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[無いものの存在]_18:幻肢 on 義足

最近すっかり義足のことばかり気になってしまっていたけど、実は義足での歩行時にも幻肢がよく現れていた。今感じる幻肢はどの様なものかというと「幻肢痛の当事者研究」で書いた漠然型に近い。

幻肢を感じる一方で幻肢痛はというと、年末に退院して日常生活に戻るにつれて痛みは少なくなった。リリカも年が明ける前には飲まなくなっており、今では痛みは無くなっている。看護師から幻肢は時間が経つにつれて短くなることが多いと聞いていたが、確かに徐々に断端に吸収されてきて、それに伴い感覚が漠然となり、痛みも薄れたのだ。

幻肢痛が無くなるが幻肢の感覚は消えずに残るのが面白い。
むしろ義足を履き出して感覚は強くなってきて、最近だともはや足があるように錯覚すらする。

幻肢痛を強く感じたのは切断から義足の仮合わせまでの約43日間。
痛みはなくなったけど幻肢の感覚が戻ってきたのは特にリハビリ期間の10日間。
仮合わせから今日に至る約40日間で足があるように錯覚するくらいになる。

切断後から約ひと月ほどは痛みも続いていたが、痛みが落ち着いてきた頃に義足を履き出すと、さらに格段と痛みは無くなった。
これは足のイメージが具体的に補完されたということもあるかもしれないが、それよりは断端を動かすようになり、筋肉がほぐれたことによる効果が大きかったように思う。
義足で杖なしで歩けるようになってきたのがリハビリ開始3日目くらい。
この頃から徐々に幻肢と義足の重なりが強くなったのだ。それはPTの方からも「断端の先まで意識して歩くように」とアドバイスをもらったことも助けになった。断端の先端の筋肉を意識して歩くようになると、断端で義足を掴んでいる感覚になったのだ。それはまるで断端に吸収されつつある幻肢で杖を掴んでいるようなイメージだ。

さらに、リハビリ期間中の外泊で義足と幻肢の重なりを強める工夫を発見していた。

それは長ズボンだ。

リハビリは義足の調整などをしやすくするために短パンを履くように言われていたので、外出時も義足+短パンが定着していた。外泊中と車移動ですぐに室内に入れれば短パンでも寒い思いはしないし、短パンから伸びる義足はめちゃくちゃかっこいい。
履かせるのも面倒ということもあり、義足に長ズボンを履かせることはしばらくなかった。
しかし、ある日外を歩くにはあまりにも寒くて長ズボンを履いて外出した際、ふと足元を見るとあたかも右足があるように錯覚を起こしたのだ。
これは明らかに視覚による錯覚だ。
右足の靴が見える。座っていて、長ズボンで義足が隠れている。同時に幻肢を感覚すると、まるで右足が痺れているような気持ちになり、足裏から地面の感覚まで伝わってくるようだった。

打ち合わせ中だったのだが思わず心の中では「あっ!」と驚いていた。
義足の仮合わせの日にも、義足をまるで足があるかのように手でさすり、身体のどこに義足があるかをインプットすることを意識していたのだが、長ズボンによって視覚から自分の頭を騙すことが、義足に乗る一体感を強めるのに役立つとは。
それからなるべく義足を視野に入れずにつま先を見ることで、「視覚から足があるように錯覚→幻肢の感覚を義足に重ねる→足先まで意識して歩行する」というサイクルをつくって歩くようにした。
もちろん以前書いたように歩くときはリズミカルに。

この感覚でリハビリ施設を退所すると、みるみる幻肢と義足が重なり出した。それは単純に人工関節だった今までの足とも違う。足っぽい乗り物と生身の体が溶け合い、無いものに血が通うような感覚だ。
このnoteを書き出すときに考えていた「無いものを感覚するなら、感覚さえすれば無いものを作り出せるかもしれない」という仮説に近づいたのかもしれない。

幻肢が義足にパイルダーオンする。
単なる錯覚や勘違いで終わらずに、切断後にも足先に漂う足だったエネルギー≒幻肢を残った断端と義足を接着するために活用し、身体図式を書き換えることに転用できているのではないか。
「幻肢痛」という痛みの症状として片付けるのではなく、もっと義足での歩行に役立てる治療やリハビリがあるのかもしれない。これは義足の性能が良くなってきている現代だからこその可能性だろう。

と、可能性をひらきたい一方では、まだまだ知らない複雑な状況も見え隠れする。
医師によっては義足についての知識が不足していて、患者さんの年齢だけで義足の選択肢を提示しないケースもあると聞く。義足のパーツ選びだって保険制度の違いで選択肢は変わってきてしまう。その背景は切断の理由の違いがある。例えばアメリカでは元軍人という患者も少なく無い。それは義足の市場の違いとなって現れる。
この義足に重なっている幻肢も、見えない肉体としてだけでなく、その輪郭はあらゆる文化によって形成されていることをひしひしと感じる。

義足に靴下を履かせるべきか。
律儀に爪まで再現された義足のつま先を見ながら、この足が背負ってきた文化について考える。

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