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やつづかさんのこと。

やつづかさんとの出会いは、大日向小学校の開校準備をしている頃でした。
「保護者としてのやつづかさん」ではなくて「ライターとしてのやつづかさん」と出会っていました。


※そんなやつづかさんが書いてくださった対談シリーズがこちら
愚者風リーダーのチーム論(全文に目を通すには無料会員登録が必要です)
https://bizzine.jp/article/corner/138


仲山進也さんや天外伺朗さんや斉藤賢爾さんとのとりとめもまとまりもない対談を丁寧に再構成してくれて文章として表現してくれるやつづかさん。
只者じゃないなと思いました。


そんなやつづかさんの存在は、僕の中では気づけば「ライターやつづかさん」ではなくて、「仲間のやつづかさん」になっていました。
大日向小学校の保護者(←この保護者っていう表現、あんまり好きじゃない。僕にとってはすべての保護者は『いっしょに学校を営んでいくパートナー』だから)としてのやつづかさんがしたためてくれたこの文章。
みずみずしくて人肌があって慈愛に溢れて、それでいてご家族とご自身の未来をきちんと見つめているようで、僕は大好きです。


客観的に見たら「子供の教育環境のために移住をしたらこんなことが起きたよ」という記事なんですけど、やつづかさんの書き残す文章はすべて「わたし(やつづかさん本人)から見えた世界」を克明に記しているように思います。
だからでしょうか、そこに過剰な修飾や思わせぶりな隠喩や誇張した表現がなくて、すごく明晰でシンプルでそれでいて熱量を感じます。


「好きなものが言えるようになった」っていうのは、他人から見たら大きな変化には感じないかもしれません。
でも、ご家族にとっては(やつづかさんとお嬢さんとの関係性の中では特に)とてもとても大きな好ましい変化だったように思います。


○○教育と名付けられ子供たちが「学校で学ばされること」は増え続け、制度や仕組みも「選択肢」が増えつつあります。
大人がしつらえる「教育環境」は子供に「これができるようにならなければならない・こういう人に育たなければならない・こういう価値観を持たなければならない」という暗黙の強制(フーコーの言うバイオパワー)を加速させることに繋がります。


そうですよね、だって子供は学校を選べないもの。何をどう学ぶか、という基本的なことも子供は選べない。


そんな時勢の中、やつづか家の「移住」が娘さんに与えた意味は実に大きいと思うのです。


彼女が自分で見つけて、自分で言えるようになった。
言わせたのではなく、言いやすい環境を家族で選択した結果だと思うのです。


常々、僕は人類学者のローレン・アイズリーの遺したこの文章を引用しています。
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海岸を散歩していると、
少年がヒトデを海に投げていた。
何をしているのかと尋ねると、
少年は「海に戻してやらないと
ヒトデが死んでしまう」と答えた。
私はそんなことをしても、
海岸中がヒトデだらけなんだから、
すべてのヒトデを助けられないし、
意味がないだろうと言うと
少年は少し考え、
またヒトデを海に投げた。
そして私にこう言ったのだ。
「でも今投げたヒトデにとっては
意味があるでしょ」と。
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たくさんの人に影響与えるべくそこに情熱を捧げることは、もちろん価値のあることです。


でも僕は、自分の関わっている事柄が間接的であれたった一人の誰かにとって大きな意味がある、ということに無上の喜びや意味を感じます。


だめだ、長くなっちゃう(笑)
ひとまずこのへんで。
やつづかさんの記事、ぜひご覧ください。

https://note.com/yatun/n/n4f9db4de3588

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