いシルエットとなった脇坂が消え、ドアが閉まった。周囲は暗闇に包まれた。
 書斎に、静寂が訪れる。
 私は脇坂が置いていったノートを手に取り、ページをめくった。
「私のノート、私の原点、私の思い、私の、魂……」
 若き日の自分自身が必死になって書いた文字が、今はまるで他人の書いたもののようにみえる。いくら読んでも、何も思い出せなかった。どんな感慨も呼び起こされない。
 なぜ、どうしてだ。
 なんで私は、これを売り払うなんてことをしてしまったのか。
 胸のなかに、ぽっかりと穴があいている。
 この穴は、もう決して埋まることはないのだろう。
 悲しみさえも沸きだしてこない胸の奥が、どうしようもなく虚しかった。
「なくしてしまった……」
 涙さえ出てこない瞳で、見知ったはずの見知らぬノートを読み続けていた。
 ふらふらと立ち上がる。今の自分に何が出来るのだろうか。パソコンに向かい、背を丸めて力なくキーボードに指を走らせた。
「私は、どこだ。どこにいるんだ……。どこだ、どこにいる……私の、物語を……」
 なんとかして自分を見つけ出そうと、一心不乱に自らが歩んだ人生の軌跡を描く。
 私が綴る松本葉造が生きてきた物語は、まるで新聞記事のように味気がなく、歴史書のように飾り気のない言葉が並べ立てられている。
 それはもう、物語と呼べるものでさえなかった。
 松本葉造、かつてヒューマンドラマを書かせたら右に出るものがいないと言われた作家。
 私の歩んだ、作家人生三十数年の『記録』であった。

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