ドナーの記憶

「上田さん、上田さん――」
 覆いかぶさるような黒い影の向こう側から耳に、いや脳に直接入り込んで来るような不気味な甘い声。
 寝たきりの私の枕元に立つ、全身黒づくめの銀髪の女性。その瞳は墨汁を流し込んだように真っ暗で何も映し出さない。
 手足が異常に長く、全身は折れそうなほどに細かった。
 闇夜のように真っ黒で美しく、怪しげな雰囲気をまとった女がそっと寝たきりの私の顔をのぞき込む。華やかなかおりは、なぜか私に献花を連想させる。
 とうとうお迎えがやってきたのだろうか。
 声すら自由に出すことのできない口で、寝たきりの私は必死にあえいでいた。
 ゆっくりと、意識が自分の奥深くへと沈んでいった――。

 カーテンで閉め切られた薄暗い部屋に、いくつもの規則的な機械の音が響く。
 私は人工呼吸器をつけて仰向けに寝かされたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
 もう何度も見慣れた、薄ら寒い白色に染められた部屋。
 清潔感をイメージしたいのか、病室のなかは壁も床も天井に至るまで、白一色だった。
 ため息すら自由につくことが出来ない私の胸の上で、大きなペースメーカーが正確なリズムを刻んでいる。
 重度の心不全を患った私の心臓は、すでに治療手段を失っていた。今、なんとか機械の力で脈打っているこの心臓は、もはや治る見込みのないものなのだ。
 延命治療は虚しく、そして途方のないものであった。
 私の命が助かる唯一の方法は、心臓の移植手術を受けることである。
 しかし、臓器移植とは受けますという意思を示せば簡単に移植を受けられるものではない。臓器を提供してくれる誰かがいなければ、成り立たない治療法なのである。
 移植希望者(レシピエント)ととして登録して数か月、未だに私への臓器提供者(ドナー)は現れていない。
 ――もはやこれまでか。
 五十代に差し掛かった今、私はとある大企業の取締役を務めていた。
 必死に生きて全力で働いて、前だけを向いて走り抜いてきた人生。
 欲しいものは全て手に入れてきた。世に言う『勝ち組』を地で行くような人生であった。その勝ち続けた旅路の終わりが、どうしても手に入らないものによる終焉だとはあまりにも皮肉である。心の中に、自分ではどうしようもない暗い絶望があった。
 希望という光に全身を包まれていると信じていた若かりし日には、気付くことさえなかった闇。それは自らの死病という、まさに自身の暗い影そのものであった。
 必死に駆け抜けて、振り返ることさえしてこなかった生き方のなか次第にその影は大きさを増していき、自分さえも飲み込んでしまうのか。
 光が強ければ強いほど、影も闇も強くなる。
 そんなことは、言葉遊びに過ぎないと思っていた。この病室で、寝たきりになるまでは。
 心身を蝕む絶望のなかで、私にはどうしても歯がゆい思いがあった。
 もしも自分がもっと自由に動けたら、私自身に必要な心臓だってこの手に入れられた。
 自分はそうやって欲しいものを我が手で掴んで生きてきたはずだ。それなのに。
 歯を食いしばって悔しさに身震いした瞬間、その声が私の耳元から脳まで響いた。
「上田さん、上田さん――」
「だ、れだ……」
 人工呼吸器が邪魔で、満足にしゃべることさえ出来ない。
 声の聞こえた左耳のほうに目を向けると、ベッドの影から黒い何かがゆっくりと膨れ上がってくる。
 まるで、影が生えてきたかのような光景であった。
 伸びてきた影が、じぃっと私をのぞき込むようにかがんだ。
 異様な訪問者に私は目を見開く。うめき声は、音にすらならなかった。
 黒いハットに黒いジャケット。その下には真っ黒なタートルネックの服を着ている。かすかに見えるズボンも黒の、全身黒づくめの女だ。
 長く光を放つような銀髪と病室の白さの中でも際立つほどの青白い顔。
 何よりも息を飲んだのが、女の吸い込まれそうな真っ黒な目であった。
 墨汁を満たしたような黒目はいっさいの光も映し出さぬ深淵である。
 ひとたびそこに転げ落ちてしまえば二度と這い上がることの出来ないような闇。
 まるで死神のような出で立ちの美しい女に、私は全身をかすかに震わせた。
「突然の訪問、大変失礼いたしました。上田さんがひどく苦しんでいるように思えましたもので。わたくしは、あなた様の声無き声に導かれて、ついつい足がこちらに伸びてしまったのですよ」
 そう言った女の薄い唇が、ぱっくりと裂けるように両側へ吊り上がった。
「ああ、申し遅れました。私、脇坂未明(わきさか みめい)と申します。趣味が高じて世界中の様々なものを取り扱っておりまして、ハイ」
 脇坂と名乗った女が慇懃に一礼すると、再び身を乗り出して私を見下ろした。
 そのまま手にした名刺を私に握らせる。なんとか動く目でそれを確認すると、名刺には脇坂の名前以外、連絡先や住所など何も記されていなかった。
 それにしても、この脇坂という女はどこか怪しい。少女のようなあどけない姿のなかに、ふと身構えたくなるような不気味さを纏わせた女だ。
