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もしあの時

「麻衣子、週末ブリスベン行かない?」
「いいよ、八重子さんも行きたがってたよ」
 健が麻衣子に尋ねると、彼女はそう答えた。健にはベンチに座ってタバコを吸う麻衣子の姿が猫背のテディベアのように見えた。
「そうなんだよ、行きたがってたけど、最近疲れていそうで誘っていいか迷ってるんだ。日本の仕事も忙しそうだし」
「健ちゃんが誘えば絶対行くと思うよ」
「そうかな、じゃあ行くことになっても、八重子さんには無理させないようにしよう」
「オーケイ」

 麻衣子は健に週末のお出かけに誘われた時、昨晩の八重子との会話を思い出していた。
「健ちゃんが最近元気ないのよね。今週末にブリスベンに行きたんだけど、車出してくれるかな」
「八重子さんが誘えばきっと行くと思うよ、聞いてみないとわからないけれど」
「そうかなぁ。じゃぁ健ちゃんが週末出かけたそうなら、ブリスベンを提案することにしようかな。でも毎日遅くまで働いて大変そうだから、無理強いはしないようにする」
「そうだね」

 麻衣子は考えていた。健と八重子の関係は、お互いがお互いを思いやりすぎて進展しにくい関係だ。もし私が二人の間からいなくなったら、この二人は遠慮しあって何もできなくなってしまうのではないだろうかと。

 そして週末、三人は別のチームに所属していた若い日本人、静江を捕まえて、四人で出かけることにした。四人は、日々の送迎に明け暮れ砂埃を積み上げたバンに乗り込み、最寄り駅まで二十分ほどかけて至った。一時間ほど電車に揺られると、四人はブリスベンのセントラルステーションに着いた。駅を出ると向かいに真っ赤なレンガの建築物が皆の目に入った。ビクトリア朝を思わせる荘厳な建物だが、その内実はバックパーカーや旅人向けの安宿であった。このアンバランスな空間が健は好きであった。宿の前に設置された長椅子には、何かしらの中毒で社会に適合できなくなったであろう人々が屯し、タバコや酒をせがんできた。建物の内部には、手動のシャッターが付いた、骨組みや滑車が丸見えのエレベーターが稼働していた。その手前には受付カウンターがあり、愛想の良い欧米人が笑顔で接客していた。四人は受付を済ませると、ガシャガシャと騒がしいエレベーターの横の階段で三階まで上がった。階段を上がる途中で何人かの先客とすれ違い、挨拶を交わす者もいれば、何食わぬ顔で通り過ぎる人間もいた。
 四人は二人部屋を二つ予約していた。健と八重子、麻衣子と静江の組み合わせで分かれた。彼らはそれぞれ荷物を部屋に放り込むと早速街に繰り出した。麻衣子はランチのお店を事前に決めていて、三人を引き連れて先頭を進んだ。ブリスベンの街にはそこかしこの信号の支柱に吸い殻入れが設置されていた。少し開けたところには大型のものも設置されていて、それを見つけるたびに麻衣子は健の様子を伺った。屋内での喫煙が厳しく制限されているオーストラリアでは、食事中に店内でタバコを吸うことは難しかった。テラス席であれば吸える店もあったが、これから行く店では吸えないだろうと麻衣子は考えていた。すると、八重子が健に尋ねた。
「健ちゃん、タバコ大丈夫?」
「あ、大丈夫っすよ。ご飯食べてから何処かで吸えれば」
「OK、じゃあお店行こう」
「シーフードの店だっけ?麻衣子、調べてくれてありがとね」と八重子が麻衣子に尋ねた。
「そう、でっかいエビが食べられます!」と麻衣子が答えると、静江が飛び跳ねて喜んだ。
「エビ!私エビ食べられへんけど楽しみ!!」
「え、アレルギー?」健がそう訊ねると、静江はただの好き嫌いだと言った。健は、それでは何が楽しみなのかと問おうとしてやめた。健は静江のこの天真爛漫で素直な様に憧れていた。
「じゃぁ食ってみようよ、オーストラリアの海老は日本のエビと違うかもしれないよ」健が静江に提案した。
「たしかに!ちょっと試してみますわ!」

