見出し画像

「ラ・カージュ・オ・ホールとファン・ホーム」(2018)/観劇エッセイ「非常灯は消灯中」「小説ウィングス2018」掲載分限定公開


「小説ウィングス」(新書館)にて、観劇エッセイ「非常灯は消灯中」を連載しています。編集部に許可をいただいたので、その中で公開可能と思われるものを限定公開します。

 公開期間は、劇場が元のように開くその日まで。

 こちらは公開していいものかはとても悩むものですが、再演を強く望んでいるのと、なかなか劇場が開かないのでわたし判断にて開幕。

「ラ・カージュ・オ・フォール」は、日本版キャストのCDと、映画があります。

「ファン・ホーム」は原作漫画が翻訳されて出版されています。

そちらも是非。

画像1


画像2


「ラ・カージュ・オ・フォールとファン・ホーム」(2018)


 既に終わった舞台を、思い切りネタばれしてオチまで語ってしまう舞台観劇エッセイです。ネタばれしないで語りたいと考えましたが、全く無理でした。
 だからもしタイトルの再演、映像化を待つ方は、ここは読まないように要注意だよ!
 毎回この書き出しで行きます。
 今回の要注意は、「ラ・カージュ・オ・フォール」と「ファン・ホーム」(ともに2018)。
 同時期に観た、言いたいことは近いのかも知れないミュージカルだ。
 多様性、もっと言えば複数性。
 今驚いたのだが、この言葉はどちらも国語辞書にも広辞苑にも載っていない。
 多様性は、「幅広く性質の異なるものが存在する」ことを受け入れる、ところまでが多様性だと思う。
 複数性の提唱者は、ハンナ・アーレントだと認識している。私はこちらの方がより難しいけれど必要なことだと感じる。「幅広く性質の異なるものが存在することを、受け入れられなくても認める」ことが複数性かなと思う(アーレンとの言うことは大切だけどちょっと難しいので解釈に自信がない)。
 要は、「敵であろうと存在を認める」ことだ。
 アーレントとの出会いは私は遅かったが、自分の心の中にある様々をわかりやすく言葉でまとめてくれている人だ。まだ全てを読み解けてはいないが。
 多様性や複数性は、辞書に載っていないけれど私にはとても大切なことだ。人と生きる上でのテーマで、自作では現在「ウイングス」で連載中の「ぼくのワンピース」(作画・山田睦月)に反映されている。
 「ラ・カージュ・オ・フォール」は明るくほぼノンストレスで多様性を歌う。「ファン・ホーム」は真逆のアプローチで多様性を語る舞台だった。どちらも私には大切な舞台となった。
 「ラ・カージュ・オ・フォール」は、現在のカンパニーで今年で十年目だという。
「さすがに最後だと思うので観て欲しい」
 友人にそう言われて、初めて観た。
 この「さすがに最後」は観客の憶測でしかないので何も根拠はないが、ラカージュは私の中では、
「ずっとやっているだろうから、今回観られなくてもいつか観られるだろう」
 という認識の作品だったので、「さすがに最後」に背を押されて初めて行った。
 最後じゃないといいと願う。本当に素晴らしい舞台だった。たくさんの人に観て欲しい。たくさんの、多様性の中で何か悩みを持つマイノリティ(少数派)の人々に。マイノリティと触れる、マジョリティ(多数派)の人々に。
 みんなに観て欲しい。
 簡単に筋を説明すると、ジョルジュ(鹿賀丈史)はゲイ・クラブ「ラ・カージュ」のオーナーで司会者。その「ラ・カージュ」の看板スターザザはアルバン(市村正親)といって、二人はラカージュと繋がっている母屋で暮らしている二十年を共に過ごしたパートナーだ。ゲイであるはずのジョルジュには二十四年前うっかりできた一人息子のジャン・ミッシェル(木村達成)がいて、アルバンはジャンの母親役でもある。
 そのジャンが、ガチガチの保守派のダンドン議員の愛娘アンヌ(愛原美花)と結婚したいと言い出した。
 ダンドン議員は、ゲイなどもってのほか、次の選挙で力を得たらラ・カージュなどなくしてやると思っている、この物語に唯一登場する「多様性を許さないマジョリティ」だ。 フランスとアメリカで映画にもなっているので、なんとなくストーリーを知っている方も多いかと思う。
 私もそのなんとなくこんな話と知っていた者の一人なのだが、一つ大きな誤解があった。
 ジャンはとてもいい子で父親とアルバンを両親と思い暮らしていたけれど、彼は女性と結婚したくなったので、そのためにジョルジュとアルバンが一日体面を保つ努力をする話、なのだと思い込んでいた。
 そしたらジャンは、びっくりするほど幼稚でくそムカつく二十四歳だった。
 ただ、ストーリーはずっとシンプルだ。勧善懲悪と言ってもいい。唯一の多様性を許さないダンドンは、最終的に痛快にやり込められる。
 一幕はジャンが、違う女性と行った度で出会ったアンヌと結婚したいとジョルジュに告げて、ダンドン議員夫妻が来るその一日だけアルバンをいないものにして欲しい、早くそれをアルバンに言ってとジョルジュに言い続ける。
 くそムカつくでしょ?
