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三原貴之さんのベートーヴェン––Director's Note

 このたび、わたしの主宰するsonoritéレーベルで、三原貴之さんの奏でるベートーヴェンをご紹介できることを心から嬉しく思う。彼は、素晴らしい若手ピアニストであると同時に、慶應大学の博士課程で抗菌薬の研究に携わる研究者としての顔も持っている人だが、その音楽は、アマチュアの域を超え、ユニークかつ普遍的な説得力で聴き手の心に迫ってくる。悠然とした音楽の呼吸は、巨匠的な円熟味すら感じさせる。

 三原貴之さんは、幼少時からピアノを学び、お父様の転勤に伴って中学入学のタイミングで大阪から東京に転居。以後、知人の紹介でピアニスト杉谷昭子先生に師事し、彼女が2019年に亡くなるまでその指導を受けている。杉谷先生は、ドイツで活動し、巨匠クラウディオ・アラウからも生前個人的に教えを受けた、ドイツの伝統的ピアニズムの継承者。ピアノの音色を極限まで追求する先生のレッスンは、当時中学1年だった三原少年の音楽観を根底から覆すもので、勤勉なピアノ少年の心に揺るぎない音楽愛の火を灯した。師の奏でる真摯な音楽への憧れは、三原さんの音楽の原動力であり続け、今回のアルバムは亡き師へのトリビュート・アルバムにもなっている。

三原貴之さんと杉谷昭子先生、そして先生の愛する猫のぬいぐるみ「どってこ」

 杉谷先生は、門下生が一流のプロと室内楽やコンチェルトを体験できる機会を積極的に設けていた。三原さんは、中学1年で杉谷先生に入門して間もなく、ポーランドのプリマ・ヴィスタ四重奏団とシューマンのピアノ五重奏を共演。ここで一期一会の対話の醍醐味を体感し、音楽の喜びに目覚めたという。本人曰く、「自分は器用なタイプではなかったが、昔から本番での不思議な集中力があり、ステージで普段以上のものが出てくるタイプだった」。杉谷先生も、三原さんのそんな特性を面白がり、熱心に向き合ってくれたそうで、三原さんは、時には先生の演奏旅行についていって行動を共にするなど、親しく交流し、先生の姿や言葉から、音楽のみにとどまらず多くを学んだという。

 わたしは、当時高校1年だった三原少年と共演している。曲はグリーグのピアノ協奏曲。杉谷門下の会でポーランド・シレジア・フィルハーモニーと共演する、その準備段階の2台ピアノでの練習相手として、友人を介してわたしに白羽の矢が立ったのだった。杉谷先生主催の発表会で、2台ピアノとして出演させてもらったが、彼のソロは、リハーサルとは比較にならないほど素晴らしいもので、漲るエネルギーや歌心の熱量に圧倒された。「ステージで何かが降臨する」彼の資質を羨ましく感じたものである。

グリーグの協奏曲(2台ピアノ版)。三原貴之・内藤晃。浜離宮朝日ホールにて。
レコーディング終了後の記念写真。2022年4月6日、山口県宇部市、渡辺翁記念会館にて。
左から、斉藤花絵(録音)、内藤晃、三原貴之、瀬沼洋(録音)、松永正行(調律)。
瀬沼さん、斉藤さん、松永さんの3名は、杉谷先生のアルバム制作に携わってきたチームである。

 三原さんは、「“演奏”とは、楽譜というテクストを介して、作曲家と演奏家の視点が折り重なって初めて生まれるもの」だと語り、作曲家について学究的に調べることよりも、できるだけ先入観なしに、真っ白な状態のテクストと向き合って、自分から何が出てくるかを大切にしていると言う。これは、わたし自身の音楽家としてのアプローチとは対照的なところもあり面白いが、音楽が頭でっかちにならず、ダイレクトに心とリンクしたものであり続けるために有効かもしれない。三原さんは、杉谷先生との交流から「人としての生きざまが音楽にあらわれる」ことを実感し、自分もそのような音楽家でありたいと語る。医療の研究に携わり、クリスチャンとして教会でのコンサートも続けている三原さんは、包容力のある魅力的な青年であり、奇しくも、わたしの生徒の酒井遼真くん(開成高校)の「開成ピアノの会」の先輩に彼がいるのはとても嬉しい。

 なお、三原さんの恩師、杉谷昭子先生の奏でる、あまりにも美しい《カタリカタリ》もここに貼らせていただく。この杉谷先生の編曲は、カルディッロ生誕150年に乗じて、カワイ出版の『アニヴァーサリー曲集2024』の中で楽譜化された。採譜してくださったピアニスト秋田悠一郎さんに感謝。


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