【Day.3】 6/15 リヴネ、イルピン、リヴィウ、メディカ。
朝5時、犬の鳴き声で目が覚める。
都市部であれ地方であれ、ウクライナには放し飼いにされている犬が多い。
首輪をしているので野良犬ではないのだろう。
部屋は東向きだったので、朝陽がのぼる直前で朱色の空がきれいだった。
気温は10℃、Tシャツ1枚では寒い。
シャワーを浴びて身支度をする。
水道水は飲料には適していないので、念のためにミネラルウォーターで歯磨きをする。
フロントに降りてチェックアウト。
6時に車に集合、SimonとTravisは既に荷物の積み替え作業を始めていた。
今日はまず、イルピンの児童養護施設を目指す。
ガソリンスタンドで燃料の補給をして、コーヒーを調達する。
セルフサービスのコーヒーマシーンは表示がウクライナ語で、何が書いてあるか僕にはわからない。
が、日本語で「すんません、これ使い方わかんないです。どこを押せばいいですか?」と店員さんに尋ねたらウクライナ語で「カップのサイズはLね。なに飲むの?アメリカンコーヒー?じゃあこれ押して。」とコミュニケーションが通じる。
その様子を見ていたTravisが笑っていた。
移動開始。
「物を届ける」という活動は7割が移動(運転)、1割が荷下ろし、1割が荷積み、1割が荷物整理。
今日はメディカに帰るので、700kmちかい移動だ。
Simonはイギリス英語を話す。Travisはアメリカ英語を話し、僕は拙い日本英語を話す。
3人ともウクライナ語もポーランド語も話せないし読みないし書けない。
次の動画を見てほしい。
Simonは「ポケトーク」の端末を持っていた。
ちなみに僕はアプリ版のポケトークを準備していたが、2回しか使わなかった。
イルピンまで5km、ドミトリフスカ。
2022年の2月24日からベラルーシ領からキーウを目指し南進したロシア軍は、イルビニ川を防衛線としたウクライナ軍と激しい市街地戦を展開した。
戦闘は4月3日のロシア軍のキーウ州撤退まで続いた。
ドミトリフスカはキーウの中心部から30kmの場所。
破壊された戦車が5輌、道路沿いに放棄されていた。
昼過ぎにイルピンに到着する。
閑静な住宅街で、通りを人々が歩いている。
犬を連れている人、ショッピングバッグを下げている人、自転車に乗っている人。
よく晴れていて、空気は乾燥していて風が吹いて空は真っ青でとても気持ちがいい。
日向は暑いが風の通る日陰に入ると涼しい。
この一帯で、首都を防衛するための地上戦が繰り広げられた
Googleマップを頼りに目的地の児童養護施設を目指す。
路地を抜け、未舗装の道に揺られているとエンジンから不穏な音が聞こえ始めた。
最初は「む、異音?」という程度の音だったのが、あっという間に「お、これはダメかもしれない」という音に変わる。
こういう時はとりあえずボンネットを開けてみるのだ。
そして覗き込む。
そして無駄だとわかっていても一通りいじってみるのが異音の初期対応として正しい仕草なのである。
その間も車からは正しい異音が正々堂々と聞こえてくる。
やがてSimonが謎のチューブを発見する。
「なんだこれ、何にも繋がれてないぞ?」
Simonよ、チューブが外れたくらいであんな異音はしないのだよ。
原因がわからない、というのはとてもストレスになる。