 だがジャンはムカつくが、舞台はノンストレスに近い。
 ラ・カージュのショーを観ているという体で物語に誘うので、シャンタル(新納慎也)を初めとするゴージャスなカジェル(踊り子)たちの見事な歌やラインダンスでずっと楽しい。
 言い方を選ぶのが難しいが、私はこの舞台でここのところ大きなミュージカルに対して抱いていた不満に、惑いが生じた。
 本格的にミュージカルを見始めてまだ数年だが、最近私はキャスティングが気になり出していた。アンサンブルは、海外版権ものの本場映像を観ると、日本は海外に全く劣っていないところまで来ていると思う。だが、メインのプリンシパルはいつも同じキャリアの長い役者たちだと感じる。合っていないと思ったり、またかと思ったり、その役者のために輸入された舞台だと思うときもある。
 水が滞っていると、感じていた。
 好きなミュージカルに対して、何故そんなことをわざわざ思うと思われるかもしれないが、好きだからこそ未来を思う。
 私が幼い頃「ライジング」(原作・氷室冴子/作画・藤田和子)という少女漫画があった。ものすごくおもしろいので、未読の方は電子などで読まれることをお薦めする。
 氷室冴子先生が好きで読み、何度も読んだ。成人してから読み返したとき、私はこの漫画に対して大いなる疑問が湧いた。
 「ライジング」は明らかに宝塚歌劇団をモデルにした、宮苑学園を舞台に描かれている。原作作画の両先生が宝塚が好きだと公言して、本拠地のある宝塚市に住居を構えてこの作品に挑んだ。可愛がっているジェンヌさんもいると、多分後書きに描いてあった。
「そんなに大ファンの宝塚に対して、『ライジング』はその在り方を根底から思い切り批判しているけれど何故?」
 男役中心の芝居を「空々しい人形劇だ」と批判して、「ライジング」の登場人物たちはそこに革命を起こそうとしている。
 大人になったら、何故そんな作品を書けたのだろう二人はと、そこが疑問になった。
 最近大きなミュージカルを熱心に見続けて、ふと、私は「ライジング」を描いたお二人の気持ちがわかる気がしてきた。
 好きだから、未来を感じない部分が気になる。変化が必要だと強く思う。
 「ライジング」が一石を投じたのかそこは不明だが、その後宝塚は両先生が望んだ方向に舵を切り直したように思う。心の通った、男役も娘役も生きる演目も昨今増えた。
 私は大きなミュージカルに関しては大海の藻屑に過ぎないが、革命が必要なのではないかと新作のフライヤーを見ると感じることが多い。新作と書いてあるが、またかという既視感があって新鮮みはないことが多い。
 これは自分にも返ってくることだ。私はこの仕事をしてもう二十年以上経つキャリアで、この「小説ウイングス」や「ウイングス」、「小説ディアプラス」でも二十年ずっと書かせていただいている。
「いつも同じ作家。この人ずっと書いてる」
 そう思わせてしまうことがあったら、私も水を濁らせる者の一人となる。ならないようにするにはどうしたらいいのかといえば、おもしろいと思ってもらえるものを書き続ける努力をしなければいけない。
 その努力をやめるつもりはないが、想像したくはないが力が及ばなくなる日も来るだろう。
 結果、カンパニーの隅々までが素晴らしかった「ラ・カージュ・オ・フォール」は、大変失礼だがそういうイメージがあった作品だった。同じ役者たちで十年、演出も変わっていないと聞いていた。
 メイン処の方でお一人、私が観た二回とも台詞が飛んだ方がいた。袖に履けるタイミングも忘れてしまい立ち往生して、オケピから指示が飛ぶ声が客席まで聞こえた。
 恐らくオーケストラのマエストロも、十年同じ方なのではないかと思う。
 だがずっと一緒にやってきたカンパニーが一丸となって家族のように支え合い、客席もそれをわかっていてあたたかくその家族を見守る。
 批判的に感じていた部分が大きな力を持って生きる作品を、私は初めて観た。
 ただ、台詞が出て来ないときに客席からはあたたかい笑いが起きたりするが、役者本人はそれをよしとしていないのだとも知った。その直後のソロが力強く叩きつけるようで辛いのと同時に、ご本人がまだあきらめていないことに未来を感じた。
