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「高河ゆんさん」

写真はわたしが、
「なんか若者がこういう写真よく上げてるよね」
と並べて撮って、
「なんか違う」
と評された写真。

今回ゆんさんがきてくれました。
昨日も話したみたいにたくさんお喋りしたけど、会ったのは何十年かぶり。

ここのところのゆんさんの三行日記を読んでいて、ふとわたしがゆんさんを誘ったのであった。

二十代の頃に知り合って、お互いそこから三十年くらいが経ち。
五十代は本当に訃報が多い。ゆんさんの日記にも訃報への思いが綴ってあった。
それで、
「いつか会えると思ってたらだめだ」
と思って、誘った。

快くきてくれて、素敵な感想もたくさん語ってくれたゆんさんにこの理由を話したら、
「日記書いとくもんだね!」
と、もう一人の三十年来の友人に言ってた。
いや、書いとくもんですよ。

ゆんさんは、知り合った時には既に本当にもう大先輩。
でもずっとこう、
「おーい、菅野ー」
みたいな感じ。
デビュー当時ゆんさんが、
「おーい、菅野ー。この編集さんに会ってみてー」
とたくさん言ってくれて、
「はーい」
と編集さんに会った。

んだよね、という話をしてたらゆんさんが、わたしを評価してくれてたという話を真面目にしてくれて、ちと泣きそうになった。
ごめん。その時はわからなかったなあ。
子どもだった。
ゆんさんがそう言ってくれるのがただ嬉しかった。二十代のわたしはそんなにも子どもでした。

そのゆんさんの、
「おーい、菅野ー」
のおかげでわたしはエッセイを書き始めたんですよ! ゆんさんも気づいてないかもしれない。
ゆんさんと懇意の編集さんに会って、
「なんかしら書きましょう」
「小説はちょっとスケジュール調整できないので、短い何かでもいいですか?」
と、新雑誌にエッセイを連載することになった。
そういう流れで始まった連載にありがたいことにご好評をいただいて、日常エッセイ「海馬」の連載や、体験エッセイなど、当時様々なエッセイのご依頼をいただいて何本か連載することになった。
わたしの肩書に「エッセイスト」とつくことは想像してなかったけど、エッセイを書くのは楽しい。
でもゆんさんの、
「おーい、菅野ー」
がなかったら、わたしはエッセイを書いてなかった。

そんなゆんさんと久しぶりに会って話せて、
「漫画が大事」
という言葉を聴いたのは、それが果てしなく幸せだったな。
わたしも小説が大事。

またそんなに間をあけずに会いたい。

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