 四人が店先に着くと、そこにはテラス席があり、灰皿が設置されていた。麻衣子は、振り返って八重子と話す健の横顔を眺めた。「吸わない人がいるのに食事中のテーブルでタバコ吸うのはマナー違反」と彼が話していたのを思い出した。八重子も静江もそんなことを気にする人種ではないことを麻衣子は知っていたし、そのことは健も理解していたはずだったが、それでも自分の行動規範を崩さないのがこの男であることを麻衣子は知っていた。
「めっちゃ良いとこですね!オサレ!」と静江が無邪気な笑顔で言った。
 四人は木製のテーブルと椅子で構成された屋外の席に着くと、二つのメニューをそれぞれ分かれて見始めた。麻衣子と静江、八重子と健。自然と別れたその組み合わせは、店の少し手前の一同の歩みや到着時の各々の身のこなしによって予定調和的に図られた結果だった。それぞれが好みのメニューを告げあい、賞賛を与えあった。膨らんだオーダー案をカテゴリや量を考慮してまとめ上げるのは健の仕事であった。
 観光客の扱いに慣れた様子の店員に注文を伝え終えると、一同はこの後の予定について話し始めた。一泊二日のブリスベン滞在期間中の食事については、事前に麻衣子が予定を立てていた。いつもなら健が担当するところだが、八重子との相談の結果、今回は麻衣子がその役を買って出た。麻衣子は今日の夕飯と、明日の朝食と昼食について、皆に予定を共有した。
「夜ご飯は、お肉です!!」
「お肉です!!」と静江が繰り返す。
「お肉!お肉があれば世界は平和です!」と健が同調して、さらに付け加えた。
「いや、牛さんのゲップが温暖化に影響しているという噂も…何肉ですか!?」
「牛肉です」と麻衣子が不敵な笑みを浮かべて、艶かしい目線を健に向けた。
「そうですか。では、私が牛さんのゲップの分のメタンガスを吸ってしまいましょう!!」健が立ち上がって深く呼吸をした。女性陣が頬の筋肉を大きく吊り上げて笑った。
「明日の朝は何になりますかー?」と静江が気の抜けた声で尋ねた。
「カフェに行きます。7時からやってます」
「はや。オージーってほんま優雅な生活してますよね」
「我々も彼らに倣って、朝カフェです。二人も遅れないように」
 麻衣子と静江が間を置いて八重子と健の方に顔を向けた。
「いやいや、どう考えても麻衣子の方が起きられるか心配でしょ」と健が言うと、八重子も同調した。
「私はやるときはやる女です」麻衣子がそう言って、鋭い目つきを健に投げかけた。
「よっ麻衣子姉さん!私が起こすんで任せてください!」と静江が茶化した。
 会話が途切れるのを見計らったようにして、細身の体の天辺に金色の糸を束ねたウェイトレスが飲み物を配膳した。にこりと健に向けられた目は青かった。健と麻衣子はビールを取り、静江はコーラ、八重子はアイスティーを受け取った。
 それから焼いた北寄貝が添えられたサラダに、ムール貝の酒蒸し、シュリンプのガーリックソテーが小柄なアジア系の女性店員によって運ばれてきた。
「うわっめっちゃ海鮮!」と静江は気分を高揚させて言った。
「ちゃんとエビも頼んどきました」と健が言った。
「あ、エビってこれですか?あの頭と足のついたやつじゃなくて?」
「あぁ有頭エビ?殻付きの?」
「そう、それです」
「それはメニューに無かったんじゃないかなぁ。こっちの人はあんまり内臓系食べないって聞くし」
「え、そうなんですか。私これは食べれます。めっちゃ好物です」
「はー?エビ食えないって言ったじゃん!」
「いや、あの足とか目とかが無理なんすよぉ」
「なんだよ、話が違うよーじゃぁこのロブスターのモルネーソース焼きも頼まなきゃじゃん」と健がメニューを指差して言った。
「モルネーってなんすか?」
「なんかチーズ入りのホワイトソース的なやつだと思う」
「うわ、絶対美味いやつじゃないですか」
「断然食う気じゃん」
「今日なら行けそうな気がします!とりあえずこのニンニク臭強めの海老さんをいただきます」
 二人が問答を繰り広げている間に、八重子と麻衣子はそれぞれ、サラダとムール貝を小皿に取り分け、配膳していた。静江と健は二人にお礼を告げて、食事にあり付いた。