 未来の話はともかく、ラ・カージュにおいてはその支え合いがリアルに生きた。ジョルジュとアルバンは二十年寄り添ってきた夫婦だ。
「もう私に跪いてアンクレットをつけてはくれないのね」
「そんな固いコルセットをしてるから屈めないんだ」
 会話からも遠慮のなさや倦怠、ずっと一緒にいる二人だという空気が伝わる。
 ジョルジュは少し、情けないようにも映る。愛する息子ジャンに甘えられるまま、一日アルバンをいないものとするしかないと流される。
 こうして文字にすると「そんなひどい」と思うだろうが、全編ずっとコミカルだ。アルバンに「一日いないことになってくれと言って!」とジャンにせっつかれながら、ジョルジュはなかなか切り出せない。言おうとしてタイミングを逃す。そういう繰り返しで、一度だけジョルジュが、
「アルバンに何をしようとしているのかわかっているのか?」
 そうジャンに問い掛けるところがあるが、重くはならない。
 重くはならないが、ジャンがアルバンに望んでいることは、本当に酷いことだ。ジャンの母親として、ジョルジュの伴侶として、家族として、男に生まれてきたけれど心に持った性で生きるアルバンの存在を、一日だけでなく全て否定する行いだ。
 一幕の終わり、やっとジョルジュはそれをアルバンに告げる。
 このときアルバンは衝立の向こうにいて、一枚一枚服を脱ぎ捨てていることしかわからない。
「なあ、その日のことは生涯の私たちの笑い話さ。上手くいったらしてやったりさ」
 そうだろうアルバン、と問い掛けるジョルジュの声は弱々しい。
 ジョルジュはアルバンに何をしているのかわかっている。どんな惨いことを最愛の人にしているのかわかっていて、ジョルジュも傷ついている。
 見事にザザとなって着替え終えたアルバンは、何も言わずラ・カージュの舞台へ出ていく。
 他のカジェルたちと一緒に「ラ・カージュ・オ・フォール」が始まるが、立ち止まりアルバンは叫ぶ。
「やめて!!」
 三時間を超える舞台中、ただ一度の胸を抉られる悲鳴だ。
 周囲は呆然として、アルバンは歌い出す。
 この物語の主題、「ありのままの私 I Am What I Am」を。
 ゆっくりと、途切れ途切れに、けれど段々と高らかに世界に宣言するように叩きつけるように歌われる「ありのままの私」は、今後機会がもし巡るなら是非体感して欲しい。
 市村正親の真価を、私はこの歌で初めて知った。
 もし同じ力量があったとしても、誰にでも歌える歌ではない。
 市村正親自身の人生についてほとんど私は知らないが、抱えてきた抑圧、何かしらのマイノリティとしての思い、そういう財産を持った人でなければあそこまで叫ぶことはできないのではないかと思う。
 歌を置いて、何も言わずアルバンは客席を通って、世界に怒りを残したまま出て行ってしまう。
 それが一幕の終わりだ。
 呆然とその残された歌と怒りを見つめて、私は何故このとき舞台上にジャンがいないのだろうと思った。
 ジョルジュは袖か何処かにいる体で、アルバンの叫びを聞いている。
 だが、アルバンの排除を言い出したのはもう二十四歳のジャンだ。この叫びを聞くべきなのはジャンなのではないかと、彼を探した。
 どうなってしまうのだと思ったら二幕はもう、ずっと楽しいだけだ。
 コミカルに家出をしたアルバンに、ジョルジュは、
「その日アルバン叔父さんとなって同席するんだ」
 と、男らしく振る舞う練習をさせる。
 まだそんなことをするかジョルジュ、とも思うところだが、時代なのだとも感じる。この作品がフランスで最初に上演されたのが七十年代だ。ミュージカルへの変遷などで本は繰り返し書き換えられてきただろうけれど、今より何十年も前の先進国で、夫婦として二十年寄り添いながら、相手によってはそれを隠さなければならない現実があった。
 ジャンの気持ちも、二幕では語られる。
「僕はずっと彼が恥ずかしかった」
 子どもにはごく当たり前の気持ちだとも、やっと納得する。同級生とは違う母親、友達に揶揄われてアルバンのために喧嘩もしたとジャンは言う。