暑いし、ここどこかわかんないし、なんとなく迷ってるし、車は壊れてるっぽいし。
だが我々のようなプロの中年は、多少のことでは動じないのである。
これは明らかにダメだな、とわかる異音がしてもTravisは目的地を探し、僕は記録を残し、Simonは水を飲む。
おっさんたちは車が壊れるくらいのことではびくともしないのだ。
異音を轟かせながら数百メートル走って目的地へ。
児童養護施設の職員たちは、迷っていた僕たちを通りまで迎えに来てくれた。
4棟の建屋が塀で囲まれた敷地内に点在している。
新生児から8歳児までの孤児を受け入れる孤児院と、障害を持つ子供たちと親のためのデイサービス、保育・託児のサービスを展開しているとのこと。
「ひとまず中を見ていって」と快く受け入れてくれる。
応対してくれたのは英語が話せる事務スタッフ、医師、看護師、所長の4名。
彼女たち以外にも総勢20名ほどのスタッフが働いているという。
我々がお邪魔した時間はちょうどおやつの時間。
子供達は行儀良く座って静かにクッキーを食べていた。
そこに髭もじゃの巨漢2人とその他1人(僕のことですけどね)が口々に「こんにちは!ハロー!グッドアフタヌーン!」と言いながら部屋に入ってきたものだから、キッズたちは泣き叫ぶかと思いきや一様に驚きの表情を浮かべて「変な奴らが来たな。」と冷静な反応だった。
施設内を見学し、ひとまず支援物資を運び込む。
シェミシルで調達した生鮮食品(ジャガイモ、玉ねぎ、キャベツ、オレンジ、リンゴ、バナナ)とベビーフードとオムツ。
手から手に、確実に被災者に物資が届けられていること寄付者に伝えられるように、ABWのパネルといっしょに写真を撮ってもらう。
ABWのパネルにはWDRACのロゴも加えられている。
ひとしきり作業を終えたところで、所長室に案内されて我々もコーヒーとクッキーのおやつをいただく。
90年以上の歴史があるこの養護施設も戦場になったこと。
スタッフそれぞれに様々な被害があったこと。
熱心に話してくれる。
イルピンで戦闘が始まる予兆を感じ取り、スタッフは子供たちとキーウ中心部に避難したという。
言葉の壁は確かに存在するけど、お互いにわかり合おうという意図があるということが理解できれば何の問題もない。
キーウ近郊には25ヶ所の養護施設があり、年齢によって施設の場所が区分されている。
この施設は0歳から8歳までの孤児を受け入れていて、1歳以下の乳児たちは大半が戦災孤児で両親を亡くしている。
施設の運営は国からの補助と有志からの寄付、ボランティアの活動によって成り立っている。
今回のベビーフードとオムツはキーウ近郊でも品薄で、とても助かったとのこと。
おやつを食べる幼児たち、プレイルームで遊ぶ乳児たち、園庭で遊ぶ未就学児たちの顔は、屈託の無い笑顔でおそらく初めて見るであろうアジア人を見ても怖がりもしなかった。
所長室の片隅に、この施設で育った子供が描いてくれた日本のアニメの絵が飾ってあった。
私たちの日本は、この絵を描いてくれた子供にはどう映っているのだろう?
僕は年齢を重ねていろんな経験を積んだり、ラッキーなことに家族を持てたおかげで、親を亡くした子の気持ちと、子を亡くした親の気持ちの両方が想像できるようになった。
知らない誰かに政治的な理由で肉親を殺されたとしたら、僕はどんな行動を取るだろう?
妻や娘たちが殺されたらどうするだろう?
