人と組織.18 - 豊かさを謳歌してきたことの代償として失ってしまったもの!
ここ最近、日本企業の競争力の弱体化や衰退がさかんに報道されている。
数日前の新聞報道では、昨年、2020年に経営破綻した米国レンタカー大手、ハーツが早くも今年の2021年に裁判所の管理を終え、米国電気自動車大手テスラから、10万台のEV車の購入を発表、そしてハーツ所有の車の2割をEVに変えるとのこと。
EV車の普及と旧態依然としたレンタカー会社が、CASE革命をリードする旗手に生まれ変わりつつあるという報道であった。
事業構造改革のための新陳代謝とこれを後押しするスピリットに、米国の底力が際立ち、これが現在の日本企業との差のように思える。
株式市場では、日本企業が競争に敗れつつあると冷ややかに見ている。
時価総額ランキング トップ100でみるとアメリカ59社、中国13社、日本は1社のみという結果である。
また、2021年8月に発表された、企業ランキング「フォーチュン500」にランクインしたのは、中国企業135社、米国企業122社、日本企業53社となっており、これが現実である。
世界全体における日本企業の相対的な位置づけを見ると、残念ながらこの30年で大きく後退してしまっている。
何故、日本の企業がこれだけ衰退したのか?
私は「次世代経営者の養成」や「組織変革の支援」等で様々な企業のビジネスマンに出会う機会が非常に多いが、昨今、とみに感じることのひとつに、
『当事者意識の足りない傍観者や評論家的発言を繰り返す管理者層』の多さと、
『目線が低く、主体性が欠如して安定志向が目立つ若手層』 の多さに唖然とする機会が多い。
「日本企業の弱体化」と「ビジネスマンの当事者意識の希薄さ、安定志向」
私はこのふたつの事象は、強い因果関係で結ばれているように思えてならない。
日本企業が国際競争において勝てなくなってきていることもさることながら、問題視すべきは、敗北という実態に接しても、さほど悔しさや怒りを覚えないビジネスマンが非常に増えていることではないだろうか。
これはスポーツの世界にも象徴的にあらわれている。
例えば、勝てない試合でも「一生懸命やったんだから」とか「感動をありがとう」といった極めて曖昧かつ抽象的な言葉で収拾してしまう。
これが「今の日本を象徴」しているように思えてならない。
求めるレベル、設定しているバーが低過ぎないだろうか。
そもそも自ら設定しているバーが低いところで「よく頑張った。感動をありがとう」なんて言っているからますます弱体化していくのである。
敗れる、勝てない、或いは売れない、収益が下降している等といった事実ときちんと向き合って、そのことに怒りを覚えなければ、心から、頭を使って、知恵を出して、勝ち抜くための努力を本当にするだろうか。
難しくてもそれをクリアして戦い抜いて勝利するといった思いや志が、全般的に非常に希薄になってきているように思える。
識者の方々の主張である輸入物の「ワークライフバランス」や「余暇生活の充実」等といった「出来るだけ働く時間を短くする」という指向は、我々にとって本当に正しかっただろうか。
『働き過ぎ』ということが『何をもってして働き過ぎ』と言っているのか、『どこと比較して働き過ぎ』なのか、逆に『働き過ぎで何が悪い』のかということをきちん検証しないまま単なる輸入ものの情報をステレオタイプに唱えてきたことが、一体、日本という国に、そして我々日本人に何をもたらしたのか。
仕事の質、スピード、業績、競争力、そして仕事に対するコミットメント等、あらゆる面において中国企業や韓国等の企業には、とても対抗しえない。
喪失していったものは、あまりに大きいといえる。
「幸せで恵まれている人達は、当面の安泰と満足を得ることに力を尽くすが、決して長期的な視点から物事を考えて行動しようとしない」という見解。
そして「当面の最適さを求めて、そのことを繰り返していくことが、長期的には大きな過ちにつながる」という見解。
これは、まさに今の我々、日本を暗示しているのではないだろうか。
識者といわれる方々の単なる輸入物の翻訳手法的議論を繰り返すだけでは何ら本質的な解決にはならない。
後々振り返った時に「ただただ間違ったことを一生懸命やっていたに過ぎない」ということにならないことを切に望むばかりである。
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