 ――あんたなんて知らん、何者だ。こんな病室まで押し売りか。
 突然の異形の訪問者に怒鳴りつけてやりたかったが、私の声はかすれ言葉にさえならない。それでも言葉が届いたのか、意図することを察したのか、脇坂が大きく首を振った。
「いやだなぁ、押し売りだなんてとんでもありません。私はただ、心から上田さんをお助けしたいのですよ」
『私を助けるだと? お前に何が出来る?』
 心のなかで叫んだ。すると驚いたことに、脇坂はその問いかけに応えたのだ。
「私なら、あなたにもっとも必要なものをすぐに用意することが出来ます。あなたが望めば、あなたが今一番渇望しているモノを、たちどころに準備することが出来る。そういうことです」
 発声すらままならないはずの私の声を拾い、その言葉に答える脇坂。
 彼女が私の胸の上に置かれたペースメーカーに指先を伸ばす。
『必要なものを用意するだと? 簡単に言うな。もう何ヶ月、臓器移植のドナーが現れるのを待っていると思っている?』
「いやいやいやいや、臓器移植というのは難しいものですよねぇ。ただ人間が死ねばそれを使っていいというわけでもない。損傷が激しければ使えない。ドナーとして生前の同意がなければ、使えるものでも捨ててしまうだけ。いやはや、これはなかなか手に入らないでしょうね」
 ペースメーカーのうえで脇坂の白魚のような指が躍る。
 苛立ちを覚え、私は右腕をナースコールのボタンに伸ばした。
『冷やかしならいいかげんに帰ってくれ。じゃないと看護師を呼ぶぞ』
「ああーっと、それは困ります。それに、上田さんもよろしいんですか? 臓器移植に必要なのでしょう、『生きた心臓』が。上田さんに必要な心臓、私ならあっという間にご用意出来ますよ。なぁに、ご心配はいりません。拒絶反応もなく、ピッタリと適合することでしょう。まさに、あなたのためだけの心臓です」
 天井を見上げ、大げさに歌うように言った脇坂が人差し指をさしあげた。
「ただひとつ、上田さんが新しい心臓を手に入れるお手伝いさえしてくれれば、それですぐにでも貴方様の心臓を準備をしてご覧にいれましょう」
『あっという間にだと!? そんなバカな』
 自分に適合する心臓が手に入る。
 私にとってはこれ以上ない申し出である。
 しかし、まさか心臓ひとつをただで差し上げますなどと言う話はないはずだ。この脇坂という訳の分からない気味の悪い女は、一体何を企んでいるのだろうか。
「色々と疑問に思うこともおありでしょう。納得の出来ないことばかりで混乱なさっているでしょう。でもいいんですか? このチャンスを逃せば、あなたの残りの一生は薄ら寒い病室のベッドのうえで終わってしまう」
 私の疑いを読み取ったように、脇坂が落ち着いた声でささやいた。
「あなたは今大切な選択を迫られているのです。私の言う通りに動き、自ら生きた心臓を手に入れ移植手術を受けて生きていくか。それとも、このまま現れることのないドナーを待ち続けて、この狭い部屋のベッドで無念のまま息絶えるか」
 心臓を手に入れることが出来る――。
 それは願ってもないことであった。脇坂と名乗るこの女は決して信用出来ない。しかし彼女の言う通り、このままではただベッドのうえで弱っていくだけではないか。
 もしも万が一、脇坂が術後に法外な大金を要求してこようと、私の会社ならばどうにでも出来る。一縷の望みがあるのであれば、今はそれに賭けるべきではないのか。
『分かった。あんたの言う通りにしよう。私は心臓を手に入れて、一刻も早く移植手術を受けたいんだ』
「くっふふふふふ……。そうでしょうそうでしょう、そうこなくては! そうです上田さん、今のあなたには新しい心臓が必要でしょう! ああ、貴方が勇気ある選択を出来るひとで良かった!」
 脇坂は感に堪えないをいった声で、手を全身にはい回るようにせわしなく動かし恍惚とした表情を浮かべている。
 くふ、くふっ、と空気の漏れる音が続いた。
 どうやら脇坂が笑っているらしい。
 この女はどこかおかしいのではないか、という予感は脇坂がとつぜん取り出した注射器と小瓶によって大きな不安へと変わった。
「おおっと、心配はご無用です。これから、上田さんが少しの間動けるように特製の薬を注射するだけでございますから」
『薬だと? そんなものですぐに動けるようになるなら、私の身体はとっくの昔に回復しているはずだ』
「この薬はあくまで、『上田さんを一定の時間、人工呼吸器などの器具がなくても動けるようにする薬』です。治療を目的としたものではありません。むしろ心臓には負担がかかり、効果が消えればさらに心臓病の症状が悪化することでしょう」
『悪化するだと。なぜそんなものを……』
「くふっ、いいじゃないですか。どうせ数日中には捨てる壊れた心臓なのですから」
 捨てる心臓。
 言われてみれば確かにその通りである。
 新しい心臓さえ手に入れば、今胸の中でろくに機能していないこの臓器とはお別れだ。