考えても答えがすぐには出ないことだけれど、実際に家族を殺された人たちと接することでこの問いが頭の中をぐるぐると回る。
スタッフの皆さんと記念撮影、ハグをして養護施設を後にする。
次の目的地はSimonの知り合いの家。
車で5分、イルピン川のたもと、市街地戦の最前線だった場所。
虐殺のあったブチャは通りを隔てた向こう側で、10分もかからない。
事前に連絡はしてあったものの不在だった。
国道から少し入った、100軒ほどの家が並ぶ住宅街。
焼かれた家、壁に無数の弾痕が残る家、改修して綺麗な家。
地震・津波・台風による災害と水害は多く目にしてきたこともあって、この周囲の状況に違和感を感じた。
しばらく観察して違和感の理由がわかった。
天災はそのエリア一帯を破壊するが、人災(戦争、特に地上戦)は建物すべてを破壊しない。
奪われるか、残されるか。
戦争がコミュニティを分断していく様子を目の当たりにした。
壁に無数の弾痕が残る家。
このエリアは3月の下旬までウクライナ軍とロシア軍の地上戦が続いた。
1年4ヶ月前のこのあたりの様子が残っている。
ロシア軍の戦闘車両がキーウ中心部に入れないように、ウクライナ軍と領土防衛隊はイルピニ川にかかる複数の橋を破壊した。
戦闘が収束した3月下旬から1年3ヶ月経つが、橋はまだ復旧していない。
キーウの中心地、メディアでよく目にする独立広場(ミカエル像が有名ですね)や戦争博物館の祖国記念碑(祖国の母の像として知られていますね)までは車で15分ほどの場所にいたので、「せっかく来たんだからちょっと見に行くか」ということもできた。
が、そのあたりは我々プロの中年の矜持か、「とっとと仕事を終わらせてメディカに戻ろう」と脇目もふらず時間を惜しんで次の目的地であるリビウの避難所に向かう。
もちろん、エンジンの異音と共に。
これから起こる出来事は、「だから車を買うためのお金を寄付してくれと言ったじゃないか」ということを立証してくれる。
しばしお付き合いください。
P30からE40へ、フリーウェイに入って1時間30分。
ジトーミルを抜けてリヴネまであと1時間というところでついにエンジンが止まる。
ハンドルを握るTravisは極めて冷静に「エンジンが止まったぜ」と惰性で走る車を路肩に寄せる。
しかし我々には奇跡が起こる。
車が自然に止まった場所は、ガソリンスタンドの脇である。
WOG。
冷暖房完備の売店とトイレ、Wi-fiと電源もある完璧なガソリンスタンドの脇に止まった。
奇跡は起こるが嫌な予感しかしない。
さらに奇跡は続く。
車を降りてガソリンスタンドに向かったSimonは、スタンドの隣にあるガレージが併設されたカー用品ショップに聞き込みに行く。
調整や交渉は彼の得意領域である。
ほどなくしてカー用品ショップから出てきたSimonが我々のバンの元に戻ってきた。
ところでこのバン(走行距離15万kmの古いプジョー・エキスパート)にはニックネームがある。
Bettie(ベティー)である。
女性名詞なので、我々は車のことを「She」と呼ぶ。
「彼女を酷使しすぎてしまった俺たちに責任があるんだ」
「もっとたくさんキスをしてあげればよかった」
「実はキス以上のことをしたから気を失ったんじゃないか」
などと呑気にバカ話をしていると、ボロボロの車に乗った迷彩服の男が無言で近づいてきた。
ウクライナ語なので何を言っているのかわからないが、僕クラスになると魂レベルで何を言ってるのかわかるのだ。
曰く、「牽引するからフックを探せ」と。
彼は自動車修理工だった。
名前はわからない。ほとんどしゃべらないからだ。
後に彼は我々に勝利をもたらしてくれたので、名前を「ヴィクトル」としておこう。
ガソリンスタンドの裏手、200mの場所にヴィクトルの自動車修理工場があった。
ヴィクトルは、Simonが交渉したカー用品店の店主から連絡を受けたというわけだ。
さっそく牽引されて修理工場に向かうベティ。
時間は午後2時をちょっと過ぎたところ。
とても暑いが乾燥しているので日陰は涼しい。
ヴィクトルは黙ってボンネットを開けて黙って覗き込む。
空が広くて気持ちがいい。
修理工場は大型トラック専門のようだ。
やがてヴィクトルが口を開く。
何を言っているかわからないのでアプリを使う。
「オルタネーターが壊れておる。交換する。部品を取りに行ってくるから待っとけ。3~4時間で終わる。」