 ジャンもアルバンに強い愛情はある。
 だが自分が結婚しよう、愛する人と結ばれようとしたときに、愛情の影で犠牲になってきた思いが爆発してしまったのだろう。
 そんなジャンに、あのアルバンの「ありのままの私」を聞かせるのは酷だ。
 結局アルバンは、たった一日でもありのままの自分を手放すことはできず、いや、せず。友人のチャーミングなジャクリーヌ(香寿たつき)の機転で、保守派のダントンをやり込める痛快な結末だ。
 最後はなんというか、ドタバタとただ楽しく終わる。あれほど「おかま」を毛嫌いしたダンドンはドレスを纏い化粧をして、ショーに出るはめになる。
 ジョルジュとアルバンはスーツで、腰を抱き合って寄り添っている。
 これからもそうやって、時々つまらない喧嘩をしたりしながら、一緒に生きて行くのだろうという喜びと悲しみが、二人にはある。
 歳を取るというのは悪いことではないと、最近聞くことが多い。自分でもそう思って、言葉にすることがある。
 でも本当の老いは、やはり悲しいこともたくさんある。できないことが増えていく。
 その悲しみに愛する人が寄り添ってくれるやさしさが、羨ましい。
 最後は大合唱とともに、客的も手を叩く。
 カーテンコールのような形になって、カジェルたちがごくシンプルなシャツとズボンになって横一列になる。
 華やかに装って見事なダンスを踊っていた彼らが、言ったら「ただのおっさん」の姿で礼をする。
 何故なのか私は、そこで泣きそうになった。
 これは理由は、上手く説明できない。
 どちらが彼らの「ありのままの私」なのかはわからないけれど、そのどちらだとしてもそんなにも違う「ありのまま」を、抑えて生きなければならない人生もある。
 そういう感情なのかも知れない。
 華やかに明るく楽しく、「ラ・カージュ・オ・フォール」は「ありのままでいいんだよ」と歌ってくれる本当に素晴らしい舞台だった。
 それより少し前に、「ファン・ホーム」を観た。テーマは近いような気がする。「ファン・ホーム」は真逆のアプローチで多様性、複数性を語り、歌う。
 原作はアメリカの漫画で、2006年に出版されている。レズビアンであるアリソン・ベグダルが、大学生のときに自死してしまった父親を回顧する物語だ。
 年代的にこちらは、「今ここにある何か」を扱っている。「ファン・ホーム」のポスターには「ある家族の悲喜劇」と書いてあるが、「喜劇要素どこ……」と思った人は少なくはないと思う。
 観たのはこちらが先なのだが、後にしたのには理由がある。
 「ファン・ホーム」を観た方で何か大切なものをそこから与えられたという方は、敢えてこの先を読まないという選択もして欲しい。
 劇場にいても、自分でも強く感じたが、一人一人入り込む場所が全く違う物語だった。客席で誰かが泣き出したと聞こえる場所が、まちまちだった。
 誰かに必要な物語で、誰かに必要な言葉が、別々の場所に埋められている。
 それをあなたがもし手にしているなら、手放すことにならないために私が手にしたものの話を敢えて読まない方がいいとも思う。
 だいたいが、ストーリーだけ説明すると、
「いや、そんな舞台じゃないんだ」
 と、なる。
 創った人々も、演じた人々も、観た人々も、そう思うかもしれない。
 できるだけ簡単に、あらすじを書く。
 アリソンは今、父親が自殺した年齢に差し掛かった四十代の漫画家でレズビアンだ。父親のブルース(吉原光夫)は家をきれいにして売ることと葬儀屋を仕事にしていて、結婚して子どももいるけれどゲイだ。相手には少年を選ぶ。ブルースはアリソンが大学生のときに、トラックの前に飛び出して死んだ。理由はわからない。小学生のアリソン(笠井日向/龍杏美)、大学生のアリソン(大原櫻子)と時間をランダムに追う形で、現在のアリソンがその中に入り込む。そのとき本当はどう思ったか、自分がどんなに子どもだったか、だけど精一杯だったとアリソンは笑う。
 これは私は色々理由が重なってなんとなく行ったが、原作も知らず誰が出ているのかさえわからず観た。