 しかし、それでもやはり拭いきれない恐怖があった。
 唾を飲み込み、私は脇坂にゆっくりと頷いた。
 これもすべて、自分の手で新しい心臓を手に入れるためだ。
「念のため、薬の説明もしておきましょう。この注射の主な成分はシルデナフィルという薬品で、本来ならば経口で摂取するものです。世間的にはバイアグラの主成分といえばわかりやすいですかね」
『バイアグラの成分だと、ふざけているのか!? そんなもので、一時的にでも心臓がまともに動くようになるものか!』
「いやいや、このシルデナフィルという薬は様々な分野で研究が進んでいる薬品なんですよ。薬物の原理は脳を介した血管の拡張の促進と血液の循環作用にあります。慢性心不全などの治療としては現段階でもすでに注目されているのですよ。もっとも、上田さんの心臓はすでに末期。この注射で無理やり血液の循環を促したところで治療効果は望めません。あくまで、短い時間動けるようになるための苦し紛れの処置と心得てください」
 そう告げた脇坂が、私の左腕めがけてゆっくりと注射器を下ろしていく。針が腕にたどり着くまでの時間さえ楽しむように、顔には不気味な笑みが浮かんでいた。
 やがて、腕にちくりとかすかな痛痒を感じた。
 少しずつ、薬液が腕に注入されていく。
 すべての液体を注ぎ終えると、脇坂が注射器をしまい笑顔でこちらを見つめた。
「いかがですか、上田さん」
 ゆっくりと、全身に何かが行きわたっていくように感じられる。
 ひどい肩こりをマッサージ師にほぐしてもらったあとのような、心地よい熱感が身体中を駆け巡っていく。
「これは……」
 知らず知らずのうちに、声が漏れていた。
 息が、出来る。
 私は恐る恐る呼吸器を外し、大きく深呼吸した。
 血液が活発に動き回っている感覚はどこか高揚感があり落ち着かない。だが確かに今、自分の心臓はきちんと身体に血液を送り出しているようである。
「さて、薬の効果はバッチリのようですね。それではあまり時間がありません、さっそく準備して上田さんの新しい心臓を手に入れに行きましょう」
 脇坂は手慣れた様子で私の身体につけられていた機器や点滴の管を外し、私を促した。
 確か、着替えが引き出しの一番下に入っていたはずだ。すぐに病院のパジャマを脱いで私服に着替えると、脇坂はその様子を見て嬉しそうにうなずいた。
「では、参りましょう。あなたのための心臓は、すでにご用意してありますので」
 ベージュ色の廊下に出ると脇坂を前にして、隠れるようにナースステーションを通過する。勤務に忙しい看護師たちが私の脱走に気付いた様子はない。
 エレベーターで一階まで出て、一般外来の入り口から堂々と表に出る。
 大通りまでたどり着くと、私は大きく手を広げ深呼吸をした。
「ああ、いつぶりだろう。自分の意志でこんなふうに呼吸出来るなんて」
「新しい心臓が手に入れば、いくらでも呼吸なんてできますよ。ささっ、こちらです」
 脇坂はほとんど足を動かしていないように見える。まるで地面のうえを滑っているかのようだ。それでも彼女の歩く速さはかなりのもので、長い間寝たきりであった私はついていくことがやっとのペースである。
 病院横の三車線道路から一本細い道へ、もう一本細い道へと曲がっていき、数分も歩くといつの間にか道は人ひとりなんとか通れる程度の狭さになっていた。
 周囲をコンクリートの壁が覆い、舗装すらされていない道には雑草が生い茂っている。
「こちらになります」
 脇坂が足を止めたのは、なんの変哲もない一軒家の前であった。
 ふるぼけた鉄製の門扉を開くと、いやな金属音が鳴る。
 そのさきにあるのは青い屋根にグレーのペンキが塗られた家があった。
 手入れはされていないようで、ベランダは雑草が伸び放題になっている。
 脇坂が鍵を開け中に入る。
 驚いたことに彼女は靴すら脱がずにずかずかと廊下にあがりこんていった。
 躊躇したものの、私も脇坂と同じように土足のまま家の中に入ることにする。
 そして居間と思しき場所にたどり着いたとき、私は目を見開いた。
「はい、ごたいめーん! なぁんて、くふっ、少々驚かせてしまいましたかね。こちら、上田さんの新しい心臓の所有者になります」
 大きくて重そうな、一昔前前の歯医者の診療にでも使われそうな椅子に痩身の男性が腕と足を結び付けられたまま固定されていた。
 テープを貼られた口からは、言葉にならないうめき声が漏れている。
「これが、新しい心臓だと!? どういうことだ?」
「おや、おわかりになりませんか? このひとの心臓が、あなたの新しい心臓になる、ということですよ。どうです、若くて活きの良さそうな人間でしょう?」
「それは、しかし……」
 この男はどうなるのだ。
 言いかけて、言葉に詰まった。
 心臓を失って生きていられる人間など、いるわけがない。つまり脇坂は、今ここでこの男を殺そうというのだろうか。
「身長、体重は上田浩太郎さんとほぼ同じ。血液型も一致。おまけに彼はドナー登録をしておりドナーカードもここにあります。あとはほどよく締めて脳死状態にすれば、立派な臓器提供者の出来上がり、ということですよ」
