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[無いものの存在]_23:仮義足の完成と幻肢の常態化

先日ようやく仮義足が完成した。
3月末にはほぼ完成していたのだが、緊急事態宣言で義肢装具士も自宅待機になっており、納品が遅れた足部のパーツの付け替えのタイミングがなかなか合わなかったからだ。

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靴を履くと見た目はほとんど変わらない。
でも、実はリハビリ期間中とは違う仕様にしてもらったのがつま先だ。本当に役に立つのかは分からないけど、サンダルなどが履けるように指先が分かれているタイプにした。
鼻緒を挟めてもかかとはパカパカ浮いて脱げる可能性があるので、結局サンダルも足首と固定できるようにした方がいいらしい。物は試しでこの仕様にしてみた。

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よく「この足の型は自分の?」と聞かれるのだけど、全くの既製品である。
でも切断前の足を型取りするのもおもしろいかもしれない。デスマスクならぬデスフット。切った足の遺灰でも塗り込んでおいたら幻肢がより鮮明になったりして。

ちょっと歯切れの悪い完成だったけど、これでひとまず物は揃った。
借りっぱなしだったデモ機から納品された新品の足部に付け替えをしてもらったところ、以前試した他の足部が大幅に値下げされたことを義肢装具士に教えてもらった。本義足を申請するときはそちらのパーツの方が審査が通りやすいかもしれないとのことだった。「仮」義足といっても基本的には「本」義足と変わりはないのだけど、つくる制度が異なるので、そのことを見据えたパーツ選びが必要になる。使い勝手とお金の天秤。切断にかかる一連の医療費と生活費は馬鹿にならないし、それがこのコロナで仕事も減少するのと重なるとは。自分の身体のはずなのに、お金や制度に左右されてしまうのも釈然としないこともあるが、良い義足を組み上げることができたと思っている。

義足にはすっかり慣れて難なく使えているのだけど、リモートワーク生活の影響なのか、断端が太った…。断端袋をすると義足が履けない。断端袋無しで履いてもしばらくは断端が締め付けられる感じがある。
そのせいなのか分からないけど、正座した痺れみたいな感覚の幻肢がずっと漂っているようになった。幻肢が常態化してきたというか、感覚の振り幅が無くなっている。
さらに、最近ついに幻肢に痒みを感じた。もうこれはどうしようもなくて、体の奥が痒くなるあの感覚が断端の先の方に走るのだ。もうこうなるととにかく断端をジタバタして痒みが治るのを待つしかない。

痒みも幻肢が常態化してきた兆候かもしれない。幻肢が切断前の足の記憶に依拠しているならば、痛み以外の新しい感覚のレパートリーは、その記憶が補完されてきたということだ。
記憶の補完というのは、幻肢の形状の変化にも見られている。現在常態化してきた幻肢は義足を履かない時は断端から円錐形に伸びている。思い返せば切断直後は足の記憶が鮮明だったが、しばらくすると忘れて記憶がとっ散らかり漠然とした印象だった。しかし常態化すると「足って確かまっすぐ伸びた棒みたいなやつだよね」という確信性が高い記憶だけが選択され、幻肢が構成されていったんじゃないだろうか。
義足に慣れてきても、義足の有無によって幻肢の感じ方が異なるのはそのせいだ。他人から「ほら足ってこうだったじゃない!」と言われて「あー、そうだったそうだった」と思い出すように、義足を履くと足先の感覚が義足と同期される。
しかし外すとまた「あれ?」となる。

しかもこれは意識的に思考して幻肢を発現させているわけじゃない。物(義足)との接触によって体が反応するところに、僕は観察者として居合わせることから始まり、うまくいくと幻肢をリハビリに役立てたような能動的な関係まで結べる。幻肢の常態化は自分にとっては今後の2つの可能性を示す気づきであった。つまり「義足によってどんな動きができるか」というフィジカルなお題と、「無いものを存在させる」ことへの確証が持てるようになったからである。
幻肢がずっと以前の足の記憶を頑なに守っていたら、幻肢は「足」でしかいられない。しかし、明らかに義足との関係によって「足」的になるのだとしたら、これは足の模倣ではなく移動のためのアフォーダンスとなっていることを示しているのではないか。「義足によってどんな動きができるか」という問いをもう少し僕の関心の深いところに持っていけば『人はどんなときに“出来る”と思うのか』ということである。
例えばけん玉には紐に剣先を乗せるこんな技がある。

これを初めて見た時、出来ることの驚きよりもそもそも「できる!練習しよう!」というトリガーに指をかけたことが不思議でならない。これは限定された意味を正確に読み取っていてはできない動作だというところまでは検討がつく。しかし、人はどうやって「できる」と思えるのか。
以前僕と同じ膝パーツの義足で階段を一段ずつ登る人がいると書いたが、それも普通にリハビリで教わるような義足の使い方からは想像もつかない動作である。この中で「できる」トリガーを引くためには、アフォーダンスのように人と環境の関係の可能性に着目しないと発想できないことだと思うのだ。

このトリガーは上達したけん玉プレイヤーのように、アフォーダンスを体現するフィジカル面を高めていくことでしか引くことができないのかというとそれだけではない気がする。「無いものを存在させる」という視点がちょうど同じ山を反対から登るような(しかも今まであまり通った人のいない獣道な気がしている)、フィジカルが無いところからアフォーダンスするような道のりになるのではないか。
幻肢の常態化は義足の有無によってその存在が安定して変容することを教えてくれた。「無いもの」という不可視性は、客観的な事物(つまり義足)との関係を通じて体と思考に可塑性を生じさせる。行動が思考へと影響し、その逆もまた然り、であるならば切断を通じた一連の変化にフィジカルな側面とコンセプチュアルな側面の連動を見出してきた「無いものの存在」は、ここに来て「心身の可塑性」という視点から再出発点できるかもしれない。

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