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[無いものの存在]_08:「痛み」の決め方

「今の痛みを0〜10で言うとどれくらいですか?」

術後毎日のように看護師や医師から聞かれる質問がこれ。
数字が前日とどう変わっているかを見て、良くなっているか判断材料にするのだろう。
でも、そんな簡単に痛みを0〜10で簡単に言い当てられるものだろうか。

正直毎日この質問を投げかけられて嫌になってきていた。朝晩で交代する看護師から毎回のように聞かれる。
嫌になる理由は、主観的な10段階の評価を共有したところでお互い大したリアクションの無いやりとりだということ以外に、「痛い」ことを前提とした質問が身体をネガティヴにしているということだった。

これまでの日記でも「幻肢痛は痛みじゃないのかも」と書いたが、この質問は患者の幻肢感覚を「痛み」と断定して問いかけてきているのだ。
数値で患者の状態を把握しようとすることは簡単に言えば“管理”じゃないだろうか。
ほとんどの医師や看護師が経験したことがないのだから、幻肢痛という状況に対して、そもそもそれは本当に痛みなのかという問いから共有してくれる姿勢があっても良さそうな気がする。
いっそこのnoteを読んでもらおうか。

確かに、ビリビリした感覚は常にあるし、夜は寝付けないくらい幻肢がズキズキする。
これは所謂「痛み」と呼ばれる類の感覚かもしれない。
でもそこに右足はない。
この感覚をなんと表現するかは、失恋で落ち込んでいる友人に寄り添うくらい慎重に言葉を選んで欲しい。
これが本当に「痛み」なのかどうか。
そこから出発して言葉を交わさないと、安直に「痛み」のレベルを聞き続けるだけでは、これが10段階に分類される痛み以外のものではなくなってしまう。
質問される側は「そうか、これは痛みなんだ」と信じ込んでしまう。
もちろん、四肢を切断した人は、幻肢痛は辛かったと語るだろうし、それは実際に今自分が経験している。
ただ、それでも無い足を感じるこの感覚を、「痛い」とだけ認識して、薬を飲みながら痛みが薄れることを待っているのは、もったいない気がしてならない。

「無いものの存在」に耳を傾けること。
それは例えば今の社会の中で抑圧されている様々なマイノリティや、まだまだ可視化されない不安に苛まれている人の存在の声と重なる。
名指すことのできない歪みはきっと社会の様々な場所に知らず知らず現れているはずだ。それは普段僕たちが当たり前に信じているものの形では目に見えないから、そこに漂うエネルギーみたいなものを不快に感じて見ないふりをしているかもしれない。幻肢痛のように。
アートにはそうした声に耳を傾け、時には一緒に声を上げ、多くの人々を巻き込む力がある。最大公約数ではない"個"が"公"をつくっていくことがある。
だから幻肢痛だって、この「無いものの存在」のひとつとして向き合いたくなった。
幻肢痛から社会的マイノリティの存在まで。
思考を飛躍させているのはアートという技術を通じて可能になったことだと思うし、それが身体感覚から思考するということだ。

それから身体は社会的な影響を受けて出来上がっている。メディアに映るイメージや衣類・装身具。まちそのものも関係を様々なかたちで身体を規定している。(スケートボードは都市のかたちを読み換える身体的な作業だ。これはイアン・ボーデンとかが論じている。)
だから僕はまちを歩くことが好きだし、その経験はキュレーションの技術としてフィードバックされている。以前HIPHOPについて書いたのも、リアルを語る中で立ち上がる“個”であったり、都市を見つめる身体感覚があるからだ。

年明けに義足ができることになった。
義足で歩くまちはどんな風に変わっていくだろうか。

それと、19日に退院することが決まった。

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