 二時間ない舞台だが、終わりに差し掛かるところで決壊してしまい、最後は泣いて拍手をする力もなく、立ち上がることもできなかった。この内容量では二時間が限界だ。そう言う意味でも素晴らしくよくできた構成だ。
 私が立ち上がらないと客席から出られない方が三人いらっしゃって本当に申し訳ないことをしたが、終演後もしばらく立てなかった。
 その三人の方も何処かしらにこの物語の何かが刺さったのか、ありがたいことに急かさずに待ってくださった。
「この話なんだったの?」
 そんな感じでキョトンとしている方も、結構いた。
 そういう方には、そういう方の「ファン・ホーム」だったのだと思う。皮肉ではなく、心から羨ましいと思う。何処にも刺さらなかった方は、もしかしたら幸せなのかもしれない。
 隣に座っていた青年が、途中堪えられずに嗚咽した場面があった。そこは私は泣かずに観ていた。
 そういうことが、劇場中で起こっていた。様々な複数、多様のそれぞれに何かを届ける、希有な作品だった。
「ミュージカルである必要があったのか?」
 友人の知り合いがそう言っていたと聞いたが、私はそこまで考えが及ばなかった。前述のラ・カージュは、ミュージカルでなくてはならないと思う。確かに「ファン・ホーム」はストレートプレイでも成立する物語だが、私は繰り返し耳に返る歌声がある。
 父親、ブルースがピアノを弾きながら最初に恋をした少年のことを語る歌だ。
「巻き毛の……」
 細い声で寂しそうに、その少年の名前を声にするブルースの歌が、耳に残って離れない。
 偏屈なところもあり、けれど理解者であろうともするブルースとアリソンは、特別な関係だった。二人ともが同性に恋をする性質だったということだけでなく、父親と娘は幼い頃からたくさんの話をしている。絵や本を介して、たくさんの気持ちを交わしている。噛み合ったことも食い違ったこともある。
 二人はとにかくたくさん話した。
 アリソンが幼い頃から、ブルースは家を自分の力で修復して美しく仕上げている。その家は家族の虚構を象徴しているようにも見えた。
 美しい平和な素晴らしい家族を装うような、美しい家だ。
 けれど彼らは美しい家族を装ってなどいないと、思える日もある。
 どの家にもある、毎日違う感情を、違うやり取りを映す家族なのかもしれない。
 家にはアリソンたち姉弟のシッターもしてくれた青年ロイ(上口耕平)が出入りしていたこともある。ロイはしかし、ブルースの愛人だった。
 ブルースとロイの睦み合うシーンも出て来る。
 特に美しく飾られているわけでもなく、ごく普通の欲望、父親が離れでこうしていると思うと目を背けたくなる欲望だ。
 だが家の中ではブルースは正しい父親で、アリソンは大学生になって自分がレズビアンだとはっきり自覚するまで、父親がゲイだとは少しも知らずにいる。
 アリソンが小学生の頃、ブルースは裁判所命令でカウンセリングを受けに行かなければならないと荒れていた。未成年者に飲酒を勧めた。このときもアリソンは知らないが、父親は少年に手を出している。
 家族で都会に旅行したときも、子ども達を寝かしつけてブルースは夜な夜な少年を買いに行った。
 ブルースが吉原光夫という配役が、私にはとても生きて見えた。
 吉原光夫は、どっからどう見てもど安定のヘテロセクシャルに見える。なんならマイノリティに理解のないマジョリティでもおかしくないと感じさせる、猛々しい男性としての空気感がある。この作品に馴染まない古い言葉になってしまうが肯定的な意味で「男らしさ、男気」がとても魅力的な役者だ。「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンとジャベールの熱演の印象も強く、愚直な正しさも纏って見える。そういう彼がブルースを演じることで、そうはしたくないのにしてしまうどうしても衝動が抑えられないというリアルを感じた。
 私自身、最も許せない犯罪は小児性愛だ。この場合の子どもは法に抵触する年齢まで含まれるので、ブルースは私には小児性愛者だ。
 もし自分に愛する人がいて、その人が殺人を犯したら私は、
