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After The Gold Rush

流行りものは追わずとも、向こうからこちらに近づいてきた。だが、53歳の今は違う。ほっといても時代の変化に対応できていたのは、すべて錯覚だった。インスタグラムはいつのまにか正方形の写真の世界では無くなり、縦位置の動画にジャックされていた。錯覚は若者の特権なのだ。それを自覚して以来、ふてくされるように古い音楽を聴いている。

ニール・ヤング「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」は彼のサードアルバムの表題曲。発表された1970年は、世界各地でさまざまな環境汚染が社会問題となっていた。世界最大級の環境団体へと成長する「Friends of the Earth」がサンフランシスコで設立されたのは1969年。同じ年にリチャード・ニクソン大統領が「人間と自然が生産的に共存し、社会的、経済的な欲求を満たす」ことを目的とした国家環境政策法(National Environmental Policy Act)に署名し、併せて環境保護庁を立ち上げた。翌年の4月22日には、ゲイロード・ネルソン上院議員が呼びかけ、スタンフォード大学の大学院生だったデニス・ヘイズがオーガナイズした、第1回「アース・デイ」が催された。

核戦争によって地球が荒廃し、やがて崩壊していくさまを寓話的に描いた「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」は、そんなアメリカの〈環境保護元年〉に誕生したわけだが、この曲ができるきっかけには、さらに別のスパイスが含まれている。

アルバムの裏ジャケットにクレジットされているとおり、俳優のディーン・ストックウェルが、名曲誕生に一枚噛んでいる。ディーンは俳優一家の出身で、年端も行かない頃から映画や舞台で活躍していた。子役時代にはフランク・シナトラやフレッド・アステアのような輝かしいスターと共演していたが、成長するにつれ、どこにでもいる器量の良い若手俳優となり、出演作にも恵まれなくなっていく。やがて、ショービズ界の片隅でくすぶるようになった彼は、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンやニールたちと仲良くなった───おそらくは麻薬仲間として。

ある日、ディーンはデニス・ホッパーに脚本を書くように勧められた。そこで旧知の脚本家、ハーブ・バーマンと共同で映画の台本を書き上げる。タイトルは「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」。ある致命的な出来事が起きて、地球が滅びる……という内容だった。ラストシーンはロサンゼルスのトパンガ(ハリウッドの西側の山岳エリア)にあるヒッピーの溜まり場の牧場に津波が押し寄せて、人々が飲まれてしまう───その中にはニール・ヤングやジョニ・ミッチェルもキャスティングされていた───というエンディングだったそうだ。

「もし、この映画が作られることになったら、サントラをプロデュースしてくれよ」とディーンはニールに依頼した。そして、この台本からインスパイアされて、アルバム『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』に入っている曲のほとんどをニールは書いた。映画の企画は進まず、当然のようにポシャったが、ニールの楽曲はアルバムの中で永遠の命を得ることになった。

18世紀の終わり頃、カリフォルニアで起きたゴールドラッシュ。ひと握りの人間に莫大な富をもたらしたいっぽうで、一攫千金を求めて、世界各地から集まった人のほとんどに十分な見返りは無かった。とはいえ、東海岸と西海岸をつなぐ鉄道、蒸気船といったインフラが整備され、砂金採りを諦めた人々がスコップを鋤や鍬に持ち替えて、カリフォルニア州を砂漠から一大農産地に変貌させた。また、労働者のために作られたジーンズは偉大なる副産物として、21世紀の今でも生きながらえている。

しかしながら、先住民族や移民たちが迫害を受けて殺されたり、得体のしれない化学薬品が河川や土壌に撒かれ、環境はいちじるしく損なわれた。ゴールド・ラッシュの後には負の遺産が山積みになった。

愛と平和を、地球を大切に、とヒッピーたちが声高に叫び、世界は少し変わったように見えた。だが、女優のシャロン・テートはチャールズ・マンソンたちに惨殺され、ニール・ヤングも出演していたオルタモント・フリー・コンサートでは、警備を任されていたヘルズ・エンジェルスが、ティーンエイジャーの観客を刺殺した。

アルバムの裏ジャケにデカデカとあしらわれたパッチワークだらけのジーンズの尻が、輝かしい夢や未来、繁栄の後に取り残される、つぎはぎだらけの過去を象徴しているようだ。


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