それだけ言い残して彼はどこかに消えた。
ふと空腹に気づく。
朝からコーヒーと水以外のものを口にしていない。
しばらく時間はかかりそうだし、とりあえずWOGに調達しにいく。
首輪をつけた犬が放し飼いにされていて、僕のあとをついてくる。
空は青く雲は白く、ほどよく車通りがあってWOGの店内とレモンティーは冷えていて、ホットドッグは温かい。
修理工場に戻り、暇なので日本のメンバーに急遽Zoomをしたり、SimonとTravisに「こんなとき、我々はどうあるべきか」ということをインタビューしたりした。
大変ありがたいことに、修理工場はWi-fiを開放してくれていてトイレもあって少し溜まったメールの返信や仕事の類を進めることができた。
Travisの言うように、実に我々は幸運だった。
「これが夜で、ひとけのない場所で、携帯電話の電波も入らないところだったらと思うと」などと考えた時に、「まあそれはそれでおもしろい土産話ができるだろうな、来た道を引き返して明るくなるまで歩けばいいし」と思ってしまうあたりが我々中年3人組のプロたる所以である。
しばらくするとヴィクトルが中古のオルタネーターを手に戻ってきた。
オルタネーターは、エンジンの回転数を利用してバッテリーに蓄電するための発電機で、水に浸かると壊れる。
ここまでの悪路で幾度となく水たまりや穴に突っ込んだり、強い衝撃を与え続けていたのでシャフトが折れて発電が止まり、蓄電も止まり、ベティも止まった。
助手の若手、アレクセイ(仮称)とボンネットを覗き込みながらパーツを交換する。
取扱説明書などない。
そして午後6時11分、遂にベティーが息を吹き返す。
奇跡はまだまだ続く。
エンジンはかかった。
オルタネーターも交換した。
我々はこれでメディカに戻れる。
だがこのままここを立ち去るわけにはいかない。
そう、支払いだ。
修理を待つ間の我々の話題はこのお金の話が中心だった。
「どうする?めっちゃぼったくられるかもよ?」
「いやあ、でも20万円はいかないっしょ」
「わかんないよ、財布全部置いていけ、車の中身も全部置いていけとか言い出すかもよ」
などと散々なことを好き勝手に言っていた我々。
Simonがアプリを使って交渉すること1分、ヴィクトルはこう言った。
「4,000フリヴニャ」
ちょっと待ってね、計算するから。
15,000円!
日本の相場だって7~10万円はするのに。
ヴィクトルの言い分はこうだ。
「お前たちは遠い国から我々を助けるためにやってきた。助けるためにやってきたお前たちを我々は助ける義務がある。お前たちを助けることが同胞を助けることにつながるからだ。」
漢(おとこ)、ヴィクトル。
部品代の実費だけを請求して、工賃なども取らず、我々の事情を察知し笑顔ひとつ浮かべずに仕事をやりきるヴィクトルであった。
我々は丁重にヴィクトルたちに礼を述べ、修理工場を出発した。
すっかり夕方になったが、息を吹き返したベティーを祝福するかのような夕焼け。
地平線にゆっくり日が落ちて空が朱色に染まる。
午後10時30分、リヴィウの北に位置するブリウホヴィチに到着。
教会が運営するリトリートセンターが避難所として使われ、50人程度が身を寄せているという。
夜も遅い時間だったが、ボランティアリーダーを始め避難者たちが荷下ろしを手伝ってくれた。
これで今回の配送物資をすべて配り終えることができた。
ブリウホヴィチを出て、リヴィウを抜け、M11に戻りポーランド国境に着いたのは深夜0時過ぎ。
ここでも車列ができていたが、乗用車の数はそれほど多くなく1時間ほどで国境を通過することができた。
Travisは検問所近くの駐車場に停めてあるもう1台のバンを引き取りに行く。
メディカで活動していた他団体に車を貸したところ、3ヶ月以上返ってこなくて連絡があったかと思えばこんなところに停めちゃったんだよ、とSimonが教えてくれる。
2011年、石巻でも同じようなことがあったっけ。
往路と同じように、ウクライナの検問所にパスポートを提出、車内と書類チェックを終えてポーランドの検問所へ。パスポートを提出して同じように社内と書類チェックを終えてメディカへ。
84の周囲には相変わらず30人くらいの難民が溜まっている。
深夜1時、ようやく今日の仕事が終わる。
ふと夕飯を食べていないことを思い出すが、シャワーを浴びてベッドに潜り込む。
Travisも戻ってきた。