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[無いものの存在]_37:義足の価値はどこにあるのか?

本当だったら他愛もない時間が流れたかもしれない日常の余白が、特にこの数ヶ月はコロナとオリンピックで埋められていってしまったことが心をどんよりさせていた。極力そういう大きな話題から距離を置い過ごしていても避けられるものでもない。これらの話題に対した本当にちょっとした考えの違いが、まるで大きな溝のように出現してしまう瞬間は多くの人も経験したんじゃないだろうか。
自分から遠くにあって全貌が見渡せないような出来事としての大きな物語によって、小さな主語で語らていた物語がバサっと払われてしまう、とでも言えるかもしれない。
それは「無いものの存在」を通して考えてきたことのひとつだった。

すっかり時間が経ってしまったが、7月中旬にやっと本義足の制作に向けた「判定」を受けることができた。「判定」とは、本義足の制作費を自治体で補填してもらうために専門家へ使用したいパーツを提示し、本当にそのパーツが妥当かを判断される機会のことだ。これは自治体や義足になった理由が事故か病気かなどによっても少し内容が異なる可能性があるので、あくまでも僕のパターンのことである。
仮義足は患者に必須の医療器具なので比較的自由にパーツを選択できたのだが、本義足では第三者による判定があるため、極端に性能が変わらないために仮義足の時から本義足でも許可が降りるであろうパーツを選ぶことが多いようだ。僕が仮義足で選んでいた足首のパーツやカーボン製の棒は少々高価だったので、本義足で弾かれる可能性があることは以前から義肢装具士に言われていた。判定を受ける際は「今の自分の生活からするとどうしてもこのパーツじゃなきゃいけないんです!」と強く訴えるしかなく、チャンスは1回のみ。判定前に義肢装具士からも励まされながら、絶対に判定を通してやるという意気込みで会場へと向かったのだ。
「判定」では、作業療法士、義肢装具士、医師の3段階があることは当日会場で受付を済ませた後に知った。そんな少年漫画みたいな勝ち抜きシステムなんて聞いてないぞ・・・と既に準備不足を感じながらも判定がスタートする。
診察室に通された後、まず使用している仮義足が義肢装具士によって別室へ持っていかれたところで、相棒のいない生身の僕と作業療法師とのファーストラウンドが始まった。現在の生活状況や義足の使用感など、基本的な質問が続いていき、徐々に本義足で使用したいパーツに関する質問へと移っていく。するとそこへ仮義足を持った義肢装具士も現れ、「やけに義足が汚れてますけど、何してるんですか?」と投げかけてくる。僕はDIYで塗装作業などをしたり、農作業をするし、そもそも義足が汚れても気にしていなかったので「それって汚れてるほうなのか?汚れてちゃいけないのか?」とか頭をぐるぐるさせられてしまった。まるで陽動作戦のような連携プレーに完全にペースを持っていかれてしまった。そこからはもう手も足も出ず、足部やカーボン素材についてはもっと他の選択肢があることを提示されたところで最終局面、医師が登場する。ここは呆気ない問診と歩行確認、提示されているパーツの確認などで全3ラウンドが終了となった。

別に勝負事じゃないし、優しい3人だったのだが、なぜか少し悔しい気持ちで診察室を後にすることになった。もちろん多くの患者さんや義足を見てきたプロなのだろうけど、初めて会った人たちに自分がこれからほぼ一生使うだろう足を、それぞれの経験知と共通言語化されたカタログのスペックと金額で選択されてしまうのは、どうしても釈然としないというのが正直なところだ。
この違和感はどこからくるかというと、義足に対する価値観をどうつくっていくかというところにあるのかもしれない。
人の体に対して「親指はもっとこういう方がいいんじゃない?」と言う人はなかなかいないだろう。しかし、他人の体に向かって「もっとこうしたほうがいい」が言えるのが義足だ。
代わりの利かないことによる唯一性によって大切にされるのが生身の体なのだとしたら、まさに“代わりが利いてしまう”義足は、自分だけのものではなくなっていく。ここに義足を作ったり使ったりすることの面白さがある。

少し横道に逸れてみる。
例えばアートにも様々な価値観がある。作品を売り買いするアートマーケット、特定の地域で開催される芸術祭などはそれぞれに異なる評価があるとも言える。アウトサイダーアートと呼ばれるジャンルでは、製作者本人が「アートだ!」と自己申告するだけでなく、例えば製作者が何らかのかたちで他者とのコミュニケーションが難しい場合、製作者の近くにいる介助者などがその作品の面白さを見出して世に発表するケースがある。他にもストリートアートに詳しい人は「グラフィティが面白いのは、グラフィティの良し悪しを決めるのは批評家やギャラリストじゃなくて、実際に街に立つグラフィティライターだってところなんだ」と言っていた。
製作者の置かれた環境や創作の意図は様々でも、アートというシステムの中では常に批評家やキュレーター、コレクターなど価値を価値と認めるための評価をする選定者が介在しているのでした。だからこそ美術の文脈によって紡がれる歴史や、それを参照することで現れる新しい表現、そしてそれらの新陳代謝が育んでいく価値もある。

しかし、「無いものの存在」でも当初から考えていたのが、特定の個人にとっての価値が必ずしもこうした大きな歴史の価値と同列には語れないことの難しさだ。幻肢の経験や義足での生活を通して感じたのは、その人自身にとって切実な事実と向き合うこと、そしてその時に生まれる様々な工夫に秘められたアートというシステムをすり抜けてしまう創造力の存在だ。それは社会に溶け出してしまった自分の存在を、小さな体に取り戻していくような体験でもあり、アートという言葉に頼らずに創造力の在り方を問う大切なきっかけとなっていった。これはアートに携わる者としてそんな創造力の存在の予感はあったものの、確信を持ったり言葉にするのはとても戸惑うものでもあった。

ところが、本義足の制作を行うにあたり、初めて自分の義足に他者の価値観が介入してきたのでした。もちろんそれまでも作業療法士や義肢装具士からのアドバイスによってパーツを選んできたのだけれども、そこには常に時間をかけたコミュニケーションがあった。
普段の仕事で初めてのクライアントに対してプロジェクトを提案する時は伝達モードで入ることになるけれど、そこから双方が同じ目的に向かうための生成モードの会話に持っていけるかが、プロジェクトを円滑に進める肝になる。恐らく僕と作業療法士や義肢装具士との間ではこの生成モードに早くから入れていたのだ。それは義足の背景を知ろうとしたり、自分の仕事について話をしたりと、目の前の義足の周囲にあるものが義足を包み込んでいくような時間があったからだろう。
しかし、本義足の制作では判定者との間では伝達モードのみだった気がしている。どんなことができる義足が理想か、どんな風に義足を使いたいか、そういった話をする余白はなかったのが残念だった。

義足の価値はどこにあるのか。それはやはりあくまでユーザーにとっての価値だろう。しかし、義足はユーザーが全て作れるわけではない。だからユーザーだけじゃなくて技術者や制度を総動員して制作する。そして個々のユーザーの評価がこれから義足になる人の価値観を作っていくんじゃないだろうか。そこには小さな物語から紡げる大きな物語があるのかもしれない。だから僕は最大限に義足を楽しんでみたいと思うのだった。

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