女郎蜘蛛

少し前に、庭のハナミズキとタラの木にかけて、大きな巣を女郎蜘蛛が作った。

ほれぼれするほどに精巧な造りで、洗濯ものの上げ下げや(物干し竿に近いのだ)、庭いじりのときなどには、触れて壊さぬよう気をつけたり、ときには手を止めて見入ったりなどをして居る。

女郎蜘蛛の巣というのは、ほかの蜘蛛の巣と違い、平面ではなく立体的に作ってあったり、編み目に規則性が少なく、その個体の独自性が見られるので、私は好んでいるのである。

この女郎蜘蛛は、左手側面の前二本の脚が欠けている。
脚の中でも重要であろう太い二本を失くし、不便であろうが、それでも器用に獲物に糸を巻く動きなどを見ていると、ほほう、と感嘆したりするものだ。

なので、なるべく良い獲物がかかればよいと、応援する気持ちにもなってくる。
これは、決して憐憫などという下劣な慰めなどではなく、もっと上等な、喩えるならば、同志に向けた敬意や"励"に似た心持ちのことである。

その女郎蜘蛛に、この度縁談が持ち上がっているのだ。

お相手の女郎蜘蛛(雄)は、この女郎蜘蛛と同じような色形をしているのだが、大きさは彼女の2割ほどだ。

彼女の巣の、端っこのほうにちょこんと座って、居候を決め込んでいる。

女性のほうがたくましく豊かなのは、人間にしても左程変わりはないので、差もあらん。

蟷螂にみられるように、後尾の際に雄は食べられる可能性が高いらしく、女郎蜘蛛の雄は、雌が食べている際中にしか行動に移さないと何かで読んだ。

今日、たまさか彼女が蝿を獲ったところに出くわした。


さて、雄はどう出るのであろうかと、興味深く見ていると、そろりそろりと、やはり近づいて行った。

交尾を視るというのは、それもまた下賤な品性だとは思うのだが、ここはひとつ、知的好奇心を満たすという、誠に持って使い勝手の良い高等な言い訳をじぶんに用意して、観察を決め込んだ。

然しと云うべきか、やはりと云うべきなのか、雄が近づくと、雌のほうも緊迫するらしく、食餌の手を止め辺りに意識を持っていったのが分かった。

それを察して雄のほうも動きを止め、ときに後退し、ときに横に移動し、などを繰り返し、想いの丈は如何程なれど、結局は交尾には至らなかった。

男子たるもの、此処ぞという時は蛮勇でなければならんぞと、彼に嘆息を吹きかけ、私にもまたそれをおもう。

これもまた、同じ志をもつ同士の激励でもあるのだ。

女郎蜘蛛は、その姿や色から忌避されがちだが、私は、その奇異に視られていることを物ともせずに、強くたくましく、我の欲するままに生きているあの姿勢が好きだ。

たとえ手脚を欠こうとも、私は私として生きるのだ。

そう、女郎蜘蛛が云ってくれているようにおもえた。

彼女が子を成して、来年またその子に逢えたらよいとおもう。

命は連綿とつづいて、慈愛と勇気は育まれ、その先にあなたが居て、光のなかで、生きるということ。