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4.プラハの宿(第4章.旅先で触れた想い出の宿)

 「プラハの春」をご存知だろうか?1968年。当時、ソ連の強い影響下にあったチェコ(当時はチェコ=スロヴァキア)で市民による民主的な変革運動が行われた。その変革運動を「プラハの春」というが、しかし、それはあえなくもワルシャワ条約機構の軍事介入によって押しつぶされることになる。もちろん、多くの犠牲者を出した。

 それから21年後の1989年。東欧諸国の民主化運動が広まり、その影響でチェコ=スロヴァキアもついに共産党一党独裁政権が倒れ、ようやく民主化が実現した。

 私がチェコの首都プラハを訪れたのは2007年8月であるが、以前からずっとプラハには行きたいと強く思っていた。それは、政治によって分断された歴史を背負う人々が今、どんな表情で暮らしているか、見たかったからである。大学時代、国際政治を専攻して、1989年の東欧民主化運動を目の当たりにした私にとって、それは一つの課題とも言える。

 私がプラハ国際空港に到着したのは19:30。そこからバスと地下鉄を乗り継いで今晩泊まる予定のホテルに着いた。しかし様子が変だ。私がホテルのフロント係の男性に名を名乗ると「はい、承知しています」と言いながら、彼は申し訳なさそうに説明を始めた。彼によると、昨日まで宿泊していたある客が病気になって、今晩も連泊することになったという。そして、その病人の部屋がまさに私が今晩使う予定だった部屋だという。だから私は今晩泊まれないと。ああ、何てこった…。それでも彼はここからすぐ近くのホテルに電話して、これからこういう人物がそちらへ行くから、と紹介してくれたのだった。

 そのホテルの名はウ・リリー。場所はすぐに分かった。さっそく中に入ると、50代くらいの女性が迎えてくれた。鍵を渡され部屋へと向かう。受付の建物から一旦中庭へ出て、それから部屋のある建物へと入る。何となくヨーロッパの普通の家に下宿するような感覚である。部屋は極めて質素だが、でもそれがかえって普通の下宿部屋のようでいい感じだ。

 朝起きて、朝食を済ませた後、私はホテルの係員にもう一泊したい旨を告げた。私が当初泊まる予定だったホテルは2連泊で予約を入れていたからだ。急遽決まったこのホテルも2連泊じゃないと予定が狂ってしまう。すると、係員は笑顔で頷いてくれた。良かった。問題無いようである。

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 この日一日、私はプラハ市内を見て回った。「プラハの春」や民主化運動の舞台となったヴァーツラフ広場、プラハの中心である旧市街広場、市内を流れるヴルタヴァ川とカレル橋、それからプラハ城などである。そして再び宿に戻ってきた。

 受付には20代と思しき男性係員がいた。私は彼に明朝6:30頃チェックアウトしたい旨を告げた。この時間に宿を出ないと7:14発の列車に間に合わないからだ。すると彼は「大丈夫ですよ。受付は24時間待機しているので…。もし誰もいないようなら内戦で呼び出して下さい」と言ってくれた。それから付け加えるように「何時に起きます?モーニングコールしますよ」と聞いてきたので「じゃあ、6時」と言って礼を述べた。親切でフレンドリーな青年である。

 翌朝、彼のモーニングコールによって目が覚めた。備え付けの電話が鳴り受話器を上げると、自動音声ではなく「Good morning, sir」という青年の声がした。首都プラハでも小さな庶民的なホテルでは未だに生の声のモーニングコールなのだろうか…私は少し嬉しくなった。

 支度を整え受付に行くと、やはり昨日応対してくれた係員の青年がいた。彼は私の姿を認めると飛び起きて(たぶん仮眠していたのだ)「おはようございます」と言った。会計を済ませると彼は「今、鍵開けますから」と言いながらドアまで導いてくれた。そして私は彼と握手を交わし、2泊した宿に別れを告げた。私は朝の空気を吸い込み、まだ動き出す前のプラハの街を横目で見ながら駅へ向かって歩き出した。

 民主化を成し遂げたプラハの街とそこに住む人々。私は彼の仕事に向き合う姿と屈託のない笑顔を見て、明るい未来を感じた。そして大学時代の課題も解けたような気がした。

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