[無いものの存在]_19:存在の空白
最近ふと、「あ〜、右足無いな〜」と思うことがある。
正確に言えば、以前よりも歩けるようになったぶん、義足を外した時のギャップで、足が無いことを考えるのだろう。
今更か!と思われるかもしれない。
自分でもちょっとそう思う。
人工関節でも義足でも運動性能の違いはあるが、切断前から18年間“障害者”をやってきたし、今もそれは変わらない。変わったことはシンプルに、人工関節を覆っていた生身の外装が無くなったということだ。
前回、長ズボンによる錯覚から歩くサイクルをつくることを書いたが、自分の身体をどう認識するかにおいて、見た目って結構大事なのかもしれない。
かと言って義足につけるスポンジの外装はダサいから付けたく無いのだが。
「あ〜、右足無いな〜」と思うことに自分で驚いてしまったのは、その先に「あること」の選択肢や「あったこと」の経験が広がってしまうことへのちょっとした恐怖心だったからだ。
切断直後は、これまでの右足が抱えていたデメリットが一挙に無くなったのでスッキリした眼差しで見つめていたのだが、いざ義足も付け出して生活に戻ると、「いや、右足無いじゃん!」と改めて気がついてしまう。
無くなって価値が分かるとか、そんなことじゃない。自分の体が無くなるって凄いことで、よく切断後1週間ほどでのうのうとnoteなんて書けたものだ。(書いたけどのうのうとnoteはかけてない)
もしかしたら幻肢の感覚も戻っている今だから余計に頭も混乱しているのかもしれない。しかし「右足無いな〜」の先にぼんやりと顔を出す恐怖心はすごく表層的に、ゾワっとする。
義足を履く時はいいんだけど、疲れて夜遅く帰宅して、暗い部屋で義足を脱いで現れる断端の素の顔が、まだ道具(義足)の面影がへばりついているようで、もぎたてっ!みたいな独特な新鮮味に、この足の先に何が居るのか自分の身体ながら驚きが隠せない。
そう言えば先日、タトゥーアーティストから身体完全同一性障害の話を聞いた。詳述はしないが、自分の体に四肢があることに違和感を感じて、自ら進んで手足を切断する人たちのことだ。心身の一致は人それぞれに異なる。その分かれ目は先天的なものなのだろうか。
反対に義足の先にも人の姿を感じる。
この義足の先にも僕の身体の残り香がこびりついているのかもしれない。
義足と体の狭間に存在の空白があるのだろうか。
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