「何故殺したの?」
 そう、とりあえず理由を訊くだろう。
 だがその愛する人が小児性愛犯罪を犯したら、問答無用で去勢しろと思う。
 そういう私の強固な感覚が、「ファン・ホーム」で初めて揺らいでそのことには激しく戸惑った。
 今でも小児性愛者を許すつもりはないし、ブルースの行いも擁護の余地はない。
 ただ、ブルースを見ていると、生まれ持った抑えられない性癖、その衝動に苦しむ者がいると実感した気がした。そうすると結論としては、その衝動が抑えられず犯罪に至るなら何かしらの肉体への処置をとなるが、抑えられない者も辛いということは吉原光夫のブルースを通して初めて思った。
 虚構というよりは、ブルースはそういう自分を必死に隠して取り繕っている。
 美しい家に家族住まわせ、理解あるよき父親として振る舞い、だがそれはブルースの一番大きな性質の裏側なのでどんどん歪みは大きくなっていく。
 舞台セットの美しい家に、時間が進むに従って段々とおどろおどろしい黒い影が帯びているように見えた。微妙な、僅かな照明の変化だったのでもしかしたら気のせいだったのかもしれないが、美しく見えるこの家がどんどん限界を迎えているように見えた。
 死に向かう頃、父親は修復不可能な程の古い家を買って、その家の修復に没頭し始める。
 大学生のアリソンはずっと自分の中にあった、
「子どもの頃家に来た職人の女性の、女性らしく振る舞わない姿に目が釘付けになった自分。スカートやハイヒールが嫌で堪らなかった自分」
 への、答えを見つける。
 女性に恋をして、その女性と初めてのセックスをする。
 現在のアリソンは両手で顔を覆って、そのときの恥ずかしさに耐えられない。若いアリソンは愛する人の体に初めて触れたことで舞い上がり、確かに恥ずかしいけれどそれ以上に見ていて愛おしい。
「私はレズビアンなの!」
 まず両親にカミングアウトをしようと決意して、アリソンは手紙を書く。
 ここは、私は極めてアメリカ的、キリスト教圏的な考え方だといつも洋画や翻訳舞台で戸惑うが、彼らの多くはカミングアウトをしなければ「ありのままの自分」を生きさせてやることができない。家族、友人、社会に、セクシャルマイノリティである自分を認めて貰えなければ、自分は始まらない。
 社会の在り方もあるかと思うが、前提としてキリスト教があるからだと思う。宗教によっては同性と愛し合うこと自体が、「罪」だ。罪人とした罰せられる愛ではないと、自分だけでなく周囲の認知、理解、許容が生きるために必要なのだろう。
 日本はそこは違うと、私は感じている。
「あの人はなんだろう?」
 という自分と違うセクシャリティに対して、突っ込まないのが日本のよい文化だと思う。影であれこれ言うことはあっても、セクシャルマイノリティなのであろう人物本人に向かって、
「あなたはオカマなの?」
 そう尋ねる人は少ないし、そう尋ねた人の方が現代ではだいたい顰蹙を買う。
 息子がゲイだと知って、父親が息子を殺さないとならないということもない。
 その辺は曖昧文化だ。いいことだと思ってきたが、一方で、同性をパートナーに持って社会の制度にきちんと守られたいと声を上げる人々も出て来た。だとしたらそれは認められて当たり前だと思う。
 この間丁度担当さんとその話をしていたのだが、望まれるのは、
「カミングアウトをしない自由もある社会」
 なのではないかと、今現在の私は思う。
 カミングアウトしなければ生きて行けない人には当たり前にカミングアウトできる、自分のセクシャリティについて人にあれこれ言われたくない、話したくないと願う人はそうできる社会が、理想ではないかと今は思う。
 私はヘテロだが、自分の性について問われることは望まない。それと同じだ。
 アリソンのカミングアウトに、両親はアリソンの望む反応を返さない。
 ブルースの気持ちは、アリソンにもわからないのだから誰にもわからない。普通に想像すれば、ブルースは戸惑っただろう。自分は隠し通した。けれど娘は同性を愛するセクシャリティで、それを認めてと声を上げている。