「いや、しかし……。そんなことを、出来るわけが」
 ううっ、うううっ、とうめく男に視線を向けると、私の声は無意識に震えていた。
「おや、いいのですか? 再びあの寝たきりの生活に戻っても。それに、思い出してください。あなたの心臓は今注射で活性化している状態だ。効果が切れれば前よりも悪化することでしょう」
「それはわかっているが、だが」
 戸惑う私に、脇坂は一歩踏み寄ってきて言った。
「上田さん。あなたは選択したはずだ。あのまま病床に伏すことを拒み、自らの手で新たな心臓を手に入れると。そうでしょう?」
「だからといって、こんな犯罪行為が出来るわけないだろう!」
「ご安心を。そこはすべて私が上手に処理いたしますから。ですから、上田さん。あなたはなんの心配もなく、ただこの男の首を絞めるだけでいい。その手で脳の血流を止めて脳死状態に追い込んでくだされば、そのほかの面倒な手続きはすべてこちらで請け負います。じきに、病院にあなた宛てに新鮮な心臓が届きますよ。きっと、今よりずうっと元気になれるはずです。どうです、素敵でしょう?」
 目の前の男を、自分自身で絞殺する。この男の脳を殺す。
 そんなことが出来るだろうか。
 無意識のうちに腕が、そして全身が震えた。
 ――自分が助かるには、もうこの道しかないのではないだろうか。
 一向に現れないドナーを待ってベッドに縛り付けられている日々など、もうウンザリだ。
 そうだ、やるしかないんだ。
 この女、脇坂の言うとおりに。やるしかない。やるしか、ない。
 私は、選択した。
 その決断が、ゆっくりと私の身体を動かしていく。
 一歩、椅子に縛り付けられた男に近づいた。
 脇坂はその様を見て満足げに頷いた。
「やはり。あなたは私が見込んだ通りのひとです、上田さん。世の中にはこれが出来るひとと出来ないひとがいる。あなたはこちら側のひとだ、素晴らしい勇気だ。素晴らしい英断だ、最高ですよ。さあ、はじめましょうか」
 嬉しそうに微笑んだ脇坂が、椅子の横から細いロープを取り出した。そのまま、椅子に縛られた男の首にネックレスのようにロープをかける。
 縛られた男が目に涙を浮かべ、テープ越しに大きな声をあげた。
「うるさい、黙れ」
 今まで穏やかだった脇坂の声色が一変し、氷のように冷たく、重い口調になった。
 男の頭に当てられた脇坂の指先が、ぎしりと音を立てた。
 ビクンビクンと数度痙攣した男が、荒い息をつきながら涙を流している。
「さて、上田さん。つかぬことをお聞きしますが、柔道のご経験はございますか?」
「いや、ない」
「そうですか、では説明しましょう。意図的に脳死を狙うというのは、柔道で言う締め技を決めたときの状態に非常によく似ています。呼吸をつかさどる喉など首の前部には一切傷をつけず、側面を締め上げるのです。首の側面には頸動脈などの血管が集中しており、長い時間締め付ければ血液の流れもとまり、やがて脳だけが死に至ります」
 脇坂が拘束された男の首を指しながら説明を続ける。
 私はこわばった表情のまま、脇坂の話を立ち尽くして聞いていた。
「手を交錯させるようにしてロープを握り、身体を沈めながら肘を前に突き出すようにして締め上げる。これで彼の呼吸を止めることなく血流だけを止めることが出来ます。つまり、脳死死体の完成です。実際やってみると少々コツがいりますが、なぁに、私が手取り足取り教えてさしあげますから」
 魚でも絞めるような手軽さで笑う脇坂の様子に、背筋に冷たいものを感じた。
 私は差し出されたロープを震える手でつかむ。
 無機質なロープの感触が肌に触れる。このロープを、これからあの男の首に――。
 拘束された男と目が合う。
 怯えに満たされた瞳は、助けを乞うように何度もまたたかれた。
 私はロープを、ゆっくりと男の首に巻き付けていった。
 ギュア、と男がつぶされたカエルのような声をあげる。
「出来る、出来る……。私は出来る。やるんだ、それしかないんだ」
「そうです、上田さん。あなたには出来る。あなたはそれを選択できるひとだ。さあ、ゆっくりゆっくりロープを絞めていってください。いいですね、決して慌てず、手首を返すようにして、肘を前に突き出して、喉を絞めつけないように。首の両サイドの血管だけをゆっくり、確実に圧迫していくのです。なぁんにもあわてることはありませんからね……。ゆっくりと、しめあげるのです」
 存分に喜色が含まれた脇坂の声に導かれるようにして、少しずつロープにかけた手に力を加えていった。
 首の両脇を絞めあげるように圧力をかけていく。
 拘束された男は一度大きくはねるように身体を動かした後、小刻みな痙攣を繰り返している。「ケッガッ! オグッ! ウエッ!」と言葉にならない声をあげる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 私の粗い息遣いと男の喉奥から絞り出される声が、小さな居間のなかを泳いだ。
