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[無いものの存在]_29:普通足は持たない

夏の間にたくさん汗をかいたせいか断端がだいぶ細くなってきた。早ければ年内に本義足の制作に入るかもしれないのだけど、断端はリバウンドすることもあるらしいのでもう少し様子を見てみる。

断端が細くなって義足のフィット具合が変わったせいか、最近つまずきそうになることが少し増えた。転びはしないのだけど、義足が予想に反して放り出されるような、相棒に意表を突かれる瞬間がある。これは自分としては結構小気味好いのだ。「お、元気だな」みたいな意思疎通の一種として成立している安心感がある。これが転ぶところまでいくと付き合い方が悪くなりそうなのだけど、「お、元気だな」の瞬間に頭より先に体が対応できる程度なので、義足も加減が分かってちょっかいを出してきている感じだ。
この時に左足、義足を駆使してダダダッとステップを踏んで対応するのだけど、その時に足がどうなっているかは後から考えても全く思い出せない。体が勝手に反応していて、この動きだけを取り出して再現することはできないのだ。
もしかすると仕事の合間や手持ち無沙汰な瞬間、僕はよく小走りのように足踏みをしたり、わざと義足の爪先やかかとのバネの反動を楽しむ動作をしているのだけど、何気ないこういうコミュニケーションの積み重ねが瞬間的な対応に繋がっているのではないだろうか。それくらい義足が楽しめている感覚がある。実際に義足って乗り物としてかなり面白いのかもしれない。

こんな風に義足から積極的にしかけてくるようなコミュニケーションもあるのだけど、一方で結構甘えん坊なところもある。
例えば足を組んだりあぐらをかく時には手で義足を持ち上げたりしなくちゃいけない。多くの人は普段足を手で動かすことなんて無いだろうけど、義足はやたらと手のお世話になっている。
足を組む時だけではなく、そもそも義足を履く時も相当手のお世話になっている。シリコンライナーを断端に装着して、断端袋を履いて、体の向きと揃えて義足に断端を通す。今はピン式のライナーなので、義足のソケットの穴にピンを通して、横に飛び出した金具を回してピンが抜けないように締めていく。この一連の行程は当たり前のように手が寄り添っている。
手と足がこんな風に頻繁に関係を持っていることに気がついてみると、義足は「足」という機能だけでなく四肢のメディウムとなって、体を使わせているように感じられる。義足と手(を含めて全身)は、お互いがお互いの存在を必要とするので、そこには腹黒さもあるのかもしれない。
装身具の類はこうやって単一の機能に収まらずに体の動きを誘発してくれる。この動きが意識化せずに発動できる状態が体の負担が少ないはずで、それはつまり心理的な不安も軽減された状態だ。「転ぶかも」というような意識は、体と義足のリズムを乱すので、そこに介入しないような設定を自分自身の心と体に与えていかなければいけない。それは義足を履いて歩き出すことよりももっと前から始められるはずで、外した義足をよく見るとか撫でるとか、幻肢を仲介させるとかから「義足」が始まっている。
最近は様々なトークイベントやミーティングがオンライン化していることが、対面の代替としてではなく新しい場の設計が求められることと似ているように、義足は足の代替ではないのだろう。
そんなことも考えながら、本義足は「義足が喜ぶ仕様」に仕上げたいと思い、色々準備を始めている。体と幻肢と義足がハイブリッドするような本義足が作れそうな気がする。

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