 食事を終えると、一同は興味関心の赴くままに街を練り歩いた。
 急な坂を降りると、香ばしいナッツの匂いが漂ってきた。健と麻衣子はほぼ同時にチョコレート屋があるのに気がついた。
「美味しそー」と麻衣子が無感情のままほぼ反射的に唱えた。
「良い匂いだねぇ入ってみる?」と健が尋ねた。
「いや、今買うと溶けちゃいそうだから、帰りに覚えていたら買う」
「オッケー」
 健は麻衣子がカロリーを気にしてチョコレートを控えたことを知っていた。また、一度店に入って仕舞えば、買わずにはいられない自分の弱さを麻衣子が自覚していることのも気がついていた。
 健が麻衣子のずんぐりした後ろ姿を眺めながら歩いていると、静江が叫んだ。
「健さん!あれ見て!!やばい!!」
 静江が指差した先には、五メートルほどの高かさに、三メートルはあろうかというまん丸のピエロの顔が浮かんでいた。それを見た健は、眉を顰め、口を台形に開いて一瞬止まった。
「なんやねん、あれ」
「ははっ、健ちゃん好きそう」
 健のリアクションを見て、八重子が笑いながら言った。
「キャンディ屋さんだ!麻衣子さん!行こ!」と静江が麻衣子の手を引いて走り出した。麻衣子の揺れる体には、嬉しそうな笑顔が冠されていた。
「なんかアドバタイジングに負けた気がするな」と健はぼやきながら二人のあとを追った。八重子は変わらず健の横に一歩下がって寄り添っていた。
 店内はパステルカラーで彩られ、壁には大きなユニコーンと虹が描かれていた。健はこのファンシーな空間の窓に反射した、長髪髭面の自分と目が合って苦笑いをした。健は八重子にタバコを吸ってくると言い残して店を出た。
 店は大きな歩道を挟んだショッピングストリートにあった。ブリスベンの中心部には、そもそも車が入れない歩行者天国のような道がいくつか交差していて、その道沿いには個性的な商店や大型商業施設、銀行、国際的なファストファッションブランド等、都市に必要な機能がほとんど揃っていた。
 健は道に点在するベンチの一つに腰掛けて手巻きタバコを巻いた。ベンチは大きな貝殻のような形をしていて、湾曲した座面は小柄なアジア人の体格にはあまり合わなかった。タバコに火をつけると、パチパチと空気の爆ぜる音がした。まだ明かりの灯る気配のない街灯に備え付けられた筒状の灰皿に積もった灰を払うと、健はベンチの裏側に日本人カップルが座っていることに気がついた。
「私、H&Mにも行きたい」と女性が言った。
「オッケー、行こうぜ」
「あと、あそこのジェラートも食べたい」
「どっちさっき行く?」
「ジェラる」
 そういうと二人は立ち上がった。健は二人が大きなカップのシェイクを交互に飲みながら、大通りを右へ曲がって行く姿を眺めていた。
「健ちゃんどうしたの?」
 健が振り向くと、そこには八重子が立っていた。健の右手には綺麗に燃え残った灰と湿気が張り付いていた。
「いや、日本人カップルがいたから」
「珍しいね」
 八重子はブリスベンに日本人カップルがいることがそんなに珍しいことではないと思ったが、健の意図を汲みかねて応えた。
「うーん、珍しいというか、なんか不思議だった」
「何が?」
「うーん、シェイクを飲みながらジェラート屋に向かったこと?」
「お腹壊しそうだね」
「そうだよね、俺ならお腹壊す。八重子さんジェラート食べたい?」
「うん、食べたい!あそこのジェラート好き!健ちゃんは?」
「どちらかと言えば食べたい。二人も行くかな」
「どうだろう、なんか沢山甘いもの買い込んでたよ」
「まじか。それはそうと、俺がジェラート屋に誘ってなかったら、それでも八重子さんはジェラート屋に行きたかった?」
「え?どうゆうこと?」
「うーん、俺たちは確かに彼らが向かったであろうジェラート屋に言ったことがあって、あそこの味を知っていて、思い出せば食べたくなることもある。でも何もなければ思い出すこともないし、食べたいとも思わない。今日はたまたま俺がカップルの会話を聞いて、彼女がジェラートを食べたそうにしていたから、もしかしたら八重子さんもジェラートが食べたいかもしれないと思いついたけれど、そうでなければジェラート屋へ行くという提案は生まれなかったと思う。その場合、今日はジェラート屋に行くという世界にはならなかったわけだけれど、あのカップルを目撃したことによって、この世界は俺らがジェラート屋へ行くという世界に変わってしまった。もしかしたら、彼らに会わなくてもこれからの道中で結局ジェラート屋へ行く切欠が必ずある世界なのかもしれない。そんなことを考えているわけです」
「なるほど。私は積極的に運命論を信じているので、どちらにせよ私たちはジェラート屋さんへ行くことになったと思う」
「じゃぁここであえてジェラート屋へ行かない選択をしても必ず我々はジェラート屋に行き着いてしまう?」
「そう思う。そう信じてる」
「なるほど」
 健はそう言うと、八重子が「信じてる」と言った感覚は、彼女が「そうしたい」と意志する感覚に近いのではないかと考えていた。彼女がそうしたいなら、健はその世界を全力で叶えたい、そのような想いを抱いた。