「えっ……あっ……かっ、がごっ……」
 男の声は次第に小さなものになっていった。
 絞め始めたころは紅潮していた男の顔からは徐々に血の気が失せ、蒼白な顔に変わっている。
 男の目から再び涙が零れ落ちた。
 思わず離してしまいそうな両手に力を込め、ロープをさらに男の首に食い込ませていく。
 男の頭ががくりと傾き、私の右手に乗っかるようにしてうなだれた。
「ひっ!」
「ここで手を緩めては元も子もありませんよ、上田さん。がんばってください、何も心配はいりません。首の絞め方もとってもお上手ですよ。いやぁ、まるで初めてとは思えませんね。とっても見どころがあります。これなら大して時間はかからない。ほら、あとちょっとで『終わり』です」
 頭をピクピクと動かす男を楽し気に見つめ、脇坂が絡みつくような声で私を激励した。
 蒼白な男の頭は私の手の上で、糸の切れた操り人形のようにグラグラと揺れている。口元からはよだれも流れ出していた。
 あまりの光景に折れてしまいそうになる心を必死に奮いたて、首に食い込んでいくロープの感触に耐える。
 やがて脇坂が懐からペンライトを取り出し、閉じられた男の眼球を開き光を当てた。そして数度頷くと、力を込めたままの私の両腕にそっと白く冷たい手を置いた。
「お疲れ様です、上田さん。彼は今、無事に脳死いたしました。これより私は急いでしかるべき処置をして、彼の心臓を病院へ緊急搬送します。そうじゃないと、本当に死んでしまいますからねぇ」
 くふっ、と笑いをこぼした脇坂が黒い瞳を大きく見開いて言った。
「私はどうすればいい?」
「後のことはすべてこちらにお任せください。上田さんはさきほど来た道をまっすぐに戻って病院へお帰りください。そして病室までついたら、すぐにナースコールを押してください。間もなく心臓を活性化させていた薬の効果が切れるでしょう、せっかく上田さん自らが手に入れた『生きた心臓』がきちんと移植できるように、少しの間病院で安静にしていてください」
 そういうと、脇坂が男の拘束を解き始めた。
 作業に没頭する脇坂をしり目に、私は言われた通りに病院への帰路についた。
 聞きたいことは、山ほどあった。
 しかし、心臓の薬の効果が切れるといわれてしまえば病院に戻るよりほかないのだ。
 両腕に残る、ロープで首を締め上げていく感触。
 私はいったい何をしたのだ。なんということを、してしまったのだ。
 どんなに頭から消し去ろうとしても、生々しい感覚が両手にまとわりつき、口元を封じられた男の涙がまぶたの裏に焼き付いている。
 例えそれが脳死とはいえ、私はひと一人、自分の心臓のために絞め殺したのだ。
 茫然自失したまま、フラフラと病室に戻りナースコールを押した。
 不意に胸がどうしようもなく苦しくなり、呼吸が極端に浅くなった。必死に空気を取り込もうと喉をあえいでも、全身は徐々に冷たくなっていく。
 薄れゆく視界のなかで、やってきた看護師が自分の名前を叫んでいる声を聴いた。

 意識が戻ったのは、すっかり日が暮れてからのことであった。
 時計を見る。病室に戻ってから半日ほどが過ぎていた。やはり、心臓にかなりの負担があったのだろう。胸に重苦しいものを感じる。。
 それでも、幸い一命をとりとめたらしい。
 医師と家族がそろって面会に来たのは、翌日の陽が傾き始めたころであった。
「上田さん、おめでとうございます。心臓移植のドナーが見つかりました」
 満面の笑みで言う医師、ベッドのそばでは妻と子供たちが「あなた、おめでとう!」「お父さん、良かった!」としきりに繰り返し言っていた。
 ――ああ、きっとあの男だ。あの男の心臓だ。
 まだぼんやりと霧がかかったような思考のなかで、私は直感した。
 それにしても、あの脇坂という女はいったい何者なのだろう。
 今後の手術予定の説明を聞き流しながら、私はそんなことを考えていた。手術への不安感は、なぜかまったくわかない。あの女があそこまでして、すべてを整えたのだ。
 あとはただ、移植が決行されるのを待てばいい。それだけ、手は汚した。
 その負い目のような感情もまた、手術への不安を打ち消す材料となった。ここまでして、失敗するはずがない。そんな思いに包まれている。
 そして私の心臓移植手術は翌日執行され、万事問題なく私は新しい心臓の移植を済ませたのであった。

 真っ暗な空間が広がっている。
 どこを見まわしても、あたりは暗闇につつまれていた。
 おそらく自分は眠っているのだ。
 きっと手術の麻酔が効いているのだろう、深い眠りに違いない。
 大きな椅子に腰かけるようにして、まるで重力など存在しないかのような浮遊感に包まれたまま周囲を見回した。
 何も見えないほどの深い闇。
 これが全身麻酔で見ている夢だとしたら、いまごろあの男の心臓が自分のなかに移植されているのだろうか。
 待ちに待ったドナー提供者、これから新しい日々が始まるのだ。
 それでも、私の気持ちはこの周囲の闇のごとく晴れない。