 人生を後悔したかもしれないし、自分のせいだとも思ったかもしれない。
 アリソンもきっと、たくさんの父親のそのときの思いを、今も想像するだろう。
 答えが与えられることは、永遠にない。
 物わかりのいい通り一遍のことを電話で言った父親に頭に血が上って、アリソンは実家に帰る。
 ヒステリーを起こすアリソンに、母親のヘレン(紺野まひる)は初めて打ち明ける。
「パパはゲイなの」
 と。
 ここまでヘレンは目立たないごく普通の母親で、このときもそれは変わらない。
 変わらないヘレンが、とてもよかった。よかったというと何か違うようにも思う。こういう辛い思いをした人がいたと、静かにヘレンは教えてくれた。
 結婚して旅行に行ってブルースが会わせた男の友人が、実はブルースの恋人だったこと。その帰り道ブルースに、自分の人間性を比定されるくらい罵られたこと。少年と関係を持ったか持とうとして、だから裁判所命令でカウンセリングを受けていたこと。そのときは町に住めなくなるかと思った。男を買ってきたブルースに病気を移されたこともある。
 黙って母親の話を聞いていたアリソンが、ヘレンに問う。
「どうやってやって来れたの?」
 私はここで、何かが限界を迎えて涙が止まらなくなった。
 ブルースを責める涙というのとも違う。ヘレンに同情しているだけでもない。
「どうやってやって来れたの?」
 生きて行く道には、そう思う岐路が何度でもやってくる。
 やっていけなくなる人も、いる。
 自分のカミングアウトが原因になったと、アリソンは思う日もあるだろう。ブルースはこの直後、トラックに突っ込んで自殺する。
 最後の会話となったのは、その実家に帰った大学生のアリソンが父親の助手席に乗ったときのことだ。
「このときもっと言えることがあったはずだ。訊けることがあったはずだ」
 繰り返しアリソンは自分を責め、この日のことを後悔する。
 私はもうこのときには舞台の上が涙でよく見えなかったけれど、最後の助手席に乗っていたのは現在のアリソンだったと思う。
「何か言えることがあるはず。けれど電話線だけがどんどん過ぎて行く」
 電話線、電話線、とアリソンは繰り返す。
 焦っている。
 何か父親を止める言葉をこのとき自分は言えた筈だと、必死にその言葉を探している。
「次の信号まで」
 必死に探しているけれど、他愛のない会話でドライブは終わってしまう。
 過去は書き換えられない。アリソンは父親を止められない。
 そしてブルースはトラックの前に飛び出た。
 小学生、大学生、現在のアリソン、三人のアリソンが舞台に三角に立つ。
 そんなにスキンシップのなかった父親が自分に、飛行機をすることがあった。それはアリソンにとって嬉しいことではなかった。父親との触れ合いには複雑な思いがあった。
「父の上で飛んだときに、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった」
 三人のアリソンがそう言って、「ファン・ホーム」は終わる。
 この言葉は、公式のアカウントにそのまま切り取られている。
 観て聞いて、父親が自殺してしまったアリソンの家族は皆、不幸だと日も幸福だった日も、何事もなかった日もごく普通にあったのだと思った。
 完璧なバランスが取れた日もあったのだ。
 家に当たる影が、どんどんおどろおどろしくなって行って、それはこの家に潜む闇を表しているのだと途中、私は感じた。
 けれど最後には、これが家なのだと知った気がした。
 白く輝くように美しいだけでなく、影も帯びて、闇も差して、白と黒が交わって、それが家そのものなのだ。
 アリソン、私はあなたが羨ましい。羨ましくて羨ましくて、泣いて席から立ち上がれなかった。
 あのとき劇場の中に一人一人が、それぞれ心の中の別の場所を触られた。
 私が何処を触れられたのかは、アリソン、あなたにも教えられない。

サポートありがとうございます。 サポートいただいた分は、『あしなが育英会』に全額寄付させていただきます。 もし『あしなが育英会』にまっすぐと思われたら、そちらに是非よろしくお願いします。