 ファンシーなカラーのバケツを抱えた二人の日本人がキャンディショップから出てきた。四角いサングラスの下に明るい髪色を隠し膨よかな肉体を揺らしているのが麻衣子で、赤いマウンテンパーカーを羽織り八重歯を剥き出しにして笑っているのが静江である。
 麻衣子は奇妙な形のベンチの近くで立ち話をする健と八重子を見つけた。麻衣子が「いた」と呟いて視線の先に歩を進めると、静江も自然とそれに続いた。
「健ちゃんタバコ吸ってるぅ」
「灰皿がそこにあったからね」
「灰皿のせいにしないでください」
「はい、ニコチンへの中毒症状が抑えきれず、ブリスベンの街のど真ん中で、お先に一服させていただきました。しかも一吸いしかしてないのに捨てました。なのでもう一本巻いているとこです」と健は嫌味っぽく話した。
 健はタバコを吸うたびに空虚な想いを募らせていた。なんのためにタバコを吸うのかわからず、ただの依存であることを理解しながら、子供ができたらやめるだの、どうせ吸うなら我慢せずに吸うだの、言い訳を連ねて禁煙を先延ばしにしていたからだ。日本に比べてタバコ税が高いこの国に来れば、吸わなくなるだろうと無責任な希望を抱いていた。掴み損ねた空虚な感情を後頭部に据えて、健の指先と舌は訓練された熟練のスナイパーのようにほぼ反射的に動作し、美しい巻きタバコを仕上げていた。
「もったいないね、なんで吸わなかったの?」と麻衣子が健に尋ねた。
 健は一度、八重子の方を眺めてから答えた。
「俺はジェラート屋に行きたいのか、ジェラート屋に誘いたいのか考えてたら吸うの忘れてた」
「なんの話?なんでもいいけど、二人で行ってきたら?私たちは綿飴食べてるから。ね、シズちゃん」
「イエス!行ってらっしゃせ」
「じゃあ行きますか」と言いながら健は八重子の方を見た。
「うん、じゃあまた後で連絡するね」と八重子は麻衣子の方を見て言った。
「はーい、行ってらっしゃーい」

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