 新しい心臓を手にいれる。喜ばしいことのはずだ。
 しかし、両腕にはあの男を絞め殺した感触が今もなお消えることなく残っている。
 ふと、自分の腕をさすろうとして身体が動かせないことに気付いた。
 四肢が椅子に縛り付けられている。
 縄は頑丈で、どんなに身じろぎしても縛られた手足が自由になることはなかった。
「おい、誰かいないのか!? なんだこれは!」
 叫んでみても自分の声がむなしく反響するだけである。
 不意に、闇の奥から二本の腕が伸びてきた。その手にはロープが握られている。
 そっと、ネックレスでもかけるように、ゆっくりと私の首にロープが回された。
「お、おい! まさか、そんな……お前は……」
 ロープを握った腕が、少しずつ締め上げられていく。
「かっ……、げほっ! ごぼっ、やめ……ひっ!?」
 なんの抵抗も出来ないまま首を締め付けられる私が見たものは、ロープを握って目を血走らせたあの男の顔だった。
「なんで……!? そんな、バカな、あぐっ……」
 ゆっくり……。
 ゆっくりとロープが首に食い込んでいく。
 頭の血がカッと熱くなったかと思えば、すぅっと血の気が失せて冷たくなっていった。
 口から無意識のうちによだれが流れ出す。
 次第に、声すらあげられなくなっていく。
 あらゆる感覚が消え失せていくなかで、どうしようもなく重たくなった頭をがくりと垂らした。私の顎先に触れる冷たい腕の感触だけが、妙にリアルに感じられたのであった。

「はっ!?」
 私が目を覚ましたのは、手術を終えた数時間後のことであった。
 まだ人工呼吸器も外せない状態であったが、周囲に医師などの姿はない。点滴をされ、奥には看護師がのんびりと動いている様子が見て取れた。
「夢、か……」
 ――無事手術は成功したようだな。
 医師も不在、看護師も落ち着いたそぶりで仕事をこなしている。
 その光景を見て、ほっと胸をなでおろした。緊迫した状態にはないということだ。
 それにしてもさっきの夢はなんだったのか。
 まるで心臓を手に入れるために私がやったことを、夢の中であの男が繰り返しているようであった。信じがたいことではあるが、それは心臓を奪われたあの男が、憎い私に復讐をしているかのように思えた。
 首を締め上げられた感触を思い出しぶるりと震えると、脈拍を示す機械がピーと音を鳴らした。
 看護師がゆっくりとこちらにやってくる。
「あら、上田さんお目覚めですか。身体の調子はいかがですか? 痛むところはありますか? 移植手術は無事成功いたしましたから、安心してくださいね」
 穏やかな声で問われ、私はかすかに首を左右に振った。
 さっき見た夢のことが気になったが、とても話せる状況ではない。いや、あんなことは今生誰かに語れるようなことではなかった。
 自分の心臓を手に入れるために、自分自身の手でひとを殺したなどと――。
 あれは、墓までもっていく話というものだ。
「術後の経過も順調ですが上田さんはまだお疲れのようですから、少し眠くなるお薬入れますねー」
 わずかに、看護師が「静脈麻酔薬を……」とつぶやいた声が遠のいていき、私の意識は再び人工的な眠りに落ちていった。

 真っ暗な空間が広がっている。
 私の四肢は椅子に縛り付けられていた。
 さっき見た夢とまるで同じ光景だ。
 耳を澄ますと、カツ、カツ……と靴音がゆっくりと近づいてきた。ようやく顔が確認できる距離までやってきたその男の手には一本のロープ。
 それを手にしているのは、私自身が脳死に至らしめたあの男である。
「そんなバカな……」
 男が私の首にロープをかけ、締め上げる。
 縄が食い込む痛みも苦しさも、夢とは思えないほどのリアリティをともなっていた。
「かふっ、あ……、がっ! ぐぅ、あー!」
 身体の自由がきかない私は、ただうめき声をあげることしかできない。
 男が血走った目に狂気を浮かべてロープを締め付けてくる。
 眩暈と吐き気が同時に訪れ、喉の奥が意図せずびうびうと鳴った。
 まるで首をもぎ取られていくような苦痛に、私の意識がプツンと途切れた。

「いやだ、やめろっ!」
 ベッドから飛び起きるようにして目が覚めた。
 私は思わず自分の首筋をさすりながら、辺りを見回した。
 手術前とは違う病室だが、すでに人工呼吸器は外されている。
 呼吸も、問題なく行えていた。
 自分自身の力で呼吸が出来る。その喜びは大きかったが、先ほどの悪夢がその喜びさえ覆い隠していく。
「……今のは夢? またあの夢を見ていたのか」
 何本も身体から管が伸びているが、多少の身動きはとれる。白熱灯で照らし出された室内は妙に影を色濃く映し出し、どこか不気味であった。
「なぜ、あんな夢を繰り返し見てしまうのか……」
 リモコンでベッドの角度を調整し、身体を少し持ち上げる。
 もう一度、首に手を当てた。
 自分の選択は間違っていない。こうしなければ、私は死んでいたのだ。
 そう自分に言い聞かせ、こわばった身体を少しでもリラックスさせようともみほぐした。
