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⑤SさんとAさんのこと

 私は産婦人科医といっても周産期専門医なので、今は婦人科がんの患者さんの治療を担当することはほとんどありません。でも10年以上前、産婦人科レジデントだった時代に関わった何人かの患者さんの記憶は今も鮮明に残っています。
 30代のSさんは、子宮頸がんのⅡB期と診断されていました。お子さんはいなくて、職場では責任のある仕事を任されている一人暮らしのキャリアウーマンでした。ある日自宅で多量の性器出血があり、深夜3時に救急センターを受診しました。膣内に入れたガーゼで圧迫し何とか血は止まり、私はSさんに言いました。「Sさん、びっくりしたでしょう。一人で怖かったね。」するとSさんは診察室で突然泣き崩れました。「先生、こんなことならもっと早く子供を産んでおくんだった。こんなことになるなんて思わなかったから…」私は何も言えず、ただSさんの肩を抱きました。
 1週間前に旅立ったAさんのことを考えました。Aさんは40代で、中学生になる息子さんがいました。子宮頸がんが肺に転移して、胸水がたくさんたまって息が苦しいはずなのに、いつも自分より息子さんのことを心配していました。子宮頸がんは「マザーキラー」とも言われ、子育て世代の女性の命を奪っていきます。SさんとAさんどちらがよかったかなんて私にはわかりません。
 長い時間私はただSさんのそばにいました。救急センターに朝日が差し込むころ、Sさんは「先生ありがとう、私もう大丈夫。」と言って治療のために病室に向かいました。
 遠くない将来、全世界で子宮頸がんは過去の病気になっていることでしょう。「ママ、しきゅうけいがんって何?」
「昔そういう病気があって、たくさんの人が亡くなったんだって。ワクチンがまだない時代にね。」
「ふーん…。」
実際に子宮頸がんワクチンを10年以上前から定期接種にしているオーストラリアでは、2034年には子宮頸がんで亡くなる人はほぼいなくなると推計されています。ママもママになるはずだった人も、子宮頸がんで命を奪われることがない未来がすぐそこまできています。Sさん、Aさん、きっと未来は…。

(実際の患者さんとは年齢、診断、背景を変えています)

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