蕎麦のはなし


【 #安曇野レポート 9】

蕎麦の花。

信州の食と云ったら、何を置いてもまずは蕎麦やとおもう。
(「いや、虫だろう!」とか「いやいや、きのこだろう!」とか「栗鹿の子以外は認めない」とかあるでしょうけども)

行ったときがちょうど蕎麦の花の開花時期でしてね、初めて見れました、蕎麦の花と蕎麦畑。

現代のボクらが「蕎麦」と云うと、最初に思い浮かべるのは「切り蕎麦」のことだが、切り蕎麦の歴史というのは案外浅くて、江戸時代の初期となる。

縄文時代の地層から、蕎麦の実は見つかっているのだが、江戸時代までどういう風にして食べていたかというと、今で云う「そばがき」や、「雑穀粥」だったそうな。

それは、製粉技術がまだ発達していなく、粉にするのは重労働だったからなんだと。

鎌倉時代に大陸から石臼が入ってきて、日本の粉もん文化が大変に成熟するが、それについてはまた今度。

8世紀くらいに、ときの宮廷僧侶が長野に行って、地元のひとの家に泊めてもらった際の記録に、

「なんか、長野の土人ん家に泊まったら、蕎麦が出されて、くっそ不味かったし、蕎麦を客人に出すってマジありえねえワロス」

という事が書いてある。

宮中の人間とは云え、一応僧侶である。粗食には慣れているはずであるのにこのレビューである。しかも、ご馳走に預かっているのにだ。如何にこいつの性格が悪いかがうかがわれる。

この時代の蕎麦の評価は、けれどそういうものらしく、飢餓の際に食べるもの というカテゴリらしい。

今の感覚で云うと乾パンとかか?

現代でも、東京に蕎麦の名店が多く集まり、うどんと同じように「関東風、関西風」と、つゆが分かれる。
今も変わらず、蕎麦ツウは東京のひとが多い。

これにはベースがあって、江戸時代、江戸の街でおおいに蕎麦切りが流行った。

なぜ流行ったかと云うと、栄養価が高かったからだ。

当時、栄養不足から脚気(かっけ)という病が流行り、「脚気は不治の病」という捉え方だったのだが、栄養価の高い蕎麦が、蕎麦切りという食べやすい形と味になると、脚気は不治の病ではなくなった。

蕎麦に含まれているビタミンなんちゃらが防いだのだ。

画して、江戸っ子に蕎麦切りが浸透し、元々粗食という安価なのもあって、爆発的に流行った。

ところで、関東風の蕎麦つゆが濃い味付けなのは、別に、その味が良しとして成ったわけではなくて、蕎麦屋が手間をかけないためなのである。

ざるそばが好きな人は、ボクもそうなのだが、2枚3枚と頼む。
それについてくる蕎麦つゆは、猪口に一杯。
ざるを食べていると、どうしてもつゆが水分で薄くなる。
客は店主に蕎麦つゆのおかわりを頼む。
店主はその手間を省くために、最初から濃い味付けのつゆを出して、
「これがツウの間ではイケているんですよね」
と云うと、江戸っ子は
「お?そうかい?おお、こいつぁいいや!ツウはやっぱしこうじゃなくっちゃな!べらんめえ!」
と成ったそうである。

そして、そのつゆがとっても濃いので、「蕎麦はなぁ!ほんの端っこだけをつゆにチョロっとつけて食うのがイキなんだよい!」と、成った。

なので、蕎麦切りを学ぶにあたって、江戸っ子の性格とかも考慮しないと本質には近づけないのである。

その見栄っ張りな江戸っ子も、実は蕎麦つゆにたっぷりとつけて食べたいのだそうな。

川柳に詠まれているのだが、内容はだいたいこんな感じである。

「死ぬ前に一度でいいから蕎麦をつゆに思いっきりつけて食ってみてえ」

と。

全部、落語で覚えた蕎麦のお話しでした。

御粗末でした。