 まだ全身に疲労は色濃く残っていた。
 臓器移植の手術を受けたばかりなのだから、当たり前である。
 もう少し眠るべきか、そう考えてリモコンに手を伸ばし、再びベッドを横に倒す。
 眠ることに多少の不安はあった。また、あの夢をみるのではないかと。
 しかし、あんなものは偶然に過ぎないはずだ。なぜならあの男はすでに亡く、心臓だけが私の身体で血液を送り続けているのだから。
 そもそも、そう何度も続けてあれほどの悪夢を見るはずがない。
 怯む気持ちを押し隠すように、自分の身体に毛布をかけて目を閉じた。

 そこは真っ暗な空間が広がっていた。
 私は、低い声で呻いた。また、あの夢である。
 手足は厳重に縛り付けられていて動かせない。
 足音が近づいてくる。目を血走らせた、あの男。
「やめろ、やめろやめろやめろ! やめてくれっ!」
 静かに首に通されるロープ。
 ゆっくり、ゆっくりと締め上げられ、くぐもった悲鳴をあげることしか出来ない。
 脳天を焼かれるような苦しみのなかで、私の意識は焼き切れていった。

「はっ、あ、ああ!? あ……」
 目を覚ますと、先ほどと同じ病室にいた。自分以外のひとの気配はない。
「また、またあの夢を……」
 白と黒で統一された室内。定期的になる機械音。チューブだらけで不自由な身体。
 そんななかで心臓だけは元気よく、ドクドクと胸のなかで律動していた。
「あれはただの夢だ、ただの夢だ、ただの夢なんだ……」
 何度自分に言い聞かせても、あの苦しさと熱さ、冷たさと眩暈と吐き気は現実のように思えてならなかった。そして私をにらむ、血走ったあの目。
 これで、同じ夢を続けて三回目。信じたくはないが眠ることはすなわち、あの悪夢につながっている可能性がある。
 眠りはとても浅いものだったのだろう。身体には気怠さが、意識にはまどろみが残っている。しかし、私は再び眠ることを恐れた。
「いったいどういうことなんだ?」
「いやぁ、心臓の移植手術は無事に成功したみたいですねぇ、良かった良かった」
 聞きなれた声とともに、ベッドの奥からはいずるように黒い影が伸びた。
 ぐるりと人型を描いたその塊から、はらりと銀色の髪が揺れる。
 影のなかから現れる、異様に肌の白い女。脇坂であった。
「あんた、脇坂とかいう……」
「いやぁ、その節は大変お世話になりました。上田さんがお元気そうでなによりでございます。いかがですか? 念願の新しい心臓は?」
 口の両端を吊り上げるように笑い、脇坂が私の顔をのぞき込む。
「心臓に問題はない。きちんと動いているし、こうして自分の意志で呼吸をすることも出来る。医師には術後の経過も良好だといわれている」
「それは素晴らしい。やはり私の見立ては間違っておりませんでしたね。上田さんのためにきちんとしたものをご用意出来て、大変満足でございます」
 くふっ、くふっ、と空気をはじき出すように笑う脇坂の腕に私は手を伸ばした。
「心臓の手術を終えてから、悪夢ばかり見る。これはどういうことだ?」
「悪夢、ですか。ははぁ、それはきっとお疲れなんですよ。元気になればそんなものはどこかにいくでしょう。うん、そう。多分、きっと、くふふ、だいじょうぶですよ」
「ふざけているのか! 私が繰り返し見る夢は……あの男の夢なんだぞ!」
「はて、あの男、と申しますと?」
 脇坂が芝居がかった様子で大げさに首を傾げて見せる。
 そんな脇坂の様に苛立ちを感じながら、私は周囲に誰もいないか視線をめぐらせてから声を潜めて言った。
「私が、その……首を絞めたあの男だ。脳死させて、あとはお前がどうにかするといった、手足を縛られていた男の夢だ」
「くふっ、くふふふふっ。はっはぁ……その夢のなかで、あなたはどうされているのです?」
「私は真っ暗な空間で、頑丈な椅子に縛り付けられている。身動きなどまったくとれない。そして、闇の向こうからロープを手にしたあの男がやってきて、狂ったように私の首を絞めるんだ。まるであのとき、私がやったように!」
「くふっ、考えすぎですよ。きっとあのことをとても気に病んでおられるから、そのような夢を見るのですよ上田さん」
「それだけで、三回も続けて同じ悪夢をみるものか! それにあの首を締め付けられる苦しさは、ただの夢なんかじゃない。あれはまるで……本当に私が絞め殺されているような感覚だ!」
 脇坂は「ふぅーむ」と間の抜けた声を漏らし数度頷くと、おどけてパッと腕を広げて見せた。
「そんなにリアルな夢を見てしまうんなんて、さぞやお困りでしょう。いやぁ、実に怖い。これはホラーだ、超常現象だ。うーん、どうしたものですかね。くふっ、さてさて、それではここでひとつお話をさせていただきたいと思います」
 脇坂が私の心臓に指をあてた。
 ピクリと心臓が跳ね上がったような錯覚に顔をしかめる。
「記憶転移、とよばれるものがありまして。臓器移植によって臓器提供者の記憶の一部が臓器移植された者に移るという現象です」
「提供者の記憶が、私に移るというのか?」
