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1.おとぎの国の宿(第4章.旅先で触れた想い出の宿)

 フランス、バイヨンヌ。この街はスペイン国境沿いにある。いわゆるフランス・バスク地方の中心都市である。バスク地方とは、スペインとフランスにまたがる地域で、独特の文化がある。スペイン、フランスといった行政区よりバスクといった文化圏に強い結び付きを求める。ベレー帽が彼らのトレードマークで、もし街でベレー帽を被っている人を見掛けたら、その人は誇り高きバスク人に相違ない。

 さて、そんなフランス・バスクの中心都市バイヨンヌ。18:00頃到着した列車を降り、駅から街の中心部まで歩いていく。今日は1月1日。この時期、夕刻時になると辺りはもう真っ暗だ。

 アドール川に掛かる橋を渡り、いよいよ街の中心部へと入っていく。まずは今晩泊まる宿を探さなければならない。そう思いながら歩いていると、街のほぼ中央、通りの一画に一軒の小さなホテルが目に留まった。看板には「ホテル・アルショー」と書いてある。とりあえず私はそのホテルに入ってみることにした。ドアを開けた瞬間、何とそこにはユニークな装飾品が壁じゅうを埋め尽くしていたのである。私は壁に掛かる装飾品を物珍しげにキョロキョロ見ながら階段を上っていった。

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 そして受付のある2階の部屋に入ると、またそこには多くの装飾品が壁一面に掛かっている。オルガンや世界各国から集めたと思われる民芸品などである。まるで、おとぎの国へ迷い込んでしまったかのような部屋である。

 「Bonjour! (こんにちは!)」と私が声を張り上げると、やがて宿のオーナーと思われる女性が奥から出てきた。満面の笑みを浮かべた彼女を見た瞬間、私は「ああ、このオーナーにしてこの宿か…」と合点がいった。このユニークな装飾は彼女のユニークな個性そのものであるようだった。彼女は「4階の部屋しか空いてないけど…このホテルにはエレベーターが無くて、上まで上がるのが大変だけどいいですか?」と聞いてきた。もちろん、エレベーターなんて必要ない。当時、私は26歳。若さには自信がある。私は壁の装飾品に威圧されながらも1泊することにサインした。

 さて、4階の部屋へ上がろうと階段を上っていった。しかし、宿の中は真っ暗で階段を上ろうにも上れない。まあ、それでも上ってみよう、と足を踏み出した。その瞬間、何と灯りが自動的に点灯したのだ。なるほど…ここの宿は普段必要の無い灯りは消しておく、というエコな宿のようだ。

 そして、4階の部屋に入った。そこは木を基調とした素敵な部屋だった。木材の素朴な温かみが全体を覆っている。それだけで心が休まるようだった。

 翌朝。朝の陽射しが部屋の窓辺に降り注いできて目が覚めた。目覚まし時計ではなく、朝の陽射しで目が覚めるなんて初めての経験だ。私は朝食を取りに2階の食堂へと下りていった。宿の中央部分は吹き抜けになっていて、そこから明るい光が入ってくる。そして階段の踊り場には沢山の植物が飾られている。

 今にして思えば、この宿のオーナーは自然なもの、そしてスローな生活スタイルを試みている人だったのかもしれない。私が訪れたこの時は1996年。この当時から自分の生き方として、このような生活スタイルを実践していたとしたら、かなり先進的な考えを持ったオーナーである。今、21世紀になって我々が必要としているものを彼女はずっと前から理解していたのもしれない。自分の生活スタイルをきっちりと確立していたから、あのような満面の笑みを湛えることが出来るのだろう。

 宿を出る時、私は彼女とこの素敵な部屋で写真を撮り合った。ヨーロッパの小さな宿の良さが凝縮されたこのホテル。私は彼女に「Au revoir(さようなら)」と言って、おとぎの国のような宿を出た。彼女ももちろん、満面の笑みで「Au revoir(さようなら)」と返してくれた。

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