「はい。あくまで一説には、ですが。そもそもそのような現象事態が存在するか否かを含め、医学関係者などの間では正式に認められたものではありませんが……ひとつお話しましょう」
 脇坂はくふっ、と笑い声を漏らすとベッドの周囲をゆっくりと歩き始めた。
「クレア・シルヴィアという心臓の臓器移植を受けた女性の話です。彼女は一九八八年、とある少年から心臓移植を受けました。そして順調に回復していったとき、いくつかの変化が現れたのです。ひとつ、苦手だったある野菜が好物に変わった。ひとつ、ファーストフードが嫌いだったのにチキンナゲットを好むようになった。ひとつ、以前は静かな性格だったのに、とても活動的な性格に変わった」
「そんなバカな! 心臓なんてただ血液を送り出すポンプに過ぎないだろう。移植のせいで食べ物の好みが変わるとか、性格が変わるなどあるわけが――」
「そしてもうひとつ、これが一番重要なんですけどねぇ」
 怒鳴る私をさえぎり、脇坂が一際大きな声で言った。
「クレア・シルヴィアは夢の中で臓器を提供してくれた少年と会っているんです」
「夢の中で、臓器を提供した人間と会っている?」
 新しい心臓が、バクンと跳ね上がった。
 その鼓動が自分のものなのかどうか、私には判別することが出来なかった。
「そう、クレア・シルヴィアは夢のなかに出てきた少年のファーストネームを知っていたのです。そして実際にその家族との対面を果たし、彼が臓器提供者であることを確認している。どうでしょう? 臓器に記憶が宿ると言われる、非常に稀な一例ではありますが……。もしも心臓にも記憶が宿るとしたら、あの男は上田さんにどんな夢を見せるでしょうかねぇ?」
 ハッとして口を開いた。
 繰り返し見る、首を絞められる臨場感あふれる悪夢。
 あの悪夢がもしも、この心臓が見せているものだとしたら――。
「ゆっくりゆっくり、時間をかけて絞め殺しましたもんねぇ。少しずつ血液の流れを断って、脳死にいたらせたのですものねぇ。さぞ恐ろしかったことでしょう、さぞ苦しかったことでしょう。……さぞや、首を絞めていた相手を憎んだことでしょうねぇ」
 嬉しくて堪らない、と言った声で脇坂が笑いをかみ殺して言った。
 全身から血の気が引いていく感覚。
 おそらくあの男は、知っているのだ。
 今、自分の心臓がどこにあるのかを。
「ぐ、ぐげ、ぐげげげげげげ!」
 カエルが潰されるような声で、脇坂がとつぜん笑い始めた。
 銀髪も白い肌も消え失せた脇坂はもはや一体の黒い影となり、床を、壁を、天井を駆け回った。
「心臓は知っている、心臓は知っている! 今、自分が生前自分を苦しめて殺した男のなかにいることを! そして決して心臓は忘れない、許さない、自分の心臓を理不尽に奪い取った男のことを! このままでは済まさない!」
 影からぬるりと伸びた手が、呆然としている私のほほに触れた。
「心臓は復讐する! 何度でも何度でも。苦しかった記憶も、恐怖も、痛みもすべて覚えている。だからあなたをその地獄に引きずり込む。何回も何回も。あなたが生き続ける限り、永遠に!」
「ありえない、そんな。あれはただの悪夢だ。単なる偶然だ、そんなことがあるわけない。あんただってどうかしている、おかしい! これこそ夢だ、そうに違いない。これは全部病気が見せた悪い夢だ!」
 天井に現れた影から、脇坂の上半身がするりと伸びてくる。
 真正面から私をのぞき込むようにして、光を映し出すことのない暗い瞳が見開かれた。
「コレは現実ですよ、上田さん。賢明なあなたはもうわかっているハズだ。そうでしょう。その証拠にあなたは眠ることを恐れた。夢の中で何回も苦しめられたんでしょう、いたぶられたのでしょう。新しい心臓はきっと長い間活躍してくれますよ。だってあんなにひどい殺され方をしたのだから。すぐにあなたを殺すなんてことはしないでしょう。ジワジワ、ジワジワとあなたを蝕んでいく。そうしていつかあなたの精神が正気を失うまで、その心臓はずぅっと一緒だ」
「お前はいったい何者なんだ!?」
 すとんと、影が床に落ちた。
 地面から、顔だけを覗かせた脇坂がニヤリと微笑んだ。
「さようなら、上田さん。どうか、長生きしてくださいね」
 そう言って、脇坂はベッドの影の奥へと消えた。
 病室に取り残された私は愕然としたままずっと時計を見つめていた。
 夕日は落ち、夕食の時間が終わり――。

 もうすぐ、消灯の時間がやってこようとしていた。
 今夜は眠るまい、そう思っても次第にまぶたが重たくなっていった。
 大手術のあとで、身体が睡眠を要求しているかのように気怠くなっていく。
 眠ってはダメだ。
 そう思えば思うほど眠気が増し、意識が遠くなっていく。
 一瞬、意識が途切れた。
 次に気が付いたとき、私は頑丈な椅子に四肢を縛り付けられていた。
 ああ、今夜もあの夢が始まるのか。
 近づいてくる足音に、私は大きな絶望に飲み込まれていった。


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